第2 不存在

意識は、深く、昏い水底から引き上げられるように浮上した。


最初に感じたのは、消毒液と、微かなかびの匂い。次いで、肌を刺すような人工的な冷気。

まぶたを押し上げると、視界に飛び込んできたのは、均質的な光を放つ、白い天井だった。

蛍光灯ではない。パネル型の、継ぎ目のない照明。

まるで、手術室か何かを連想させた。


「…………っ」


上半身を起こすと、妙な倦怠感が全身を支配していた。二日酔いとも違う、思考の芯が麻痺しているような感覚。

拘束はされていない。だが、自由だとは到底思えなかった。


ここは、部屋、だった。


壁はおそらくコンクリート製だが、表面は滑らかに処理され、奇妙なまでに継ぎ目がない。

俺が座っていたのは、簡素なベッド。その向かいに、床に固定された金属製の机と、椅子が二脚。

ありふれた取調室のようにも見えるが、そのすべてが、どこかいびつだった。

部屋の隅には監視カメラ。壁の一面は、おそらくこちら側からはただの鏡にしか見えない、マジックミラー。


――完璧な、密室。

日常から、完全に隔絶された空間。


「……さて、と」


俺は、誰に言うでもなく呟いた。


状況の整理だ。

思考を、回せ。


俺は昨日の放課後、親友の灰葉遊一と、例の路地裏へ行った。

そこで、〝声だけの女〟に遭遇し――遊一は、消えた。

俺は、〝ソレ〟に触れた。

そして、黒服の連中に、確保された。


そこまでの記憶は、確かだ。

つまり、ここは、あの連中の施設、ということになる。

警察か、あるいは、それ以上の国家権力か。

ふざけた話だ。これは、どう見ても誘拐監禁の類だろうが。


「お役所にしては、随-分と趣味の悪い部屋ですね。ドラマでよく見るカツ丼とかは、出ないんですかね?」


軽口を叩いてみる。

返事はない。だが、ミラーの向こう側には、間違いなく誰かがいる。

俺の、言葉一つ一つを、値踏みするように。


ガチャリ、と。

不意に、部屋の唯一のドアのロックが外れる音がした。

重い金属製の扉が、驚くほど静かに開く。


そこに立っていたのは、一人の男だった。


歳の頃は、三十歳前後だろうか。

着古した、しかし上質そうなスーツ。緩められたネクタイ。寝癖のついた黒髪。

全体的に、ひどく気怠げな雰囲気を纏っている。

徹夜明けのサラリーマン、と言われれば信じてしまいそうだ。


――だが。


その男の、右の眼は、固く閉じられていた。瞼の上を、一筋の古い傷跡が走っている。

そして、左腕。袖口から覗く手首から先は、無機質な、黒い金属でできた義手だった。


男は、部屋に入ると、俺に一瞥いちべつをくれた。

その隻眼は、凪いだ水面のように、何の感情も映していなかった。


「気分はどうだ、不知月 しらづき かなめ君。鎮静剤は、体に合わなかったかな」


その声は、彼の見た目と同じように、ひどく乾いていた。


「……あんたが、ここの責任者か何か?」


「まあ、そんなところだ。俺は黒谷くろたに。黒谷 宗司くろたに そうじだ」


黒谷と名乗る男は、俺の向かいの椅子に、どさりと腰を下ろした。

机の上に、くしゃくしゃの煙草の箱と、ライターを置く。


「単刀直入に聞こう。昨晩、お前が体験したことを、覚えている限り話せ」


「話せば、ここから出してもらえるのか? それに、俺のダチ――遊一は、どこにいる」


「質問に質問で返すな。それは、交渉のテーブルに着く前の男の作法だ」


黒谷は、まるで駄々をこねる子供を諭すような口調で言った。

こいつ、食えない。

俺の軽口も、焦りも、すべて見透かした上で、自分のペースを一切崩すつもりがない。


「……見たままですよ。都市伝説を試したら、本物が出た。ダチが、アスファルトに引きずり込まれた。助けようとして、俺は〝アレ〟に触った。それだけだ」


「〝アレ〟に触れて、何が見えた?」


「……ノイズと、意味の分からない声。それだけだと言ってる」


嘘だ。

俺は、あの瞬間に流れ込んできた情報の奔流を、その本質を、本当は理解している。

だが、それをこいつに話していいものか。

こいつらは、一体何者で、何を目的としている?


黒谷は、俺の答えを聞いても、表情一つ変えなかった。

ただ、静かに煙草に火をつけ、紫煙を細く吐き出した。


「そうか。……まあ、いい。お前が話そうと話すまいと、事実は変わらん」


「事実?」


「ああ。この世界には怪異かいが実在する。そして、俺たち『警視庁警備部特務課』――通称〝怪異蒐集課かいきしゅうしゅうか〟は、それを人知れず処理する組織だ。お前が昨日見たものは、その怪異の一種にすぎん」


ケ-イ-シ-チ-ョ-ウ。

その単語が、やけに重く響いた。

警察。やはり、国家機関か。

だが、警備部の特務課とくむか? 聞いたことがない。


「……何言ってんだ、あんた。怪異? 蒐集課? 集団で頭でもおかしくなったのか? 俺は被害者だぞ。目の前でダチが消えたんだ。ふざけた芝居に付き合ってる暇は――」


「信じなくていい」


黒谷は、俺の言葉を遮った。


「お前は既に、その目で現実を見ているんだからな」


その言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。

そうだ。

俺は、見た。

俺の常識が、論理が、悲鳴を上げて否定しようとも、あの光景は、紛れもない現実だった。


「一つ、教えてやろう、不知月 要。お前の親友、灰葉遊一君の事件が、今朝、社会的にどう〝処理〟されたか」


「……なんだと?」


「昨晩20時頃、中央区八番街の路地裏で、老朽化したガス管が小規模な破裂事故を起こした。幸い、負傷者はなし。付近にいた数名の通行人が、衝撃で一時的な記憶障害を訴えているが、命に別状はない――これが、今朝のニュースで流れた〝事実〟だ」


全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。


ガス管の、破裂?

記憶障害?


ふざけるな。あれは、そんなものではなかった。

俺が見たものは。遊一が体験した恐怖は。

そんな、ありふれた事故の一言で、片付けられていいはずがない。


「……目撃者は、俺だけじゃなかったはずだ。あの時、何人か、通行人が……」


「ああ。彼らは皆、専門のの処置を受けて、昨晩の出来事を〝正しく〟思い出すだろうよ。ガス爆発の閃光と衝撃音を、な」


「……ッ!」


情報操作。記憶処理。

この組織は、それだけの力を持っている。

一個人の真実など、いともたやすく握り潰し、世界から〝なかったこと〟にできる、強大な力を。


「じゃあ、遊一は……! あいつのことは、どうなるんだ!?」


俺は、叫んでいた。

椅子を蹴立て、机に乗り出すようにして、黒谷に掴みかかろうとする。

だが、黒谷は微動だにしなかった。


その隻眼が、初めて、俺を真っ真っ直ぐに捉えた。

それは、幾度となく修羅場を潜り抜けてきた者の、底なしの深淵を湛えた瞳だった。

俺の怒りも、焦りも、悲しみも、すべてを飲み込んで、なお揺るがない、絶対的な強者の眼。

俺は、その眼光に射竦められ、動きを止めていた。


「……落ち着け」


黒谷は、もう一度、深く煙を吸い込んだ。

その紫煙が、まるで俺たちの間に、取り返しのつかない境界線を引くかのように、ゆらりと立ち上る。


、灰葉遊一君は、昨晩から行方不明だ。家出人として捜索願が出され、いずれ――見つからないまま処理される。それが、この国のルールだ」


いない。

その事実が、巨大な鉄槌のように、俺の頭を殴りつけた。


遊一が、〝いない〟。

あいつが生きていたという事実も、俺と馬-鹿な話をして笑い合った時間も、この世界から消されて、ただの〝行方不明者リスト〟の一行になる。

そんな理不-尽が、許されていいはずがない。


「ふざけるな……。あいつが〝いない〟なんて事実に、世界が勝手に書き換えていいはずがないだろうがッ!」


俺の叫びは、吸音材に覆われた壁に、虚しく吸い込まれて消えた。

黒谷は、ただ黙って、俺が落ち着くのを待っていた。


やがて、俺は崩れるように、椅子に座り込んだ。

無力感が、全身を苛んでいた。


黒谷は、静かに立ち上がると、机の上に、一枚の書類を置いた。

いや、それは紙ではなく、薄いタブレット端末だった。

画面には、一件の報告書が表示されている。


【事案コード:C-8-23 通称〝声だけの女〟に関する被害報告】

対象者:灰葉 遊一(17)

状況:霊素空間への引き込みを確認。対象のロストを確認。


無慈悲な文字列が、俺の網膜に焼き付いた。

限りなく、ゼロに、近い。


「…………」


言葉が、出なかった。

希望を、断ち切るための、宣告。

これが、こいつらのやり方か。

絶望の底に突き落として、心を折り、従わせる。


「……これが、組織としての公式見解だ」


黒谷の声は、どこか他人事のように響いた。


「上の連中(・・・)は、お前のような存在を、貴重なサンプル(・・・・)だと考えている。今後のためにも、丁重に〝保護〟しろ、とのお達しだ」


俺の心が、完全に闇に沈みかけた、その瞬間。


黒谷は、吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、静かに、しかし、それまでの気怠げな雰囲気とは明らかに違う、芯の通った声で言った。


「――だが、


俺は、顔を上げた。

黒谷は、その隻眼で、再び俺の魂を射抜くように見つめていた。


「〝蒐集〟されたわけじゃない。ただ、連れ去られただけだ。あいつがまだ、怪異の中で〝情報〟として生きている可能性は、限りなくゼロに近いが――ゼロではない」


「……何が、言いたい」


「お前だ、不知月 要」


黒谷は、机に、義手の指先をついた。

コツン、と。

硬質な音が、静寂を切り裂いた。


「組織がどう考えようと、俺個人の意見は違う。お前は、サンプルなんかじゃない」


「お前は、〝ソレ〟に触れて、正気を保ったまま、生き残った」


「それは、お前が〝こちら側〟の人間である証明だ」


「灰葉遊一を〝いなかったこと〟にしないための、

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