神仙境。中空の高きに在りて人間界からは、視ることも触れることもできない場所にあるとされる。神仙とは、もっとも神に近い存在であり、これをそのまた上にある天界に棲む天帝によって差配されているという。なお、この神仙境については、中国の古書にもあまり詳しくは記述されていない。従って、これらの事柄が真実なのか、まるっきり絵空事であるのかは判然とはしていない。※(天帝:天にあって宇宙を司る神。造物主)


さて、天草四郎の魔界の十字架によって、気を抜かれて他界し別の次元に行ってしまった、信長の悲しみを胸に昇太郎たちは一旦仙境に戻っていた。

戻るとすぐに、ソーラは昇太郎と龍馬とともに神仙大師のもとに報告に来ていた。

『……と、いうわけでございまして、信長さまはまことに残念でございまするが、他界されましてございまする』

『うーむ…、魔の力を甘く見過ぎたか…。魔を相手に戦う時には、決して一対一で戦ってはならぬと申したのに、誠に惜しい精神体を失くしたか…。

だが、安心致すが良い。あれほどの神体じゃ、このままにして置くのは実に惜しい。わしから天帝にお願いして何とか致そうほどに…』

『え…、じゃあ、信長さまは復活できるのですか…。神仙大師さま』

昇太郎は即座に神仙大師に聞き返した。

『うむ、信長を失ったのでは、その方たちも寂しいだろうからのう…。それにつけても天草四郎時貞という者。なかなか手強いと見なくてはなるまいの…。意外と容易ならぬ相手かも知れんて…』

『でも、大師さま。信長さまは、最後の力を振り絞ってオーラの球体を飛ばして、魔の十字架を打ち砕き、天草四郎にも何かしらの傷害を与えたと思われます。その証拠に、うめいたと思ったら急に姿を消してしまったんですから…』

『そうじゃ、わしも見たぜよ。大先生、信長さんのオーラ球でアイツもどこぞを、痛めているのに違いないきに…。わしも信長さんのお陰で命拾いしたんじゃが、それにしても

クソ忌々しい…』

龍馬も思い出したように舌打ちをした。

『神仙大師の御大よ…』

何を

思ったのか、悟空が大師に話しかけた。

『いま考えたんだが、おいらよりはまるで頼りはないが、八戒と悟浄も連れてっていいかい。あんな奴らでもいないよりは増しだろうからさ』

『何…、八戒と悟浄とな…。これは、まさに西遊記の再来じゃのう。それじゃ、さしずめ昇太郎は三蔵法師というところかな。ホホホ、面白いやってみなさい』

神仙大師も遊び心があると見えて、ひとりで悦に入っていた。

『しかし、これだけは申しておくぞ。此度は天竺に経文を取りに行くわけでもない。天草四郎を追って、もしかしたら、宇宙の果てまででも行かねばならんやも知れんのだ。

そして、的確な手段で四郎時貞を抹殺するなり、魔界へ送り返すなりをしなければならぬ。魔の者は、凶悪かつ何の躊躇(ためら)いもなく襲ってくるであろう。油断だけはしてはならぬぞ。さすがに今回のようなことは、もう二度とあってはならん。よいか、どうしても手におえぬような時は、わしを呼ぶが良い。必ずや助けに行って進ぜよう』

『しかし、アイツがいま頃どこにいるのかも判らんきに、どうやって探し出したらいいんですかいのう…』

『うむ、四郎時貞は自分を討ち首にした人間を、つまりは日本人を根絶やしすると云っておったのだな。だとすると、やはり数の少ない時代を狙おうとするのが必然。と、なると昇太郎の読みは、やはり正しかったと見るべきだろう。だからこそ、縄文時代の草創期を襲おうとしたのも納得がゆく。何しろ、あの時代は日本という島国は氷河期じゃったから、まだ大陸とは陸続きだったのじゃ。そして、北と南から獲物を追って渡ってきた新人たちが、そのまま居つき棲みついてしまったのが、現日本人と云われている縄文人なんじゃ』

『いや、しっかし、大先生は何でもよう知っとうとね。まっこと大したもんぜよ』

縄文時代のことなど、ほとんど知らない龍馬は、神仙大師の話を聞いて感心していた。

『そんなことより、龍馬さん。ぼくは悟空さんでも驚いたのに、八戒さんや悟浄さんにも逢えるなんて感激だなぁ』

『何じゃきに、その八戒と悟浄ってのは…』

『ああ、龍馬さんが知らないのは無理もないけど、ふたりとも悟空さんの仲間で、八戒というのは豚で悟浄さんは河童なんですよ。もともとは妖怪だったんだけど、三蔵法師さまのお供で天竺にお経を取りに行って、最後には人間にしてもらったんでしたよね。悟空さん…』

『うむ、その通りた。しかし、昇太郎さんよ。お前さんもなかなかの物知りだな』

『だって、西遊記と云ったら、世界中の九十パーセントのひとが知っている、有名物語なんですよ。知らないほうがおかしいですよ』

昇太郎は照れくさそうに笑った。

『で…、いつ来るんですか。そのおふたりさんは…』

『うん、さっきから読んでいるんだが、なかなか来ないんだよ。まったく、相変わらずグズな奴らだな…。おいら何だかイライラしてきたぜ』

そう言いながら、悟空はそこいら中を歩き回りだした。

『ちょいとお待たせしましたかね。悟空の兄貴、へへへへ』

『はい、ごめんなさいよ。沙悟浄でやすよ』

いつの間にか、猪八戒と沙悟浄が現れた。

『やっと来たか。お前らは、どうしていつもそうやってグズグズしてんだよ。もっとシッキとできないのかよ。まったく…』

『それがね。兄貴、わしはもう少し早く来ようとしたら、悟浄のヤツがちょっと待ってくれなんて云うもんだから、つい…』

『ほら、ほら。また八戒の兄貴はそうやって、何でもわたしのせいにするんだから、いやになっちゃう…』

『そんなこたぁ、どうでもいから、早くこっちに集まってくれ』

悟空に呼ばれて八戒と悟浄が、昇太郎たちのところにやってきたが、ふたりとも昇太郎の知っている八戒と悟浄ではなく、小肥りの男と頭のてっぺんがハゲた細身の中年男だった。

『あれ、でも、悟空さんの時もそうだったけど、人間になるとイメージが全然違っちゃうんですね。やっぱり…』

『おお、猪八戒と沙悟浄か。ふたりとも久しいのう』

『これは、神仙大師さま。ご機嫌麗しゅうて何よりです』

『いつもはご無沙汰ばかりで、申しわけありませんねぇ。へへへへ…』

ふたりが挨拶をするよりも早く、神仙大師は八戒と悟浄にこう言い渡した。

『ふたりとも来た早々で済まぬがのう。その方たちは知らぬとは思うが、実はいま魔の者どもと手を組んで、人間を根絶やしにしようとしている怖ろしい輩がおるのじゃ。その者はキリシタンバテレンの、怪しげな術を使う天草四郎時貞という男でな。年のころは十六・七才というから、まだまだ子供の部類じゃな。もっとも、わしらの歳と比べればの話じゃがな。

さて、ここにおるのが大山昇太郎と申してな。天草四郎に織田信長の精神体を他界させられて、その仇討ちに執念を燃やしておる者なのじゃが、その方らもひとつ手を貸してやっては貰えんじゃろうかのう…』

『へへへ、待ってましたよ。ようがすとも、わたしらもちょうど暇を持て余していたところなんですよ。喜んでお手伝いいたしましょう。ねえ、八戒の兄貴』

『おおともよ。悟空の兄貴もああやって頑張っているのに、どうしてわしだけが知らんぷりをしなくちゃいけないんだよ』

『みんな、よく来てくれたな。おいらも、いい仲間を持ってうれしいぜ。本当によくは来てくれたな』

悟空は八戒と悟浄に近づくと、ふたりの手をガッチリと握りしめた。

『よろしい、これで役者も出揃ったようだのう。よし、よし。さて、問題は彼奴がいまはどの時代をうろついておるかだが、早急に探さねばなるまいて…』

『わしは思うんじゃがのう…。大先生』

『何じゃ、申してみよ。龍馬よ』

『アイツの狙いはあくまでも人間を、特に日本人を根絶やしにすることじゃき、やっぱり元祖日本人と云われている、縄文時代っちゅうところの初期の時代を、うろついているのと違うやろかのう…。ほいでもヤツは前に信長さんから、オーラ球を浴びせられてどこかしら痛めておるんと違いますやろか…。たけんど、精神体が生身の人間と同じように怪我をするのかどうかは、わしにはまったくわからんとですが…』

龍馬は、いま自分が考えていたことを話した。

『いや、それならぼくも考えたんですけど、龍馬さんの云う通りだと思いますよ。ぼくは信長さまの介抱をしていて、間近で見ていたからよくわかるんですが、信長さまのオーラ球は本当に凄まじい物でした。あれを掠ったとは云え天草四郎は受けたんですから、無事でいられるはずがないと思うんです』緒に行ってやろうか…』

『いいえ、それには及びませぬ。それでは往って参りますゆえ、お二人はここにてお待ちくださりませ』

ソーラは、そう言うなり瞬時にして姿を消していた。

『ふう…、あのひともあのひとなりにひっしなんじゃろう…るきっと』

『でも、ああいうところが可愛いんですよ。龍馬さん』

『こいつめ、のろ気追ってからに…』

龍馬は昇太郎のわき腹を肘で小突いた。

『それにしても、天草四郎め。どこに雲隠れしおったのかいのう…。信長さんのオーラが意外と効いているのかも知れんな、軽く掠っただけにしか見えんかったけんど…』

『そうかも知れませんね。ぼくも間近で見ていたけど、ホントに軽くかすめただけに見えたけども、それにしては異様なほどのうめき声だったな…。信長さまも最後の力を振り絞ってのオーラ球攻撃だっだけに、見た目は軽く見えても案外深手を負っているのかも知れませんね』

『うーむ、確かにそうかも知れんな。あの魔界の十字架を一瞬にして粉々に砕いてしまったのだから、いかに魔界の精神体と云えどもよほどの衝撃を受けたと見ていいだろう…』

 昇太郎の話を訊いていた、神仙大師は頷きながら言った。

『龍馬のいうことにも、昇太郎のいうことにも一理あると思うのじゃ。確かに天草四郎は信長の必死のオーラ球を受けて、力も弱まっていると見ていいだろう。精神体でも人間でも最後に発揮する力ほど強いものじゃ。それが必死というものだからのう…』

『ほいじゃ、アイツはどこかを痛めていることは間違いないか…。だけん度、一体どんなこヘ雲隠れしてしまったんじゃろかのう…』

龍馬は腕組みをして考え込んでしまった。

『御大よ。おいらは、いま考えていたんだが、せっかく八戒と悟浄を呼んだことだし、おいらたちはおいらたちで手分けしてでも、各時代を年代ごとに探し回ったほうが手っ取り早くていいと思うぜ。それで見つけられれば、それに越したことはないしさ。どうだい…』

悟空の提案に、何やら考えていた大師もおもむろに口を開いた。

『いいじゃろう。やって見てくれ。但し、充分にして注意は怠らぬようにな…』

『よし、決まったねさっそく。出かけようぜ。おい、お前らもいつまでそんな格好してるんだい。さっさと元の姿に戻っちまいな』

『ヘーイ』

悟空に言われて、八戒と悟浄はくるりと体を一回した。すると、そこには昇太郎の知っている猪八戒と沙悟浄のもとの姿があった。

『わしはやっぱり、こっちのほうがシックリきすねぇ』

『わたしもでよ。へへへへ』

ふたりともしばらくぶりに、元の姿に戻ったらしくウキウキと浮かれていた。

『いつまで浮かれているんだ。お前ら、さっさと準備したら出かけるぞ』

悟空の号令一下、八戒と悟浄はそそくさと準備をすると、どこにいるかさえ判らない天草四郎を探すべく、果てしもない旅へと出かけて行った。

一方、残された昇太郎と龍馬。それにソーラの三人もまた、神仙大師の虱潰し・草の根を分けてでも、抹殺ないし魔界へ送り返すようにとの厳命を受けて、縄文初期の時代へと再びやって来ていた。草原とうっそうとした森林が連なる大地には、縄文人の人影すら見当たらず風だけが飄々と吹き抜けて行った。

『本当に、まだこんなところにいるのかなぁ。天草四郎は…―』

『いると思うぜよ。わしは、なんにしても魔のものを味方に付ければ、怖いものなしだろうからのう。だけん度、こっちだって負けてばかりはいられんきに、ここはひとつ褌を締め直して掛からんねばいけんとよ』

『だけど、天草四郎はだって負傷しているんでしょう。それなのに、どこに隠れているのかさえも判んないんじゃ、捜しようもないし一体どうすれいいんですか。ねえ、龍馬さん…』

『うーん…、どうすればいいかって云われても、わしにもまったく判らんきに、ソーラさん、何とかならんのかい。永遠の鏡を使うとか…』

『ええ、は永遠の鏡はたいへん希少なものらしくて、神仙大師さまもあまり外には出したがらないらしいんですの』

『大先生も、意外とケチくさいところがあるんかい』

『いいえ、決してそのようことではございませぬ。永遠の鏡をというものは、もともと門外不出のものとかで、外部の者の目には触れさせてはならぬ。というような言い伝えがあるそうなのでございまいます』

『ふーん、それじゃ、何だか人間の世界とあんまり変わりゅしないじゃないか。わしゃ、また神仙境というくらいだから、神さんみたいにもっと優雅に暮らしてると思っとったのによ。そんなもんじゃ、あんまり人間の世界と変わらんきに、つまらんぜよ』

『まあ、まあ、いいじゃないですか。龍馬さん、そんなことはどうでも。それより、天草四郎がどこに潜んでいるか判らないんですよ。何とかして調べなくちゃ、どうしようもないですよ。いまのこの状況じゃ…』

『それはわしも判ってはおるが…、しっかし、このだだ広い野山しかないところで、どげにすれいいのかさっぱり判らんとじゃ…』

『それもそうだね…』

 昇太郎も、あまりにも殺伐とした風景を見て、うんざり気に頷いた。

『しかし、昇太郎さま。このままでは人間を抹殺しようとしている、天草四郎にますます時間を与えてしまうことにもなりかねませぬ。一刻も早く手を打たねばなりませぬ』

『そんなと云われたって、何の手掛かりもないんだよ。どうやって探せばいいんだよ…。ソーラに何かいい方法があれば話は別だけどさ…』

『そうは云われましても、わたくしにもこれと云った方法は浮かびませぬが…』

『ほーら、見てごらん。やっぱり何もないじゃないか。だいたいソーラはだね。いつもぼくに…』

『おい、おい。ふたりとも止めときんしゃい。いまここで揉めておっても仕方なかろうが…』

龍馬はふたりのやり取りを見るに見かねて止めに入った。

『まっこと何も思いつかんとか。ソーラさん』

龍馬は再びソーラに訊いた。

『はい、申しわけございませぬ。わたくしは、これより神仙郷に戻りまして、神仙大師さまに伺いを立ててきとうござますれば、おふたりはここでお待ちくださりませ』

『うむ、何もせんでいるよりは、そのほうがええじゃろう。そうと決まれば早く行ってきんしゃい。わしらはここで待っているきに、のう昇太郎さん』

『ああ、それがいいよ。何ならぼくらも一緒に行ってやってもいいよ。ソーラ』

『いいえ、それには及びませぬ。そのようなことをされましては、神仙女としてのわたくしのプライドにも拘わりますれば、どうぞご容赦のほどをお願いいたします』

『じゃ、いいよ。ひとりで往ってくればいいさ。龍馬さんもたまにはソラシネの顔を見たいだろうな。って思って云っただけなのにさ…』

『し、昇太郎さん。おいは何ももそんなことは云ってないきに、気にせんでくださいよ。ソーラさん…』

 急にソラシネの名を言われた龍馬は、しどろもどろになりながらその場を取り繕った。

『さようでございましたか。それでは、そのようにソラシネのにも申しておきますゆえ、わたくしは、これよりすぐに往ってまいりますれば、おふたりともご機嫌よろしゅうに…』

ソーラは、そういうと翔時解は使わず、ひさしぶりに自分で出舞い上がると空の彼方へと消えて行った。

『ふー、やれやれ。どこの時代でも、女子っちゅうもんは扱いが難しいものぜよ…。そうは思わんか、昇太郎さんは』

『龍馬さんが云うほど、ぼくは取立ててそうは思いませんね。少しぼくたちのような人間とは、かなり違うところもありますが、きつい性格に見えるかも知れませんが、あれでなかなか素直な面もあるんですよ。龍馬さんには判らないかも知れないけど…』

『おお、またまたのろけ話かいな。昇太郎さんは…』

『そんなんじゃないですってば、いやだなぁ…。龍馬さんは』

『そんなことより、悟空さんたちはどうしたんじゃろう…。虱潰しに当たるって云っていたけんど、いま以って戻らないところを見ると、あちらさんたちも相当手こずっているのかも知れんな…』

『うん、確かに何の連絡もないし、やっぱりぼくたちと同じように、無駄骨を折っているのかも知れないですね』

『うーむ…、それにつけても天草四郎のヤツめ、一対どこに雲隠れしおったんじゃい』

『まあ、もうしばらく待てば分かると思いますよ。ソーラが戻ってくるまで待ちましょう。

ところで話しは変わりますが、龍馬さんには五人も兄妹がいたそうじゃないですか』

『おお、相変わらず、ようなんでも知っとるな。昇太郎さんは』

『自慢じゃないですが、ぼくは学生時代歴史が好きで、特に幕末から明治にかけての歴史が好きで本を読んだりとか、いろいろと勉強をしたものですから…。あ…、あの黒船が来航してから明治維新にかけての十五年間のことを、ぼくたちの時代では幕末と呼んでいるんですよ』

『ふーむ…、幕末か…。歴史とはそう云うものかのう…』

龍馬は時の流れを見つめるように、しみじみとつぶやくように言った。

『ところで、さっきわしの兄妹がどうとかい云うとったけんど、それがどうかしたとか…』

『あ、いや…、ぼくは弟とふたり兄なんで、兄妹の多いひとは羨ましいなと思ったんです』

『兄妹と云っても、上の三人は親子ぐらい離れているき、兄妹とかいう実感はあんまり湧かんかったしな…』

『あれ、でも、すぐ上の乙女さんは違うでしょう…』

『ああ、乙女姉やんか…、あんひとはえらかひとじやった…。わしが子供の頃に友だちに泣かされて帰っ行くと、「それでも男か、泣くな」って、よくどやされたもんじゃき、まっこと強か女子だったとよ。ほんで弱かったわしに、「男はもっと強くならなきゃいかんきに」と、云って剣術を教えてくれたのも乙女姉やんじゃった。

最初いつも、わしがコテンパンにやられてばかりおったき、初めて勝った時はわしも鬼の首でも取ったように、嬉しかったのをいまでん覚えとるよ…』

龍馬は昔を回想するように、縄文の遥かに遠い空の彼方を見上げていた。

『あ、そう云えば、龍馬さんのお姉さんって当時の女性としてはかなり大柄で、五尺八寸もあったって書いてあったけど、ぼくの時代でもそうざらにはいないのに、龍馬さんのお姉さんは本当にそんなに大きな女性だったんですか…』

『デカかったぜよ。下手すりゃ、わしよりもデカいくらいだったきに…』

 そんな龍馬を見ていると、昇太郎は谷川岳で転落死した自分のことを、現世の人々は気づいてくれただろうかと気になりだしていた。令和元年十二月三十一日に、谷川岳に登る前には所轄の警察署担当課に、登山計画書(登山届)も提出してきたし今回はひとりだから、万一遭難した時のために捜索にかかる費用の保険にも加入してきた。家族には離れているかは離れているから、何も伝えていなかっただけであった。

 しかし、自分が谷川岳で転落死してから、どれくらいの日数が経っているのか、昇太郎にはまったく見当もつかなかったし、下山予定日はとっくに過ぎているだろうから、もしかしたら、捜索が始まっているかも知れないと思った。

『何を、そんなに深刻な顔をして考えごとをしとるんじゃ、昇太郎さんは…』

『うん…、いまね。ぼくが谷川岳の頂上から転落した時ことを思い出してたんです…。あれから、どれぐらい経ったのかなぁ…。きっと、母さんや弟たちが哀しんでいるだろうな…。ぼくの遺体が見つかればの話しですけど……』

 あんなところでは、見つかるはずもないことは、昇太郎も十分分かってはいたが、やりきれない気持ちでいっぱいだった。

『そげなことは、なぁんもクヨクヨせんでもよか、たまたまわしもおまんも運が悪かったと思えば、それだけで済むことじゃき、あんまり気にせんことぜよ』

『ぼくは自分でやろうとして、こうなったまでだから別に悔やんでなんかいませんが、母さんや弟には悪いことをしたかなって……』

『けんど、後ろを見てばかりいては何にも解決しよらん。ここまで来たら前進するしかなかとよ…』

龍馬らしい合理的な意見だったが、昇太郎の中には自分の現状に後悔はなかったが、それでも割り切れないものが残っていた。

『おふたりとも、お待たせをいたしました。ただいま、戻りましてございます』

待ち兼ねていた、ソーラが神仙境より帰ってきたようだった。

『思っていたより早かったみたいだけど、それ天草四郎の足取りは掴めたのかい…』

 昇太郎が不安そうに訊くと、

『はい、やうやくに…、神仙大師さまには手を尽くして調べていただきました。その結果、天草四郎はもう少し時を遡った時代に潜伏している様子でございました』

『もう少し遡った時代って…、ここは縄文時代の草創期だろう…。ここより先の時代って云ったら旧石器時代じゃないか。なんで、そんなところにアイツは行ったんだろう…』

『神仙大師さまの申しますのには、そこのほうが四郎時貞にとって、もっとも都合が良いのだろうと申されておりましたが…』

『何だい…。その都合がいいってのは…』

『さあ…、それはわたくしにも判りかねまするが、とにかく一刻の猶予もなさそうでございますれば、わたくしどもも急いで、そちらのほうに移動せねばなりませぬ。さあ、参りましょう。わたくしたちもこれからすぐに』

 ソーラのただならぬ様子を感じたふたりも、黙って頷き合って縄文草創期の世界から姿を消していた。昇太郎たちのいなくなった草創期縄文時代の大地には、音もなく軽やかな風だけが静かに吹き抜けて行った。

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