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いまから数万年前の日本は氷河期で、地球全体の陸地はほぼ氷に覆われていた。その頃の陸地は凍った土地が多くあり、いまよりも海水面が低く日本列島は、まだ大陸と陸続きだった。そのためにナウマンゾウやマンモス・オオツノジカといった、大型の哺乳類も更新世後期にシベリアを経由して北海道に渡来していた。
人間(新人)は約三万年前に渡って来ていたが、まだ石器時代であり打製石器を使っていた旧石器時代であった。その頃の人間は一定の場所に定住せず、住居は簡単なつくりの小屋や洞窟などで暮らしていて、動物を狩り木の実などを採取して生活していた。
いまから約二万年前頃になると気候も安定してきて寒冷化が収まりだした。そして、一万年前にはついに氷河期が終わりを告げた。それに伴い極地や氷河の氷が溶けだして、海水面の上昇によって日本列島は大陸から切り離されて、ほぼ現在の形になったと考えられている。
このようにして、気候も暖かくなってくると農作物も育ちやすくなって、縄文人の始祖たちも定住した生活を送るようになった。それまで過酷な環境の中で生活を強いられてきた人間は、この年代になると西アジアを中心として農業が始められていた。気候が温暖化してきたために、農作物が育ちやすくなったためと考えられている。しかし、この時代の農業はまだ黎明期のもので、本格的に農業が始まるのは弥生時代に入ってからである。
この時代の住居は竪穴式住居といい、浅く土を掘り起こして柱を立て、木の枝や草などで簡単な屋根を作っただけのものであった。定住化が進むにつれ、次第に農業や土器の生産が始められていった。この時代の土器はドングリなどの煮炊きや保存のために使われていて、土器の表面に縄の文様がついていたために縄文土器と言われ、この時代のことを日本では縄文時代と呼んでいる。
さて、こちらは天草四郎が人間を根絶やしにしようと企んで、やって来たと思われる縄文時代初期の日本のとある場所。
荒涼とした草原には和らかな風が吹き渡り、空には眩いばかりの太陽が光り輝いていた。小高い丘の岩の上に立つ、陽炎のように揺らいで見えるひとつの影があった。
その影は、不気味な含み笑いを浮かべながら呟くように言った。
『ふふふ…、ここなら、この時代なら人間を根絶やしにすることなぞ、赤子の手を捻るより容易いわ。ふふふ、はははははは』
影の正体は、昇太郎たちの前から姿を晦(くら)ました天草四郎だったのだ。昇太郎の読み通り、やはり天草四郎は日本人の祖先である、縄文人を根絶やしにするために縄文時代にやって来たのだろうか。
『さて、どうしてくれようか…。大洪水を起こして溺れ死させてくれようか…。それとも大地震を起こし、地割れに飲み込ませてやろうか…。ふふふ、いまに見ておるがよいわ。わたしをこんな目に合わせてくれた奴らめが、その子々孫々に至るまでみんな根絶やしにしてくれるわ。ふふふ、はははは……』
天草四郎時貞は自らを神の子と称しながらも、まるで魔人のような形相でいつまでも笑い続けていた。
『さて、そろそろ始めるとしましょう。まずは、一番人数の多く住んでいそうなところを探しましょう…。ひとりやふたりではお話になれませんからね。獲物は少しでも多いほうがいいと云いますから、そのほうが、こちらとしても手間が省けますから、それにわたしもやらねばならないことが、山ほど残っている身ですからね…。まず、あっちのほうから行ってみましょうか…』
天草四郎は、ふわっと空に舞い上がると空の一角を旋回し始めた」
『よろしい、あちらのほうから始めましょう…』
何やら目星をつけたのか,天草四郎は一定の方向を目指して飛び去って行った。
縄文時代の草創期だけあって、まとまった形で縄文人たちが棲んでいそうな場所は見つからなかった。それでもしばらく飛んでいると、草や木を集めて覆っただけの見るからにみすぼらしい小屋が立ち並ぶ、集落とまではいかないが竪穴式住居の集まりが見えてきた。
『ふふふ…、見えてきましたよ。それにしても、わたしの時代に比べたら何とちっぽけな小屋だこと…。まず、手始めにあそこから餌食にいたしましょう…。ふふふ、ははは…』
天草四郎は、縄文初頭の小さな部落の近くを流れる川のほとりに降り立った。四郎は自ら川の中まで歩いて行くと、体の向きを変え両手を高々と上げて叫んだ。
『水よ。立ち昇るがいい、そして、あの醜く薄汚い人間どもを吞み尽くすのだ…』
すると、川の水はザザザザーっという音とともに、大きな噴水のように四郎の何倍もの高さまで盛り上がっていった。
『さあ、水よ。地に溢れて、あの醜い獣どもを押し流してしまうがいい…。ふふふ、ははは』
だが、盛り上がった水は、四郎の意に逆らうように流れ出ようとはしなかった。
『こ、これは、どうしたことだ……』
『おおッと、そんなことは、この斉天大聖孫悟空さまがさせるもんかい』
声のするほうを見ると、筋斗雲に乗った孫悟空の姿があった。
『そうだとも。ぼくたちだって、そんなことは絶対にさせないぞ。天草四郎、ぼくの読み通り、やはりこんなところにいたのか』
昇太郎たち四人の精神体も、天草四郎を取り囲むように姿を現していた。
『おのれ…、しつこい方々ですね。あなた方も、いいでしょう。わたしも面倒なことはあまり好みませから、この辺でまとめて血祭りにして差しあげましょう…』
『おっと、待った。ここはおいらに任せてくんな。こんなヤツは、おいらひとりでチョイとひねり潰してやるから、みんなはそこで見ていてくんな』
『ほざいてくれましたね。お猿さん、いいでしょう。まず、あなたから血祭りにしてあげましょう。えい…』
天草四郎は、一気に悟空のいる中空まで舞い上がって行った。
『ふふふ…、ひねり潰せるものなら、ひねり潰して頂きましょうか。こちらも黙って指を咥えているわけにはまいりません。バンドーラ妖法「無限地獄」受けてみるがいい…。えーい』
悟空は、咄嗟に自分の髪の毛を数本むしり取ると、天草四郎を目がけて吹きつけた。それは暗黒の闇が悟空を覆い包むのと同時に、数十人にも及ぶ孫悟空が天草四郎に襲いかかっていた。
『お、何か危なかことになったき。またしても、黒雲が悟空さんを包み込んでしもうたぞ…』
『む、いかん…。わしらも行ってみよう。それ…』
信長のひと声で、みなが一斉に黒雲の中に飛び込んだ時、天草四郎は大勢の孫悟空を相手に戦っている最中だった。
『こしゃくな猿め…。無限火焔地獄を喰らえ…』
大きな火焔の輪が高速で回転しながら、孫悟空の群れを次々と焼き払って行く。悟空の群れは無残に燃えて焼け崩れて行く。と、見ると、どこからともなく巨大な如意棒が飛び出してきて、一撃のもとに天草四郎を打ち倒していった。
『ぐわぁ……』
不意を突かれた天草四郎は、如意棒の衝撃に耐え切れずに、黒雲の中から弾き飛ばされてしまった。四郎を失った黒雲はたちまち消え失せて、そこには元の空間が広がっていた。
『いかん…、ここで逃がしてしまったら、あとあと面倒なことになる。みんな手分けしてアイツを探し出してくれ』
悟空はいつもの飄々とした表情ではなく、敵である天草四郎に対して幾分甘く見ていたことへの、自分なりの戒めを含めた厳しい表情で言った。
『しかし、ヤツも大したこともないな。神の子だか、悪魔の申し子だか知らんが、尻尾を巻いて逃げ出すなんざ、そんじょそこらにいる、ただの悪ガキと一緒じゃないか…。おいら少しばかり買い被っていたようだぜ。フフン…』
悟空は聞こえよがしに言うと、収まりがつかないのか如意棒をブンブン振り回した。
『悟空さん。そんなに大きな声で言ったら聞こえますよ…』
『うむ、聞こえているだろうな。たぶん…、しかしな、昇太郎。彼奴(あやつ)も当分は襲っては来るまいて…、強がりは云っていても所詮は悟空の云う通り、まだ子供なのだろうよ…』
信長も一万年もの時を隔てた、縄文の地まで来て悪魔の化身になり下がった、天草四郎を取り逃がした呵責の念は、みながそれぞれ抱いてるのだが、悟空を除けば最年長の自分が何の力にもなってやれないのが、この上もなく不満であり最大の苛立ちでもあった。
『だけんどよ…、信長さん。わしもあんたも、いまはこうして動き廻ってはおるが、わしはどこの誰とも判らん奴らに斬られて死んだ…。あんたはあんたで明智光秀の裏切りで、自ら腹を切って死んだ…。だがよ、そんなことに恨みつらみなんか、なぁんも持っとらんとでしょうが…。そこへいくと、天草四郎は貧しい農民のために、一揆の総大将として幕府軍と戦った。そして、その結果として一揆軍は皆殺しに遭い、天草四郎時貞は原城に立て籠っていたところを、幕府軍によって討ち首にされ原城前に晒し首にされた。
人のために全力を尽くして死んだのなら、それはそれで立派なことじゃき、わしゃ何も云うことはなかとじゃが、どこに人間を根絶やしにしようとかいう、邪悪な気持ちが出てくるのか、わしにはさっぱり判らんのじゃがのう…』
龍馬は、そういう天草四郎が魔の化身となって人間に復讐しようとする心に、自分とはどうしても相容れないものを感じながら言った。
『だがな。坂本、浅草四郎とやらも人間を根絶やしにしようなどとは、一時の気の迷いであればよいのだが、今回はそうもいきそうもないだろうな…。普通の場合なら「気の迷いでした」でも済まされるが、今回に限ってはその裏に魔の力が蠢(うごめ)いておる。これには迂闊(うかつ)に手が出せんからな。まずは相手の出方を見てからでないと、こちらのほうも痛手を被る可能性が高いぞ』
信長は信長なりに、天草四郎とその背後にある魔の勢力について、真摯に捉えようとしているのが犇々(ひしひし)と伝わってきた。
『いや、そうも云ってられんぜよ。信長さん、神仙大師の大先生からは一刻も早く天草四郎を討ち取るなり、魔界へ追い返すなりしろと云われて来てるんだきに、グズグズしとったら神仙境まで影響を及ぼすかも知れんとよ…』
『ならば、どういたせというのだ…。坂本』
『そいつが判れば、誰も苦労はしせんぜよ。だから、どうすればいいか相談ばしとるのに、まっこと話の分からんひとじゃのう。あんたも…』
『何…』
『おふたりとも、お止めくださりませ。いまはそのようことで、揉めている時ではございませぬ。ここは、いましばらくご自重くださりませ。わたくしに妙案もございますれば…』
ふたりのやり取りをに業を煮やしたのか、ソーラが中に割って入った。
『何、妙案とな…』
『それはどんなことですかいのう…』
『はい、おふたりとも「毒を以て毒を制す」という、言の葉はご存じかと思われますが、わたくしたちも、一度その毒になりきってみては如何かと考えましてございます』
『毒になりきるとな……』
『どういうことですかいのう…』
ふたりは怪訝そうに訊いた。昇太郎にも、ソーラが何を言わんとしているのか分からなかった。
『毒には、毒を以って制す。つまり、悪にはこちらも悪で挑まなければ、ならないと云うことでございます』
『あんたも、まっこと理解に苦しむようことばかり云うきに、もっと具体的に云うてもらわんと判らんぜよ』
いつも、ソーラの話法に難渋している龍馬は堪りかねて言った。
『これは失礼いたしました。つまり、向こうが魔の力を用いるのなら、わたくしたちも魔の力を用いて相対しましょう。もちろん、こちらは魔の力と申しましても、あくまで も見せかけだけのものにございます』
『見せかけじゃと…。して、どのようにいたすのじゃ』
信長もソーラの言葉に耳を傾けてきた。
『はい、この縄文の村に災いを齎すのでございます』
『その災いとは、どのようなことじゃ…』
『洪水がよろしいのではないかと…、大洪水を引き起こして村を丸ごと押し流してしまうのでございます。さすれば、天草四郎も自分にもできなかったことが起これば、何ごとかと自ずと姿を現すのではないかと思われるのですが、いかがでありましょうか』
『じゃけんど、そうやすやすと掛かるかのう…。あいつも、あれでなかなか用心深いきに、そう簡単にはいかんと思うぜよ。わしは…』
龍馬は、また取り逃がすのを考えたのか、反対意見を唱えた。
『いや、そうでもあるまい。何より、このまま何もせずに手を拱いているよりは増しじゃろうと、わしは思うのだがどうじゃ、昇太郎』
『はい、ぼくも龍馬さんには悪いんですが、信長さまの意見に賛成します。失敗した時はした時で、また一からやり直せばいいと想います』
『それでは、よろしいですね。みなさま…』
『ちょいと待ちんしゃい、ソーラさん。まんだ悟空さんに意見ば聞いとらんきに…』
『あ、おいらならどっちでもいいぜ。失敗を恐れていては何も生まれてこないからな。どうせ、最後はおいらの出番に決まっとるからな。だから、そんなに心配するなよ』
龍馬の言葉を押さえるように、悟空は勝算があるのか飄々と言った。
『しかしな、いくら見せかけとは申せ洪水を起こすのだ。わしらが始祖の縄文人とやらを、そのままにしておいても良いのか…』
と、信長。
『その点でしたら、ご心配には及びませぬ。彼らには気づかれないように、別の空間に移動してもらいますゆえ、いささかの手抜かりもございませぬ』
『さようか。それならば良いが、事情も何も知らない連中じゃ。下手に騒がれても困ると思うて訊いたまで、それならばそれで良いのだ』
ソーラの返答に信長も安堵したようだった。
『それでは、わたくしどもは中空の高いところまでまいりましょう』
ソーラがいうと、悟空は心得たとばかりに筋斗雲を呼び寄せて、空中に舞い上がって行った。
『この辺まで来ればいいのかい。ソーラさんよ』
『はい、ここなら下界のことも一望でき間ますゆえ、大丈夫かと…。それでは始めたいと思いまする』
『それにしても、天草四郎め。どこへ消え失せおったのか…』
信長が、独り言のようにつぶやいているのを余所に、ソーラはまやかしの洪水を起こすべく儀式めいたことを始めた。すると、一転にわかに掻き曇り雨雲が湧き上り、滝のような豪雨が地上に降り注いだ。これには、さすがに信長も龍馬も驚いたようだった。
『こ、これが誠にまやかしなのか…』
雨はたちまち地上を覆いつくして、あらゆる物を押し流して行った。
『うひゃ…、これがまっことまやかしなのかい。ソーラさんよ…』
龍馬はド肝を抜かれたらしく、素っ頓狂な声を張り上げた。
『ふん、果たして天草四郎は出てくるのかな…』
信長も冷ややかながらも、自分自信を奮い立たせるように言った。
『天草四郎かぁ…、年貢や悪政で苦しんでいる百姓たちに手を貸しただけなのに、それを討首にされて人前に晒し首にされた。その悔しさは解かるけど、何も悪魔に魂を売り渡してまで人間に復讐しようなんて思うかな…。普通…』
昇太郎も、また谷川岳の頂上から転落して、骨も内臓もグシャグシャになり死んだところを、ソーラに助けられ神仙境に連れて来られた時のことを思い出していた。ただ昇太郎の場合は、自分で選んだ道なのだから誰も恨んだりしなかったし、たまたま運が悪かったと思えばそれだけの話だった。
『シィー…、みなさま、お静かに…。何やら怪しげな影がひとつ現れました。あれは、もしや……』
ソーラのいうと通り、その影は次第に輪郭をハッキリとさせ、最終的には天草四郎時貞となって復元して行った。
『むむ、やはり現れおったか…』
昇太郎には、天草四郎がどんな思いで現世の人間に対し、復讐を誓ったのかは判らなかったが、天草四郎をひどく哀れな人間に見えて仕方がなかった。
『あんな奴のひとりやふたりは、おいらひとりでもお釣りが来るくらいだけど、ここは神仙大師の御大の顔を立てて、みんな一気に攻めようと思うんだがどうだい。今度こそ失敗したら取り返しのつかいことになるから、気を引きしめて行かなくちゃね』
悟空は神仙境対魔界の、この一戦に闘志を剥き出しにしていた。
『それでは参りましょう。みなさまも、天草四郎を取り囲むようにして一斉に降りてくださいませ』
悟空を先頭にして、まだ黎明期の縄文時代の高空から、天草四郎の浮かんでいる地点まで一気に舞い降りて行った。
四郎を取り囲むよう降りてきた五人を見て、
『ふふふ…、やはりあなた方でしたか、よくぞ、ここを嗅ぎつけましたね。犬より少しは増しな鼻をお持ちのようで、褒めて差し上げましょう…。ふふふふ』
『ええい、黙れ、黙れ…。先ほどはうまく逃げ遂せたが、今度こそ容赦はしないぞ。みなの者、掛かれ…』
信長は号令をかけると、真っ先に挑みかかって行った。
『ふふふ…、あなたは、確かに戦国の英雄かも知れませんが、明智光秀の裏切りによって自らの命を絶たれた。つまりは負け犬なのです。その負け犬がいくら吠えたところで、どうなるものでもありませんよ…。ふふふふ』
『黙れと申すに黙らぬかー。ならば〝戦国群狼〟受けてみるがよいわ。それー』
信長が叫ぶと、全身の毛を逆立てた黒い狼の群れが天草四郎に襲いかかった。
『ならば、こちらは〝魔界の十字架〟受けてみなさい』
天草四郎が放ったものは、これもまた黒光りする大きな十字架だった。しかも、その穂先は鋭く研ぎ澄まされた刃がついていて、それが回転しながら群狼を次々となぎ倒し、回転を増しながら信長に迫って行った。
『あ、危ない。信長さま…』
危険を感じた昇太郎が叫んだ。
『なんのこれしき…』
刀で弾き飛ばそうとした信長だったが、十字架の回転のほうが勝っていた。刀は鈍い音とともに空中に舞い上がり、十字架の切っ先が信長の胸元に深々と突き刺さった。
『ぐわぁ…』
『ああ…、信長さま…』
昇太郎は急いで信長に駆け寄ったが、その時はすでに黒い十字架は跡形もなく消え失せていて、突き刺さった傷跡からは白い煙が立ち上っていた。
『しっかりしてください。信長さま…』
『おのれ、天草四郎。神の子かなんかは知らんけんど、ようも信長さんをひどい目に合わせてくれたな。かくなる上は、このわし相手になってやるぜよ。さあ、こい…』
『お待ちください。龍馬さま』
『何で、そこで止めるんじゃ…。ソーラさん、こんなヤツはわしひとりで沢山じゃき、任せてくれんしゃい』
『そうではございませぬ…。いま昇太郎さまが看ておいででございますが、信長さまの様子がどうも尋常ではなさそうなのでございます』
ソーラは、天草四郎には聞こえないように、龍馬にだけ伝わるように言った。
『何…、信長さんが……』
龍馬はさらに小さな声で訊いた。
『何をぐずグズしているのですか。そちらが来なければ、わたしのほうから参りますよ。ふふふふ、それでは界の十字架を、もう一度喰らうが良い…』
『いいとも、受けてやるぜよ。わしも江戸は桶町千葉道場で、千葉定吉先生に師事し北辰一刀流の免許皆伝を取得した、不服はあるまい。こい…』
『ふふふ、能書きは、わたしの魔界の十字架を、見事受けてからにしてください。行きますよ。ええい…』
またしても、黒い十字架が回転しながら龍馬に襲いかかる。龍馬は手にしていた太刀の刀身を返すと、逆手に取って飛んでくる十字架を回避しようと、真っ向から振り下ろした。次の瞬間、バキーンという音がして十字架が弾き飛んだ。しかし、龍馬の刀もあまりに大きな衝撃に耐え切れず真っ二つに折れてしまった。十字架のほうはバランスを崩したものの、体勢を立て直すとすぐさま龍馬を狙って飛んできた。
『あ、危ない。龍馬さん」
昇太郎が叫んだ。龍馬は何とか体を交わして防いだが、十字架は向きを変えると執拗に龍馬を襲ってきた。
と、その時だった。昇太郎に抱かれて瀕死の状態の信長の体から、オレンジ色のオーラが射してきた。昇太郎は驚いて身を反らすと、オーラの中からオレンジ色に光り輝く、ふたつの球体が飛び出して十字架と天草四郎のほうに飛んで行った。
ひとつ目の球体は十字架に当たると、サイレント映画のように音もなく砕けて散った。ふたつ目は天草四郎の肩口をかすめ、ジュワっという嫌な音を立てて地に落ちて消えた。
『う…』
と、うめき声をあげると、何処ともなく消え去ってしまった。
熾烈な戦いを終えて、龍馬は取り急ぎ昇太郎のところへ行った。
『昇太郎さん、信長さんの様子はどうじゃ…』
昇太郎は黙って首を横に振った。すると、信長が微かに眼を開いて龍馬を見つめた。
『おお…、坂本か…、わしは…死ぬ…のか……』
信長は途切れ途切れの言葉で龍馬に訊いた。悟空もソーラも黙ったまま見守っていた。
『何を云うんじゃ、信長さん。天下の大武将、織田信長さんがそんな弱気でどうするんじゃ。もっと気持ちばしっかりと持たなくちゃいかんぜよ…』
『坂本よ…、そんな…気休め…は…云うな……。わしには…解かる…、あの十字架が…消えた時…わしの中から…白い煙が…抜けて行くのを…わしは視た…。あれは…わしの…精神体の気だ…。あれが抜けると…わしらはもう…神仙境には…いられなくなる…そうだ…。神仙大師さまに…聞いたことが…ある…だから…その方たちとも…別れねばならん…。
そして…、別の次元に移らねばならん…。さらばじゃ…みなの者さらばじゃ……」
そう言い残して信長は静かに眼を閉じた。昇太郎に抱かれたまま信長の全体像は、次第に薄れて行き最後には完全に消えてしまった。
『あ……、信長さま…』
昇太郎がひと言だけ言ったが、他の者たちは誰ひとり言葉にするものなく、縄文初頭の荒野にはただ風だけが吹き過ぎて行くばかりだった。
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