第19話 脱出
一
火曜の早朝、五時きっかりにロイが迎えに来た。
紫乃は、夜勤の
病院裏口を出ると、外は
お姫様抱っこで車椅子から持ち上げられ、紫乃は助手席に座った。ロイが
車椅子をトランクに積み、ロイが運転席へ乗り込む。
「山陽自動車道に乗るまで、喋るな」
ドアを閉めるや否や、ロイが牽制する。紫乃は、茫とした表情で前を向いたまま、薄く開いた唇で答えた。
「口と表情を動かさんかったら、ええじゃろが」
「どこで誰が見てるか、分からへん。お前の場合、喜怒哀楽がすぐに顔に出るねん」
「うるさぁわ。
それきり、素直に
福山から広島空港まで、車で一時間弱。
――万に一つも、
ロイが選んだのは、山陽自動車道だ。西から福山へ通勤する車は、大半が国道二号線を通る。特に、交通量の少ないこの時間帯は、
喉に棒を突っ込まれたように、言葉が出ない。ロイの横顔をちらりと
五時半の日の出を過ぎても、ヘッドライトが照らす道路の前方は
「たとえ死んでも、あんたには感謝しちょる」
ぽつり、と紫乃は
「立ち止まって、ただ
前を
「分かっとる」
雨に濡れたアスファルトの前方で、暗いトンネルが口を開けていた。
二
朝六時過ぎ、始業したばかりの広島空港に、人影はまばらだ。空港ロビーのベンチで、数人のビジネスマンらしき男がスマホを
ロイが、真っ直ぐチェックイン・カウンターへ紫乃の車椅子を押し進め、二人分のパスポートと搭乗券を差し出した。
「車椅子のレンタルも、お願いしてるねん」
ピンクのスカーフを首に巻いたグラウンド・スタッフがパスポートを開き、紫乃とロイの顔と、フルネームを確認する。
「東京羽田行き、七時半発の便ですね。羽田第二ターミナル乗り継ぎ、ニュー・ヨーク行き、ビジネス・クラス、二名様で
――ビジネス……クラス?
意識障害の演技が、頭から吹っ飛んだ。
「アホか! あんたぁ、どこの
ロイの左頬のケロイドが、ぶわっと一瞬で真っ赤に膨れ上がる。
「静かにせんかい! もぅ金は
「なんじゃと! 今のは、完全なモラハラじゃ! 帰国したら今度こそハラスメント委員会に訴えちゃる、この不良ガイジン講師が!」
グラウンド・スタッフが、きまり悪そうな笑みを浮かべつつ、キーを叩く指のスピードを上げる。
別のグラウンド・スタッフが、車椅子を持って来た。明るい水色のシートが、どことなく安っぽい。
「お客様の車椅子は、こちらでお預かり致します」
「うちだけ、こぎゃぁな車椅子に乗せられたまんま
ガッカリだ。乗り換えると、見た目通り、座り心地が良くない。車輪の動きも重い。比嘉の貸してくれた車椅子は体にフィットし、小回りが
「機内までは、この車椅子で御案内致します」
グラウンド・スタッフは、「機内まで」の部分で語気を強めた。
「聞いたか? この井の中の
「……そんくらい、知っちょったわい。あんたに合わせて、関西ふうにボケてやっただけじゃ。あんたが『そうじゃないやろー』とかツッコまんけぇ、変な空気になったじゃろぅが!」
「ええ加減にせぇ! もぅええわ!」
漫才を締め
「相変わらず、せっかちな男じゃのぅ。すぐに搭乗口へ行くんか?」
「お前、自分の置かれた立場を忘れてるやろ」
絶えず周囲へ、ロイが目を走らせている。
「……そうじゃった。うちはすぐにカーッとなるけぇ、いけんのぅ」
「セキュリティ・エリアや機内では、さすがに襲われる危険は無いやろ。保安検査場を抜けたら、悪態をつくなり、歌うなり、好きにせぇや」
「ホンマに歌い出したら、どうするんなら?」
口の中でブツブツと呟きながら、紫乃は肩掛けバッグを検査場のトレイへ入れた。
セキュリティ・ゲートを二人とも無事にくぐり抜けると、ロイが、ほーっ、と大きく息を吐いた。和らいだ表情でゆっくりと紫乃の車椅子を押し、待合の一角に陣取る。
「お腹、
広島空港のセキュリティ・エリア内には、東西に分かれて売店がある。
「せっかく病院の外に出たんじゃ。
「乗り継ぎの羽田では、あんまり時間の余裕が無いねん。
「羽田を
「デザートは、たっぷり用意しといたで」
ロイが、唯一の荷物であるバックパックから、小袋を取り出した。ニヤリと笑って、袋の口を開く。中身を見て、紫乃は車椅子から五㎝ほど跳び上がった。
「ナチューレの焼き菓子と
「シチュエーションをわきまえたんや! 飛行機の中で、どうやって羊羹を切り分けるねん。
「そぎゃぁな羊羹の短所は、中屋の主人が先代から克服しちょるわい。鯨羊羹には、小口の個包装があるんじゃ。可哀想に、あんたに鯨羊羹の
「女の味を教えてくれる奴は、
ロイが、ドヤ顔で紫乃を見下ろす。
「全然、
紫乃は
窓の外へ、視線を向ける。いつの間にか雨は上がり、滑走路に薄く陽が差している。
――あとどれだけ、晴れた日が見れるかのぅ。
天気予報では、東京もニュー・ヨークも、しばらく晴天が続くと聞いた。
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