第19話 脱出

 一

 火曜の早朝、五時きっかりにロイが迎えに来た。

 紫乃は、夜勤の看護師ナースに見送られ、まだ消灯時間の集中治療室ICUを出た。ロイが車椅子を押し、暗い病院の廊下を静かに進む。比嘉が貸し出してくれた小型の車椅子は、軽量で座り心地が良く、車輪がきしまない。

 病院裏口を出ると、外はくらやみだ。顔へぽつぽつと小雨が振り掛かる。目の前にまっている国産の黒いSUVが、ロイの車らしい。

 お姫様抱っこで車椅子から持ち上げられ、紫乃は助手席に座った。ロイがおおかぶさるように、シートベルトを架ける。車内には、土の匂いと、藤の花のような甘い香りがかすかに漂う。

 車椅子をトランクに積み、ロイが運転席へ乗り込む。

「山陽自動車道に乗るまで、喋るな」

 ドアを閉めるや否や、ロイが牽制する。紫乃は、茫とした表情で前を向いたまま、薄く開いた唇で答えた。

「口と表情を動かさんかったら、ええじゃろが」

「どこで誰が見てるか、分からへん。お前の場合、喜怒哀楽がすぐに顔に出るねん」

「うるさぁわ。いちゃろか」

 それきり、素直にほこを納めた。

 福山から広島空港まで、車で一時間弱。山間やまあいを抜ける山陽自動車道経由でも、海沿いの国道二号線経由でも、掛かる時間はさほど変わらない。

 ――万に一つも、かりの無い男じゃのぅ。

 ロイが選んだのは、山陽自動車道だ。西から福山へ通勤する車は、大半が国道二号線を通る。特に、交通量の少ないこの時間帯は、早番はやばん看護師ナースに目撃されやすい。紫乃たちの表向きの行き先は、反対方向の伊豆だ。

 喉に棒を突っ込まれたように、言葉が出ない。ロイの横顔をちらりと見遣みやると、普段より強張こわばっている。灰青色スカイグレーの目がせわしなく、バックミラーやサイドミラーへ走る。どこで何が起こるか、分からない。

 五時半の日の出を過ぎても、ヘッドライトが照らす道路の前方はくらいままだ。道路はいている。このぶんなら、搭乗時刻の一時間半前――六時頃には空港に着きそうだ。

「たとえ死んでも、あんたには感謝しちょる」

 ぽつり、と紫乃はつぶやいた。

「立ち止まって、ただきに任せるんは、どうしても嫌なんよ。自分から前へ進んじょるなら、途中で死んだって納得できるけぇ」

 前を見据みすえたまま、ロイが短く答えた。

「分かっとる」

 雨に濡れたアスファルトの前方で、暗いトンネルが口を開けていた。


  二

 朝六時過ぎ、始業したばかりの広島空港に、人影はまばらだ。空港ロビーのベンチで、数人のビジネスマンらしき男がスマホをいじっている。皆、初老でたるんだ体付きだ。レストランやラウンジは、まだ営業前だ。

 ロイが、真っ直ぐチェックイン・カウンターへ紫乃の車椅子を押し進め、二人分のパスポートと搭乗券を差し出した。

「車椅子のレンタルも、お願いしてるねん」

 ピンクのスカーフを首に巻いたグラウンド・スタッフがパスポートを開き、紫乃とロイの顔と、フルネームを確認する。

「東京羽田行き、七時半発の便ですね。羽田第二ターミナル乗り継ぎ、ニュー・ヨーク行き、ビジネス・クラス、二名様でうけたまわっております。車椅子のレンタル・サービスも、……はい、おうかがいしております」

 ――ビジネス……クラス? 普通席エコノミーじゃぁんか?

 意識障害の演技が、頭から吹っ飛んだ。

「アホか! あんたぁ、どこの御曹司おんぞうしじゃ? お母ちゃんは石油王か? うちみたぁな研修医にゃぁ、とても払えんわい!」

 ロイの左頬のケロイドが、ぶわっと一瞬で真っ赤に膨れ上がる。

「静かにせんかい! もぅ金ははろたし、お前に払えと頼んだ覚えは無いねん! ……済んません、コイツ、頭に障害がありますねん。ま、元の性格も問題だらけですわ」

「なんじゃと! 今のは、完全なモラハラじゃ! 帰国したら今度こそハラスメント委員会に訴えちゃる、この不良ガイジン講師が!」

 グラウンド・スタッフが、きまり悪そうな笑みを浮かべつつ、キーを叩く指のスピードを上げる。

 別のグラウンド・スタッフが、車椅子を持って来た。明るい水色のシートが、どことなく安っぽい。

「お客様の車椅子は、こちらでお預かり致します」

「うちだけ、こぎゃぁな車椅子に乗せられたまんま米国アメリカまで行くんか? ビジネス・クラスにしちゃぁ、随分としょぼいのぅ」

 ガッカリだ。乗り換えると、見た目通り、座り心地が良くない。車輪の動きも重い。比嘉の貸してくれた車椅子は体にフィットし、小回りがいて軽かった。

「機内までは、この車椅子で御案内致します」

 グラウンド・スタッフは、「機内まで」の部分で語気を強めた。

「聞いたか? この井の中のかわずめ。車椅子に、『ビジネス・クラス用』とか無いねん。お前の車椅子を預かった代わりに、空港内での移動用に貸してくれてるだけや。機内では、ちゃんとビジネス・クラスの席に座らせてもらえるわ」

「……そんくらい、知っちょったわい。あんたに合わせて、関西ふうにボケてやっただけじゃ。あんたが『そうじゃないやろー』とかツッコまんけぇ、変な空気になったじゃろぅが!」

「ええ加減にせぇ! もぅええわ!」

 漫才を締めくくるように会話を切り、ロイが車椅子をぐいぐいと保安検査場へ押した。

「相変わらず、せっかちな男じゃのぅ。すぐに搭乗口へ行くんか?」

「お前、自分の置かれた立場を忘れてるやろ」

 絶えず周囲へ、ロイが目を走らせている。

「……そうじゃった。うちはすぐにカーッとなるけぇ、いけんのぅ」

「セキュリティ・エリアや機内では、さすがに襲われる危険は無いやろ。保安検査場を抜けたら、悪態をつくなり、歌うなり、好きにせぇや」

「ホンマに歌い出したら、どうするんなら?」

 口の中でブツブツと呟きながら、紫乃は肩掛けバッグを検査場のトレイへ入れた。

 セキュリティ・ゲートを二人とも無事にくぐり抜けると、ロイが、ほーっ、と大きく息を吐いた。和らいだ表情でゆっくりと紫乃の車椅子を押し、待合の一角に陣取る。

「お腹、いてへんか? そろそろ売店が開きそぅやで」

 広島空港のセキュリティ・エリア内には、東西に分かれて売店がある。

「せっかく病院の外に出たんじゃ。うまもんいたぁのぅ」

「乗り継ぎの羽田では、あんまり時間の余裕が無いねん。朝飯あさめしは、ここでぅといたほうがええやろ」

「羽田をってしばらくしたら、機内食のディナーじゃろ? しかも、ビジネス・クラスじゃ。朝食は軽めのほうが、ええかのぅ」

「デザートは、たっぷり用意しといたで」

 ロイが、唯一の荷物であるバックパックから、小袋を取り出した。ニヤリと笑って、袋の口を開く。中身を見て、紫乃は車椅子から五㎝ほど跳び上がった。

「ナチューレの焼き菓子と八朔はっさくゼリーじゃぁか! どちらも、尾道では知る人ぞ知る陶酔もののスイーツじゃ。……それにしても、くじら羊羹ようかんが見当たらんのぅ。ひょっとして、うちの一番の好物を聞き漏らしたんか?」

「シチュエーションをわきまえたんや! 飛行機の中で、どうやって羊羹を切り分けるねん。ぇベタベタになるやろが!」

「そぎゃぁな羊羹の短所は、中屋の主人が先代から克服しちょるわい。鯨羊羹には、小口の個包装があるんじゃ。可哀想に、あんたに鯨羊羹の美味うまさを教える女子おなごが、これまでらんかったんじゃのぅ」

「女の味を教えてくれる奴は、仰山ぎょうさんったで」

 ロイが、ドヤ顔で紫乃を見下ろす。

「全然、上手うまぁこと言うちょらんわい! 乙女にセクハラは禁物じゃ!」

 紫乃はかろうじて言い返したものの、きまり悪くて何だかロイと目を合わせづらくなった。

 窓の外へ、視線を向ける。いつの間にか雨は上がり、滑走路に薄く陽が差している。

 ――あとどれだけ、晴れた日が見れるかのぅ。

 天気予報では、東京もニュー・ヨークも、しばらく晴天が続くと聞いた。

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