第20話 近未来の究極医療

  一

 ジョン・F・ケネディ国際空港JFKのターミナル7に降り立ち、街の裏通りのような狭い通路を抜ける。入国審査、税関検査を終え、バゲージ・クレームで受け取った車椅子に紫乃を乗せた。

 ロイは、空港ロビーの人の流れに乗り、実感する。

 ――帰って来たんやな。

 日本では超異質な自分の風貌が、ここでは全く視線を集めない。胸がすっと軽くなる。

「あんたぁ、急に黙り込んだのぅ。何を考えとるんじゃ?」

 紫乃が振り向き、不安げにロイを見上げる。心を読まれたようで、慌てて誤魔化ごまかした。

「英語脳と日本語脳がバグってただけや。お前こそ、初めてのニュー・ヨークで緊張してるやろ?」

「空港の中じゃと、現実感がぁわ。街へ出て、タイムズ・スクエアにでも行けりゃぁ、実感がくんかのぅ」

 ガラス窓から差し込むまばゆい陽光を、紫乃が残念そうに見上げた。

 ターミナル7から、レンタカー・オフィスのあるフェデラル・サークル駅まで、エア・トレインで移動する。朝十一時半の空港は、人の数がさほど多くは無い。

 複数のスーツケースをカートで運ぶ客の後を追えば、車椅子の紫乃もバリア・フリーで移動ができる。たとえ人がつっかえていても、「Excuse me !」と声を掛ければ、笑顔で道を空けてくれる。

 全てがEASYだ。気をつかわずに全てことが運ぶ。

「空港周辺は渋滞してるやろけど、レンタカーで郊外へ出たらランチにしよか」

 紫乃が、目を真ん丸に見開いた。

「ええんか? そぎゃぁに自由に行動して? あんたぁ、日本じゃと『自分の置かれた立場を考えろ!』っちゅうて、こわぁ顔をしちょったくせに」

「俺らが何時なんじの便でどの空港に降りるか、比嘉や親父にすら教えてない。しかも、レンタカーでの移動や。誰かが追ってようとしても、まず無理やろ」

「あんたの判断なら間違いぁわ! どこで、どんなうまもんぅちゃろぅかのぅ!」

 紫乃が、ヨダレを垂らさんばかりに口角をだらりと下げる。

「コネチカット州に入ってすぐI-95を下りたら、グリニッチっちゅう街や。US-1沿いに、雰囲気の良さげなレストランが、いくつか並んどる。お前、どんなもんいたいねん?」

 ロイは、レストランの並びをおぼろげに覚えているものの、入った経験は無い。ホワイト・プレーンズの日本食スーパーへ行った帰りに、見物がてら、何度か車で通り過ぎただけだ。

 グリニッチは、全米で住みたい街№1に挙げられるほどの高級住宅街だ。

「さすが元・地元じもとみんじゃ。よぅ知っちょるわい。そうじゃのぅ、米国アメリカらしいBBQ《バーベキュー》みたぁなのを食べてみたぁわい」

「俺が知ってるんは、二十二年前までや。並んでる店は随分と変わってるやろから、車を流しながらさがそか」

 レンタカー大手の《バジェット》で借りたのは、フォードのフォーカス、5ドアハッチバックの小型車だ。

 レンタカー・オフィスを出ると、米国アメリカ北東部特有の乾いた風が、アスファルトにすなぼこりを立てる。目の前の駐車スペースで車を受け取り、ロイは慣れた手付きで後部座席を倒し、荷室を広げた。

「あんたぁ、いきなり左ハンドルの車で、ニュー・ヨークみたぁな大都会を運転できるんね?」

 不安げな紫乃をお姫様抱っこで助手席へ放り込み、折り畳んだ車椅子をリア・ゲートから積み込む。

「JFKからニュー・ヘイヴンまで、ニュー・ヨークの市街地は通らへん。田舎のフツーの高速道路を運転するだけや」

 ロイは運転席に乗り込み、フロントガラス越しに視界を確認する。ハンドルは、車の左側。走る車線は、右側。

 衝撃を受けた。

 ――しっくりるがな!

 日本の右ハンドル・左側通行よりも、妙に自分に合う。二十二年前に日本へ渡ったとき、左右をそっくり入れ替えたはずの通行感覚。

 ぐっ、とアクセルを踏み込みたい衝動に駆られる。右車線を突っ走りたい。ニュー・ヨーク郊外に出れば、むしろ福山よりも渋滞は少ない。どこまでも、自由に行けそうな気がする。

 ――比嘉の言う通り、医師免許を米国こっちで取り直したほうが、世界で漢方をやるっちゅう夢をかなえやすいんとちゃうか?

 全身の血が熱く沸騰する。米国こっちで、人生をやり直す。それしか無い。

 きっと容貌は、風土との相性にも密接に関連するのだ。父親とそっくりの自分には、米国アメリカの環境が合う。米国こっちで出生して十五年間も育った人間の根っこは、日本あっちで二十二年間を過ごしても変わりようが無い。

「どぅしたんじゃ? あんたぁ、米国アメリカへ降りてから急に無口になったのぅ。郷愁にでも浸っちょるんか」

 紫乃の声で、我に返った。ハンドルを握る手が、じっとりと汗ばんでいる。

「バレたか。ちょうど今、涙が出そぅになってたトコや」

 紫乃から見える右頬だけにどうにか笑顔を作り、ロイは車を発進させた。


  二

 I-95は樹々とコンクリートに囲まれ、景色があまり見えない。

 ロイは、グリニッチでI-95を下りた。視界が一気に開ける。石や煉瓦れんが造りの古い建物が立ち並ぶ、英国ふうの街だ。US-1を、北東へ走る。

 パトカーの回転灯のごとく頭をめぐらせ、紫乃が街並みを目で追っている。半開きの口から、ほぅっ、と感嘆の息が漏れる。

「日本よりもはるかに歴史があさぁ国じゃのに、威厳のあるふるめかしい建物が多いのぅ……美しいわい」

「そう、や、なぁ」

 曖昧な返事になった。とうの昔に、捨てた故郷だ。「せやろ!」と自慢げに米国こっちを語るのは、気が引ける。とは言え、「日本の街のほうが綺麗やで!」と日本あっちの肩を持つのも、わざとらしい。どう相槌を打って良いか、分からない。

 本心では、米国こっちを褒められると、くすぐったいような嬉しさがこみ上げる。

 話題を変えた。

「良さそぅなレストランを見付けたら、はよぃや」

「あんたの本場仕込みの嗅覚に、任せるわい。うちは、初めて米国アメリカに来たんじゃ。よぅ分からん」

 米国アメリカの街に気圧けおされたように、紫乃がシートに深く背を沈めた。口籠くちごもりながら、ボソボソとつぶやく。

「ありがとぅ……のぅ。うちに、観光させてくれちょるんじゃろぅが」

 目を伏せた紫乃の睫毛は、マスカラ無しでも十分に黒く濃い。肌理きめこまかい肌と、品良く通った鼻筋と、ストレートの黒髪。日本人女性の、綺麗な横顔だ。

「どないしてん? しおらしいやんけ」

 少しだけ、気持ちを日本へ引き戻された。

 右手前方に、「リトル・グリニッチ」という看板をかぶった煉瓦レンガ色の屋根と、白い塗り壁の平屋が見えて来た。建物を囲むように、広い駐車スペースがある。レストランだろう。

「ここでぉか。店名からして、米国アメリカ料理やろ」

 店の前に車をめ、エンジンを切る。紫乃はうなだれたまま、動き出す気配が無い。

はら減ってないんか? このままニュー・ヘイヴンへ直行しても、ええんやで」

「うちは、さっきから変な気分になっちょる」

「車にぅたんか?」

 紫乃が、力無くかぶりを振った。

「日本とは全然違う、映画みたぁな景色の中で車に揺られちょると、これまでの出来事が嘘のようじゃ。悪い夢を見ちょっただけのように思えるんじゃ。つらい過去は忘れて、このままボーッと異国の風景を眺めていたいと願う自分がるんよ」

「親父とのアポイントなんか、ドタキャンしても構わんで? こんな機会でも無ければ、どうせ二度と会わへんかった奴や。明日のフライトまでは、お前の好きなように時間を使つこたらええやん。引き返して、ニュー・ヨークの街を観光するか?」

「なんちゅうアホを言い出すんじゃ! この変態講師が!」

 紫乃のまなじりから、大粒の涙があふれた。

「乙女には、やさしゅうすりゃぁええと思うちょったら、大間違いじゃ! うちを引っぱたいて、『お前は刺されて、右の手足を動かんようにされたんで! お父ちゃんもお母ちゃんも、全身から血を抜かれて殺されたんで! 悔しいじゃろ!』っておらび上げんか!」

 左手だけで両目を覆い、しゃくり上げて紫乃が泣き始めた。

「お前、俺の親父に答えを聞きに来たんやろが? 人のためになるはずの新薬を、人にむごい仕打ちをしてまで、なんで創るんか」

「そぎゃぁに壮大な疑問なんか、持ちとぅも無かったわい! うちは、海と山と坂しかぁ、せまぁ尾道で生まれ育った田舎娘じゃ! 海外なんか、一生行かんでええし、静かに暮らしたかったんじゃ。それが、なんで国際犯罪のえを食って、こぎゃぁな傷や障害まで負わにゃぁならんのじゃ!」

 ――自分から望んで不幸に巻き込まれる人間なんて、らへんねん!

 左頬のケロイドが、熱く火を噴いた。

ウソけ! お前、オトンの創った薬で世界に名をとどろかせるセレブになるとか、壮大な世迷よまごとをほざいてたやんか。デカい夢を語るなら、デカい傷を負うくらい、覚悟しとけや! 夢が叶わへんと気付いた途端、急に『今の環境は、おもてたのとちゃう』とか嘆き始めるんは、卑怯者の必殺技やんけ!」

 一番の卑怯者は、米国こっちに降り立ってから、自分の中にいる。実は、とうに気付いている。左ハンドルの右側通行が妙にしっくりるなど、言い訳に過ぎない。米国こっちで医師免許を取ったところで、夢への近道にはならない。

「平和に暮らしてた過去をいくら振り返っても、うしろには答えもチャンスも転がって無いねん! キズやと? 上等や! キズが痛けりゃ痛いほど、いつくばってでも前へ進まんかい! 半歩ずつでも、一㎜ずつでも、とにかく前! 前や! 現状が苦しくて、他の環境が良さそうに見えても、逃げるな! 今、この場所で勝負せんかい!」

 本当は、自分への叱咤だった。

 紫乃の肩から、き物が落ちたようにがたんと力が抜けた。

「あんたぁ、乙女に厳し過ぎるんじゃ。前へ、前へ、とはのぅ。せっかちな、あんたらしいわい」

 伏せた睫毛が涙で黒く濡れ、まるで適量のマスカラを塗ったように見える。素顔スッピンのほうが、紫乃の美貌は映える。

「お前のオトンかて、『うちだけ、なんで子宝こだからに恵まれへんのや』って、さんざん他人を羨んだり、世の中を恨んだりしたやろ。せやから、猛然と前へ進んだんや。結果、『トキモドシ』を発見して、若返り薬を創れたんやろが」

「説教臭いんじゃ、このクサレ不良講師が。口から出る言葉が全部、昭和の匂いをプンプンとき散らしちょるわい」

「俺は、平成元年生まれや! ……昭和最後の年でもあるけどな」

「ほれ見ぃ! 昭和の熱血スポコン型の発想が、骨の髄まで染み付いちょる。あんたぁ、時代の遺物じゃのぅ」

「遺物扱いされるんは漢方医の本望や! 機嫌が直ったんなら、さっさとメシをおぅや!」

「こっちのセリフじゃ! ひさりに大声を出したら、腹が減ってたまらんわい!」

 勢い良く言い放った割に、もじもじして紫乃が動かない。

 ――せやった! 興奮して、頭からぶっ飛んでたわ!

 助手席のドアは、右側にある。今の紫乃には、開けられない。食事も、あらかじめ切り分けてあげないと、左手一本では食べられない。

 現実から、逃れたくもなるだろう。

 エアコンをけっぱなしにしたままの、官舎の一室を思い返す。「トキモドシ」が、干してある。

 ――今週末には、生薬として使えるやんけ。

 紫乃の父の言葉通り、漢方を熟知しているなら「トキモドシ」を扱えるのだろうか。自分以上に熟練した漢方医は、何人もないはずだ。現代の日本には、まともな師匠を持つ漢方医すら、ほとんどない。漢方を学ばずして漢方薬を処方する医師が、腐るほどる。彼らは、現代医学を学んだときには六年以上を掛けたはずなのに。

 ――脈から心身をうかがい知るんや。この世で、脈だけは嘘をつけへん――

 万願寺の教え通り、脈の変化に応じて漢方を調合すれば、なんとかなるのか。

 ――げんと、前へ進む。今の環境で、勝負する。

 紫乃に投げ付けた言葉が、重く、自分へ跳ね返っていた。


  三

 アスタリスク製薬の本社は、ニュー・ヘイヴンの中心部、イェール大学のすぐそばにある。ロイの父・アクセルと、最高経営責任者CEO・マシューは、イェール大学の研究者として長年ながねんつちかった人脈を、フルにかした。

 アスタリスク流の新薬の開発は、事実上、研究の外部委託アウト・ソーシングだ。高額な実験機器の購入を最小限にとどめ、初期投資を抑える。必要に応じて、イェール大学の研究室がそれぞれ得意とする実験を、有償で発注する。各実験データを統合し、新薬の開発全体を指揮するのは、くまでアスタリスクだ。作業効率が良いうえ、功名こうみょう争いに因る研究室同士の軋轢あつれきを生じない。

 ロイは、午後三時五十五分に本社脇の来客用駐車スペースに車をめた。歴史的な建造物が多いニュー・ヘイヴンの景観に溶け込む、古びた八階建てのビルだ。

 紫乃を乗せた車椅子を押し、エントランスへ入る。脇に立つガードマンに、とびきりの笑顔で「Hi !」と声を掛け、レセプション・カウンターへ進む。

 カウンターでは、金髪をボブに切り揃えた三十前後の女性が、米国アメリカ流の過剰なスマイルでロイたちを迎えた。

「何をお手伝いしましょうか?」

最高執行責任者COOのMr.トルシュと、午後四時にアポイントがあるねん。俺の名前はロイ・ハダチ、こちらは婚約者フィアンセのシノ・ミサカや」

「伺っております。こちらへどうぞ」

 女性が先導し、駅の自動改札のようなセキュリティ・ゲートへ進む。ゲート脇のカードリーダーに女性がカードをかざすと、腰の高さほどの扉が左右に開いた。通路は、車椅子が楽に通れる広さだ。

「左手のエレベーターから、八階へおがり下さい。八階で、別の者が出迎えます」

「おおきに! 素敵な一日を過ごしてや!」

 礼を言って片目をつぶったロイを、女性が目を見開いて数秒ほど長く見詰めた。最高執行責任者COOにそっくりだと、気付いたのだろうか。

 エレベーターは、古いビルと不釣り合いな最新型で、挙動が素早い。ロイよりもせっかちなアクセルが、いかにも好みそうだ。

 八階でエレベーターの扉が開くと、黒いスーツを着た白髪の大男が立っていた。ロイと瓜二つの背格好、アクセルだ。

 ロイは、自分と同じ灰青色スカイグレーの目をじっと見据みすえつつ、紫乃の車椅子を押し出す。

「随分とひさりだな、ロイ」

 アクセルが差し出した手を軽く握り、すぐに離す。

最高執行責任者COOが、自らエレベーター・ホールまでお出迎えか。秘書に逃げられるほど、景気が悪いんか」

 ハッハッハッと、さも可笑おかしそうに大口を開け、アクセルが笑い出した。

「ジョークのセンスは大阪で身に着けたのか? お前の母――ミヨコは、ホームシックになると大阪の芸人コメディアンのDVDをよく観てた。何が面白いんだか、説明してもらっても私には全く理解できなかったが。ミヨコは、どうしてる?」

「大阪で語学学校の講師をしとる。まだまだ、俺よりも口が達者や」

「元気そうで良かった。ところで、そちらのお嬢さんを紹介してもらえるかな?」

 ロイが口を開く前に、紫乃が喋り出した。

「会えて嬉しいわい。私は、シノ・ミサカ。ロイのもとで日本の伝統医学、漢方を学んじょる研修医じゃ」

 広島弁と変わらないくらい、流暢な英語だ。

 ――飛行機でもレストランでも、ずっと俺に「おんぶに抱っこ」やったくせに!

 涼しい顔のまま、紫乃はロイを振り返りもしない。

「私はロイの父、アクセル・トルシュだ。会えて、とても嬉しい」

 ひと通りの自己紹介をし、アクセルがゆかに膝をいて紫乃と握手を交わした。

「OK、あとは私のオフィスで話そう」

 先導して、アクセルが歩き始めた。他に人の気配は無く、八階フロアは静まり返っている。広めの廊下に、アクセルとロイの靴音が響く。

「ここ一年、八階へ立ち入れるのは、執行役員と執行役員が招いた客人のみに限定している。呼んだときしか秘書たちは来ないし、八階で彼女らがPCやスマホを扱うのも禁じている」

「なんぞ、物騒な事件でもあったんか?」

「『timeless』の単離を発表して以来、会社のWi‐Fiが頻繁にハッキングされる。五百ドルも渡せば、喜んでWi‐Fiのパスワードを喋る秘書だってる。会社や国家への忠誠心よりも、目先の個人的な利益を優先する者が増えた。嘆かわしい時代だ」

 アクセルが、かすかに唇を噛んだ。

「表向きでは平和でも、水面下は物騒っちゅうわけか」

「奴らは、使える手段を全て使う。ハッキング対策を厳重にしたら、次は清掃や電気設備や水道や、あらゆる業者にまして建物に入る。お土産を残すためだ。先日呼んだ盗聴器発見の専門業者は、盗聴器を見付けたフリをしながら、あちこちに盗聴器を仕掛けていた」

「今どき、盗聴器なんて前時代的な物を使つこて、意味あるんか? 会話よりもメールで物事が運ぶやろが」

「奴らは、とても貪欲ハングリーだ。ほんの僅かな情報を得るために、あらゆる手段を惜しまない」

 エレベーター左手の廊下の突き当りで、アクセルが立ち止まった。年季の入った、木製の重厚なドアだ。首からストラップでぶら下げた職員証IDを、アクセルがカード・リーダーにかざす。

 コトン、と小気味こきみ良い音を立て、鍵が開いた。カビくささのかげに、現代的なセキュリティを備えている。

 ドアの向こうに、三百㎡はありそうな部屋が広がっていた。奥の窓際に巨大な執務机があり、左右の壁の本棚には天井高くまで、研究雑誌が無数に陳列されている。

「どうぞ、中へ《Come on in》。スター・バックスからケータリングを取り寄せてある。好きなように、自分で取ってくれ《Please help yourself》」

 部屋の中央の、十名は座れそうな応接セットの一角で、ロイは紫乃の車椅子をめた。テーブルの上には、ステンレスのポットとスタバのロゴ入り紙コップや紙ナプキン、クッキーやマフィンが並んでいる。

「うちの一番のお気に入りのコーヒーとクッキーじゃ。米国アメリカのコーヒー文化は、ただただ素晴らしいわい。スター・バックスもタリーズも、日本では大人気じゃ」

 左手のみの身振みぶりで言葉を強調し、紫乃が満面の笑みを浮かべる。

 ――コイツ、上手いやんけ! 

 相手の国の文化をめちぎる欧米流の社交術を、紫乃が心得ているとは予想外だった。

 ロイは、柔らかい笑みを頬に刻みつつ、紫乃の前に紙ナプキンを広げ、コーヒーとクッキーを置いてやった。紫乃のすぐ隣のソファで、体を沈める。

 アクセルが、テーブルを挟んで向かい側のソファに座った。

「やっぱり、うまぁのぅ」

 左手を伸ばして紙コップからコーヒーをひとすすりし、紫乃が米国アメリカ流の満面の笑みを顔じゅうに広げた。笑みを返しつつ、アクセルが紫乃の膝をちらりと見遣みやる。置かれたまま、微動だにしない右手だ。

「で……ロイ。十五年ぶりに連絡して来た理由は、私に婚約者フィアンセを紹介するためだけでは無いだろう? 私が祝福すべき慶事があるのか。あるいは何か凶事が起こって、私に頼み事をしたいのか」

 スケジュールが詰まっているのか、生来のせっかちさゆえか、アクセルが本題へ入った。

 答えようとするロイを、紫乃が紙コップを持った左手で制した。

「残念ながら、後者じゃ。うちは、ロイ先生の婚約者じゃぁんよ。付きぅてもらん。ロイ先生の天才的な技量に憧れる、ただの研修医じゃ。うちがあんたに命を狙われちょるかも知れんけぇ、ロイ先生が不憫ふびんおもぅて、婚約者っちゅうみで連れて来てくれたんよ」

「アホか! なんでバラすねん!」

 ロイは思わず、日本語で紫乃へ怒鳴った。

 紫乃がロイへ微笑み、ゆっくりとした英語でさとした。

「嘘をついても、無駄じゃ。あんたの婚約者であろうがかろうが、邪魔なら殺すじゃろ。時が経てば、あんたにゃぁなんぼでも別の婚約者候補が現れるわい」

「OK、私にも分かるように説明してくれ。シノの命を、なぜ私が狙うんだ?」

「『timeless』の臨床試験が頓挫とんざしたあんたの会社が、有害事象を補完するための情報を求めて、日本へ新薬の狩人ドラッグ・ハンターはなったんじゃ。新薬の狩人ドラッグ・ハンターは、うちのお父ちゃんが創った若返り薬の情報を奪い、口封じのためにお父ちゃんとお母ちゃんを殺し、うちを殺し損ねてこぎゃぁな姿にした」

 紫乃が左手で、だらんと垂れた右手をつかみ上げた。懸命に作った笑顔が、ぐしゃっと泣き笑いへ崩れる。

 通りすがりの人に突然の言い掛かりを付けられたように、アクセルが両手を広げて困惑した表情を浮かべた。

「それは、非常に気の毒だ。但し、新薬の狩人ドラッグ・ハンターなど、私は知らない。臨床試験は、とても順調に進んでいる。予備的小規模試験パイロット・スタディの結果、『timeless』の効能は、多岐たきわたっていた。データの解析と大規模臨床試験の準備に、予想外の時間が掛かっているのは認めよう」

 伊豫から情報を得ていなければ、アクセルに言いくるめられていただろう。

 紫乃に加勢すべく、ロイは一気に斬り込んだ。

「『timeless』の臨床試験は、アスタリスクにとって歴史的大敗や。若返りの後に悲惨な老化を生じて、被験者から集団訴訟を起こされかけてるんやろ? 俺が、とある信用筋から得た情報や。株価暴落は、不可避やで」

 株価暴落、という単語にアレルギーを持っているかのように、アクセルの首筋の血管がぶわっと真っ赤に怒張した。

 ドスの利いた声が、巨躯きょくからほとばしる。

「喋ったのは、誰だ?」

 紳士然とした態度が一変し、今にも胸倉むなぐらつかまれそうだ。

 ロイは、素早く立てるよう前屈まえかがみになった。紫乃も、紙コップをテーブルに置く。

「情報源は、言えん。俺と紫乃は、このことを絶対に他言たごんせぇへん。神に誓う。代わりに、頼みがある。二度と紫乃には手を出さんよう、新薬の狩人ドラッグ・ハンターに命令してくれ。若返り薬の創り方を、紫乃は知らん。見ての通り、体の自由も利かへん。壮大な野心も金儲けの夢も、俺らには無いねん。漢方医をしながら日本の地方都市で静かに暮らせたら、満足なんや」

 アクセルが、目を閉じた。巨躯を膨らませて息を吸い、大きく吐く。二度、三度、自分をなだめすかすように、深呼吸を繰り返す。

 カッ、と目を見開いた。

「よく聞け!」

 声に、最高執行責任者COOらしい威圧が滲む。

「『timeless』の臨床試験は、失敗では無い。どんな結末であろうが、研究結果は貴重なものだ。『失敗』と表現するのは、真理を探求する者への冒涜ぼうとくだ」

 マーブル・クッキーを優雅に口へ運びつつ、紫乃が落ち着いた笑顔で問う。

「『失敗』以外の、どの英単語を使つこぅたらええんじゃ? 被験者に、悲惨な老化を引き起こしたんじゃろぅが」

 アクセルが、長い足を悠々ゆうゆうと組み替えた。余裕たっぷりの表情は、演技では無さそうだ。

「『timeless』のおかげで、急激な若返りと急激な老化の、二つの現象を経験した……この意味に気付いたとき、どれだけ私が興奮したか! 被験者たちは、定期的に血液検査をおこなっている……アスタリスクは、平常時・若返り開始時・老化開始時の、三つの時点の血液サンプルを持っているんだぞ!」

 ロイは、即座にひらめいた。

「遺伝子解析か! マイクロ・アレイでもやるんか?」

 マイクロ・アレイとは、数万種類以上の遺伝子の発現量の増減を、一気にスクリーニングできる解析ツールだ。

「お前も、やりたくなっただろう?」

 ロイと同じ灰青色スカイグレーの目に炯々けいけいと炎をともし、アクセルがニヤリと笑った。

「若返りと老化が、それぞれ急激に起きる時点で活性化する遺伝子を突き止めるんだ。人類が若返りと老化を操り、人生を自在にデザインできる未来が、すぐそこまで来ている」

 熱く語るアクセルへ涼しい笑みを投げつつ、紫乃が次のクッキーへ手を伸ばす。

「そりゃぁ偉大な研究じゃのぅ。その成果を使つこぅて、あんたは、どぅしたいんじゃ? 人々を若返らせて、長く、幸せな人生を送って欲しぃんか?」

 両手を額に当て、アクセルが天を仰いだ。クックッと喉元から込み上げる笑いを、こらえ切れずにいる。

「OK、シノ。君の視野を、もっとグローバルに広げてみよう。国家レベルで加齢現象をコントロールしたら、何が起こる? 生産年齢や出産可能年齢が、もし二十年も延びたら、国内総生産GDPや出生率が、爆発的に増加する。長く健康に働けるなら、人々の消費は活発化し、景気が急上昇する」

 ロイは、はたと思い当たった。

「若返り薬は経口薬じゃなくて、最初からワクチンにするつもりやったんか!」

 アスタリスクは、遺伝子組換えワクチンの開発で急成長した会社だ。

「その通りだ。経口薬だと、ヤミで流通しやすいからな。どこかの国に、すぐに盗まれてしまう。マイナス八十℃の超低温冷凍を要するmRNAワクチンとして製品化すれば、国家で厳重に管理できる」

 クッキーをポリポリとかじりながら、紫乃が不思議そうにアクセルを見詰めている。

 アクセルが顔を紅潮させたまま、車椅子の紫乃をごうがんそうに見下みおろす。

「そうか、ピンとないか。では、とてもシンプルに表現してあげよう。加齢現象のコントロールは、国家の強力な兵器になる。例えば、戦争中の国が、徴兵年齢の上限を四十歳から六十歳へ引き上げればどうなる? 二十歳以上の兵士の数は倍になり、国家の戦力が倍増する」

「若返りの限界が来て働けんようになった人は、どうするんじゃ」

 我が意を得たりとばかりに、アクセルが大きく頷いた。

「今度は、『老化』のコントロールが必要になるんだ。『若返り』を促進しても、いつまで有能に働けるかは個人差が大きい。働けなくなったら、十二分じゅうにぶんな年金受給と引き換えに『老化』ワクチンの接種を義務付ける。一~二年で、老衰ろうすいするだろう」

「あんた流に『とてもシンプルに表現』するなら、それは殺人じゃのぅ」

くまで、自然死だ。ドラマの冗長じょうちょうな終盤を、早送りするようなものだ。人生の価値は、トータルで評価されるべきだろう? 日本人は、欧米人よりも平均寿命が長いが、健康寿命は短い。男性なら九年、女性なら十三年近くも、人生の終盤を臥床がちに過ごす。言うなれば、日本人の人生は質が悪いのだ。おまけに、人生の十~十五%を無駄に過ごせば、個人も国家も莫大ばくだいな経済的損失をこうむる」

 紫乃が車椅子の上でうつむいたまま、ふふっ、と微笑わらった。

「車椅子に乗らんと外出できんようになったら、米国こっちでは『人生を無駄に過ごしている』と評価されるんか」

 まだ貧血気味な肌の青さが、ロイの目を突き刺す。

「話を障碍しょうがい者差別にり替えるのは、詭弁きべんだ。では、日本人と正反対の人生を、どう評価する? 若々しい心身のまま、活動的に長生きし、最後の数年のみ老化して人生を終える……誰がどう見ても、最高の人生だろう?」

 アクセルの血色の良い頬が、皮脂でてらてらと光る。健康そうだ。六十半ばになっても、毎日ジムに通っているに違いない。自分が車椅子に乗る日など、遠く想像も及ばないだろう。

 諦念と共に、ロイは相槌あいづちを打った。

「親父らしい考え方や。老後のたくわえも保障も最低限で済むなら、個人も国家も経済的に豊かになるやろ」

 人間とは、としを重ねてもかほどに変わらないものか。アクセルは、計算ではじき出した答え通りに未来が来ると信じている。借金をして会社をおこした、二十二年前と同じだ。

 ロイの相槌あいづちを賛同と受け止めたのか、アクセルが愉快そうに両膝をぽんぽんと叩いた。

「その通りだ、ロイ。加齢現象のコントロールには、無限の価値がある」

「最後の数年を除けば、人類はあらゆる加齢性の病気や不調から解放されるわけやな。しかも、たった数年の老後は手厚い年金付きで、それが気に入らんならどんどん人生を早送りすればカタが付く。め、あんたは歴史に名を残す英雄ヒーローや」

「古来、優秀な薬の価値は、病気を治すだけにとどまらない。国家の経済力も軍事力も爆発的に強化し、世界情勢を神のごとく一変させる力を秘めている」

「コロナ・ワクチンのときみたいに、か。薬を高値で世界じゅうに売りさばいて経済競争に勝ち、薬の供与をエサにした外交交渉で、政治的にも優位に立てるわけや」

「そんな次元レベルの話じゃ無い。実効性は、もっと直接的ダイレクトだ。先日、国防総省が巨額の研究費の供与を申し入れて来た。有能な兵士に、優先的に『timeless』を投与する研究を始めたいそうだ」

「人を殺す才能にすぐれた奴を、長生きさせるんか。人を救うはずの薬が、間接的に大量の人を殺すわけや。本末転倒の極みやな」

「軍隊では、特に戦闘機のパイロットは、貴重な人材だ。熟練に時間とコストを要する割に、過酷さゆえ、パイロットとしての寿命は短い。もし、パイロット寿命が倍に延びたら、航空戦力は歴戦の猛者もさ揃いになる。他国にとっては、はかり知れない脅威だ」

「もし、予備的小規模試験パイロット・スタディのときみたいにコケたら、どう責任を取るねん? パイロットたちが急激に老化したら、我が国の航空戦力は一気にガタ落ちやがな!」

 はっ、と紫乃が振り返った。

 すぐ、ロイは間違いに気付いた。

「米国の航空戦力、やな」

 議論に熱中し過ぎた。左頬のケロイドに、紫乃の視線がザクリと鋭く刺さる。

 アクセルも口を半開きのまま、呼吸を忘れたかのようにロイを見詰みつめている。

「ほんの言い間違いやがな……二人とも、大袈裟おおげさに反応しぎや」

 しばらくして、フーッ、とアクセルが長く息を吐くと、大きな体がひと回り小さくなった。

「十五年前にお前からもらった最後のメールには、日本国籍を選ぶと書いてあった。以来、なしのつぶてだ。返事を寄越よこさないのが、最も雄弁な答えだと受け止めた。私と米国アメリカを、断ち切ったのだと」

ちゃうがな! くすぐっとぅて、メールを返すんが面倒になっただけや! 父親と息子には、そういう時期があるやろ」

 初めて前へ、アクセルが身を乗り出した。膝の上で両手を組み、細めた目をしばたたかせる。昔からの癖だ。二十二年前の父の姿と重なる。ロイが真剣に何かを相談するとき、いつもアクセルは前屈まえかがみで目をしばたたかせていた。

「ロイ……帰って来ないか? 日本の医療事情を熟知するお前の経験は、米国こっちでは非常に貴重だ。アスタリスク《うち》を含め、製薬会社はこぞってお前を雇い、日本市場の拡大を目論もくろむ。米国こっちの医師免許を取りたいなら、時短勤務の雇用契約にして勉強時間を確保すればいい」

 思いけない提案だった。

 アクセルの英語を聞き取った紫乃が、ちらり、とロイへ寂しげな視線を投げる。

「あんたぁ、父親と二人きりで話したぁじゃろ? うちは外へとこぅか?」

「ええトシこいて、俺はどっちの国を選ぶか親や後輩にまで心配されとるんか……。自分が、なさいわ」

 心が揺れたのは、ほんの一瞬だった。隣の黒い髪へ、怒声を叩き付ける。

「クソ研修医の分際ぶんざいで、余計なつかうな! 俺には、やらなぁアカン仕事が日本に山ほど残ってるねん! 絶対、俺にしかできへんコトばっかりや!」

 紫乃の表情が、ぱっと明るくなった。

「セクハラとモラハラじゃな?」

「アホンダラ! ずはお前のタメ口と、日本の漢方界を叩き直さなぁアカン。俺が日本を出るとしたら、それが全部、終わってからや。おい、親父! 最後に、もう一度だけ訊くで。ホンマに、新薬の狩人ドラッグ・ハンターとは無関係なんやな?」

「知らん。私の目の前には、遺伝子の宝の山が転がっている。日本の田舎のお父ちゃんが創った怪しげな薬などに、興味は無い」

 アクセルが再びソファに深く背を預け、最高執行責任者COOらしい尊大な顔に戻った。

 紫乃の目が、マスカラを厚くまとったときのように、バチバチとまたたく。

「喧嘩上等じゃ! お父ちゃんの薬の効能は、単なる若返りだけじゃぁよ。漢方も併用すりゃぁ、どんな細胞の機能も正常に戻せる無敵の万能薬になるんじゃ。あらゆる病気を治す、世界の救世主になるわい!」

 わざとらしく片眉を吊り上げ、アクセルが短く拍手した。

「Good! 幸運を祈る。日本と米国アメリカの、どっちの薬が先に完成するか、勝負ファイトだ。さて、そろそろ時間だ。エレベーターまで送ろう。今日は、楽しい話ができて良かった」

 ロイが腕時計を見ると、午後五時近くを指していた。

「うちも、いっぱい話ができて満足じゃ。はるばる米国こっちまで来た甲斐があったわい。ありがとぅのぅ」

 アクセルが、大きな左手を差し出す。茶目ちゃめたっぷりに片目をつぶり、紫乃が華奢な左手で、力いっぱいに握り返した。

「シノなら、左手だけでも、人の倍以上の仕事ができそうだ」

 ハッハッと笑いながら手を離したアクセルの指先に、ロイは釘付くぎづけになった。爪の周囲が乾燥してささくれ、爪は不規則に白く浮いて二枚にまいづめになっている。

「どないしてん、その爪は? ボロボロやんけ」

 アクセルが、肩をすくめて首を振った。

「さぁな。ニュー・イングランドの冬は、空気が乾燥してるからな。ここ数年、冬季だけ割れていた爪が、今年は春を過ぎてももろいままだ。水分と鉄分は、しっかりっているんだが」

「普通に栄養を摂ってるなら、爪がもろいのは漢方では老化現象の一つや」

「私も、もう六十六歳だ。老化現象の一つや二つ、出て来るさ。まだ歯や髪は抜けていないし、かかともひび割れてないから、マシなほうだろう」

「そんなにあちこちが一度に老化せぇへんがな。少なくとも歯が抜けるんは、随分先やろ」

「あちこちが一度に老化するのを、私はの当たりにした。『timeless』で老化が始まった被験者たちは、短期間で爪も歯も髪も抜け落ち、皮膚が乾燥してひび割れた」

 ――「timeless」を長期投与したマウスは、全身の毛が抜け落ち、餌にかじり付くと歯が折れた――

 伊豫が語った動物実験の結果だ。

 ――マウスと同じ有害事象を、人間も起こしとったんか!

 漢方では、とある方向性を持った、特異的な老化現象だ。

「妙に口が渇いたり、手足が火照ったりする被験者は、らんかったか?」

「冷たい飲み物を大量に欲しがる患者が多かったとは、聞いている。糖尿病を発症したせいだと思っていたが」

 ――「陰液」の枯渇を起こしたんや。間違い無い。

 アクセルは意図的にロイに教えてくれたのだろうか。いや、そんなはずは無い。漢方のなんたるかを、アクセルは知らない。

 ――「timeless」の有害事象は、強烈に「腎」の「陽気」をあおるがゆえの、「陰液」の消尽しょうじんや!

 漢方の概念上、「腎」は老化現象を司る臓器だ。「腎」が宿す「陰液」は髪・爪や生殖器の潤いを生み、「陽気」は意欲・活力や熱エネルギーを生む。「腎」の「陰液」と「陽気」の両者が潤沢にありつ均衡を保っていれば、外見も内面も若々しくなる。

「腎」の「陽気」を強力にあおると爆発的に活力が増す一方、「陰液」は燃やされ過ぎて不足してゆく。「陰液」の不足が長引くと髪・爪・生殖器が乾燥・萎縮し、「陽気」の熱勢が過剰になるため体の内部に火照り・渇きを生じる。「陰液」が燃やされ尽くすと「陽気」も尽き、不可逆な老化を引き起こす。不可逆な老化が蓄積され、人は死へ至る。

 ――恐らく「timeless」は、あっという間に「陰液」を蒸発させてしまうんやろ。漢方で大量に「陰液」を補填ほてんすれば、使えるかも知れんで。……しかも「トキモドシ」なら、な。

 紫乃の父親の日誌と伊豫から得た情報を比較しても、「timeless」や「時騙し」よりも「トキモドシ」のほうが、有害事象が軽い。紫乃の父は高脂血症や糖尿病を発症してはいなかった。

「ありがとぅな……Dad」

 ロイは両手を広げ、ハグを求めた。ぎこちなく手を広げつつ、アクセルの頬がはにかんだようにゆがむ。

 二つの巨体が、がっちりと重なった。

「いつでも帰って来い、ロイ。いつかまた、一緒にニューイングランド・ペイトリオッツの試合を観に行こう」

 昔、ロイが大ファンだったアメフトのチームだ。あらががたい衝動が、ロイをおそった。アクセルの手首をつかんで、脈をたい。自分と双子のごとくそっくりなアクセルの心身に、今、何が起きているのか? 誇大妄想と紙一重の研究のアメリカン・ドリームを抱え、神経がたかぶりっ放しなのか? あるいは、威勢の良さは外面だけで、内面は疲弊しきっているのか? 爪のもろさは腎の「陰液」不足を表す。過剰なストレスの連続で、老化が早まっているのではないか。

 ロイの逡巡しゅんじゅんを断ち切るように、アクセルが体を離した。執務しつむ机から紙袋を取り出し、大きな背中を丸めて躊躇ためらい気味にロイへ差し出す。

「婚約のお祝いに、と思ったんだが」

 ロイが紙袋から中身を取り出すと、ニューイングランド・ペイトリオッツのヘルメット型をした、二つのマグカップが出て来た。カップの取っ手は、赤いフェイス・ガードだ。銀色の丸いボディに、「フライング・エルビス」と呼ばれるロゴ――米国アメリカの独立戦争を戦った兵士の横顔――がかたどられている。

「ぶち可愛いのぅ! 取っ手がオシャレじゃわい!」

 ロイより先に紫乃が嬌声を上げ、一つを手繰たくった。まわすようにマグカップを眺める紫乃を見て、アクセルの頬が柔らかくゆるむ。

 ――親父らしい選択やな。

 仕事以外は、アメフトにしか興味を示さない男だ。お得意の確率論と合理性では、息子との十五年間の空白を埋めるツールを見付けられなかったろう。考え抜いた末、結局、アメフト関連グッズに落ち着いたのか。

「俺も、めっちゃ気に入ったで。……また、日本から連絡するわ。今度は、次の返事を書くまでに十五年も掛からへん。約束する」

 ロイが、乾杯するようにマグカップをかかげると、アクセルの灰青色スカイグレーの目がかすかに潤んだ。

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