38話 て・り・や・き

 バタン!

 まだ朝の静寂が色濃く残る時間帯に、図書館の重厚な扉は凄まじい勢いで開け放たれた。

 静寂? そんなものは一瞬のうちに失せてしまった。


「ジル! おはよう! 約束のてりやき、食べに来たわよ!」


「……てりやき」


 カウンターで読み始めたばかりの本に栞を挟む間もなく、シュシュアとフィオが突風のように駆け寄ってくる。

 その瞳は「早く飯を出せ」という、狩人のそれだ。


「まだ太陽が昇りきってもいないんだが。朝から騒々しいにもほどがあるぞ」


「そんなことよりてりやきよ、てりやき! 約束したでしょ!」


 オレの抗議など聞こえていないかのように、シュシュアは子供のようにカウンターをぱしぱしと叩きながら、合唱を始めた。


「て・り・や・き! て・り・や・き!」


「……てりやき……てりやき……」


 オレの袖を引っ張り続けるフィオも、それに合わせて小さな声で呟き始める。

 うるさい。実にうるさい。大声と小声の音攻撃が、オレの静かな朝を完全に破壊していく。


「だって、昨日の夜からずっと楽しみにしてたんだもの! もうお腹と背中がくっついちゃいそう!」


「……お腹、ぺこぺこ」


 シュシュアはカウンターをバンバンと叩き、フィオも無言の圧をかけてくる。

 せっかくの静かな朝の時間が台無しだ。

 だが、二人のあまりに純粋な食欲に当てられてか、オレの腹もぐぅ、と情けない音を立てた。……いかん、完全に感化されている。


「わかった、わかったから静かにしろ。今から作る」


 急かされるように席を立ち、オレは休憩室のキッチンへと向かった。

 最高の『岩窟鶏ロック・コッコ』は既にある。秘伝のソースも完璧だ。あとは、あの甘辛いタレを完成させるだけ……。

 オレは調味料の棚を開け、そして固まった。

 いつも使っている、花の蜜を煮詰めて作った砂糖の瓶が、空っぽだ。

 キッチンに立ち、調味料の棚を眺めたオレは、静かに舌打ちした。完全にオレの見落としだった。


「悪い、砂糖を切らしてた。買い出しだ」


 休憩室で待機していた二人にそう告げると、案の定、不満の大合唱が始まった。


「ええーっ! 今から行くの!? もうお腹ぺこぺこなのに!」


「……すぐ、食べられない?」


「無いものは作れん。少し待ってろ」


 オレがそう言ってエプロンを外そうとすると、シュシュアがぱっと立ち上がった。


「じゃあ、私たちが買ってくるわよ! ジルさんはここで鶏肉の下準備でもしてて! その方が効率的でしょ!」


「……うん。私たちの方が、早い」


 フィオもこくりと頷く。確かに、二人の脚力なら市場まであっという間だろう。だが、


「いや、オレが行く」


「どうしてよ!? 仕事サボりたいだけでしょ!」


「その通りだ。お前らが代わりにカウンターに座ってろ。どうせ利用者なんて来ないだろうしな」


 あまりに堂々としたオレの態度に、シュシュアが「なっ……!」と絶句する。


「横暴よ! 横暴よ! 勝手すぎるわ!」


「……ジルだけずるい」


 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を前に、オレはニヤリと口角を上げた。


「まあ聞け。最高のてりやきを作る、と言っただろう? それには、最高の甘味料が必要なんだ。市場で売ってるような普通の砂糖じゃ、役不足だ」


 オレの真剣な口調に、二人の騒ぎ声がぴたりと止まる。


「心当たりがある。お前たちじゃ見つけられない、特別な代物がな。だから、オレ自身が行く必要がある」


 その言葉に、二人の顔がぱあっと輝いた。不満の色は消え去り、そこには純粋な期待だけが浮かんでいる。


「と、特別な甘味料……!」


「……最高の、てりやき……」


 現金なやつらめ。


「そういうことなら仕方ないわね! 早く行ってきなさい!」


「……いい子で、待ってる」


 手のひらを返したような二人に苦笑しつつ、オレは一人で王都の喧騒へと歩き出したのだった。


◆◇◆


 目的の店は、大通りの喧騒から一本外れた裏路地にしっそりと佇んでいた。

 蔦の絡まる壁に、古風な木製の看板。『賢者の庭』。

 扉を開ける前から、清涼感のあるハーブの香りがふわりと鼻をくすぐる。市場の雑多な匂いとは違う、心を落ち着かせる香りだ。

 オレは迷わず、年季の入った扉に手をかけた。


 カランコロン、と乾いたベルの音が鳴る。

 店内に足を踏み入れると、そこは相変わらず静かで、清らかな空気に満ちていた。壁一面の棚に並ぶ、無数のガラス瓶。天井から吊るされた、薬草の束。

 店の奥、ビーズのカーテンの向こうから、人の気配がした。


「あ……」


 現れたのは、この店の店主であるエルフの少女だった。

 月光を編んだような銀髪に、白い肌。だが、その神秘的な美貌とは裏腹に、オレの姿を認めた瞬間、彼女の身体は石のように硬直した。


「い、いらっしゃい……ませ……」


 かろうじてそれだけ言うと、彼女は前回のように箱に隠れる代わりに、カウンターの陰にさっと身を潜め、うさぎのように瞳だけを覗かせてこちらの様子を窺っている。……まあ、多少の進歩はあったと見るべきか。

 オレは彼女の奇行には触れず、単刀直入に用件を切り出した。


「すまないな。甘味料を探しているんだが、何か面白いものはないか?」


「か、かんみりょう……ですか?」


「ああ。肉を焼くための、甘辛いタレに使う。市場で売っているような普通の砂糖じゃ、少し物足りなくてな」


 オレの言葉に、エルフの少女は少しだけ警戒を解いたようだった。

 料理の話題は、彼女の専門分野らしい。カウンターの陰からそろりと出てくると、おずおずと棚の方へと歩き出した。


「お肉……を、焼くタレ……。それでしたら、いくつか……」


 彼女は華奢な指で、棚に並ぶいくつかの小瓶を指し示した。


「こちらは、『陽蜜樹ようみつじゅの樹液』を煮詰めたもの。深いコクと、少しだけ燻したような香りがします。こっちは、『月花げっかの蜜』。夜にしか咲かない花の蜜で、上品で、すっきりとした甘さです。あとは……この『岩糖がんとうの根』を乾燥させて粉にしたものも……」


 なるほど、どれも興味深い。

 やはりここにきて正解だったか。普通の市場じゃ、手に入らないものばかりが揃っている。

 オレはそれぞれの瓶を手に取り、蓋を開けて香りを確かめる。彼女は、オレが真剣に吟味する様子を、緊張した面持ちで見守っていた。


「……よし。この陽蜜樹の樹液を貰おう。この燻したような香りが、鶏肉の風味をさらに引き立てるはずだ」


「は、はいっ!」


 オレの選択に、彼女の顔がぱっと輝いた。自分の扱う商品の価値を、正しく理解してもらえたことが、よほど嬉しかったらしい。

 会計を済ませ、包みを受け取って店を出ようとした、その時だった。


「あ、あのっ!」


 背後から、引き留めるような、か細い声がした。

 振り返ると、エルフの少女がカウンターから小さな紙包みを差し出しながら、顔を真っ赤にして俯いている。


「こ、これ……この間の、お礼、です……。あの……札の、アドバイスの……おかげで、興味もってくれるお客さんも、ちらほら……」


 そういえば、そんなこともあったな。

 確かに、改めて店内を見回してみると、調味料の前に御札それぞれ貼られていた。

 正直、あの程度で恩義に感じないでほしいが、無下にするのも気が引ける。オレは「ああ……ありがとう。その役に立ったならなによりだ」といって、その包みを受け取った。


「……じゃあな」


 短く告げて店を出る。

 カランコロン、とベルの音が遠ざかる。手の中には、まだ温かい、小さな紙包み。一体、何が入っているんだか。

 まあいい。今は最高のてりやきのことだけを考えよう。

 オレは手に入れた最高の甘味料を手に、腹を空かせた二人が待つ図書館へと、少しだけ早足で戻るのだった。

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