37話 俺の料理の生命線
その日の昼食は、買い出しで手に入れた新鮮なハーブをふんだんに使った『
皮はパリッと黄金色に、肉はしっとりとジューシーに焼き上げた鶏肉に、霧隠れの
我ながら完璧な出来栄えに満足していると、いつものように昼飯のためにやってきたシュシュアが夢中で鶏肉を頬張りながら、ふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえばジルさん! ジルさんの料理って、いつも最後に黒くてとろりとした液体を入れてない? オムライスのチキンライスにも入ってたし、ポークソテーのソースにも。あれが味の決め手なんでしょ!」
シュシュアの言葉に、フィオもこくりと頷く。
「……あれを入れると、味が深くなる。魔法の液体」
ほう、よく見ているじゃないか。
オレはニヤリと口角を上げると、休憩室の棚の奥から、ずっしりと重い陶器の瓶を取り出した。
「まあな。あれはオレの怠惰ライフの生命線、『秘伝のソース』だ。前世の記憶を頼りに、この世界で再現した醤油と味醂もどきだな」
「しょうゆ……みりん……?」
初めて聞く単語に、二人は不思議そうに首を傾げている。
オレがこの世界に来て、まず絶望したことの一つ。それは、食文化の圧倒的な貧しさだった。
特に、オレの料理の根幹を支えていた、あの二つの万能調味料が存在しないという事実は、オレの怠惰ライフ計画そのものを根底から揺るがした。
美味い飯がなければ、最高の怠惰は実現できない。
だから、オレは作った。この世界の食材だけで、あの味を再現するために、試行錯誤を繰り返したのだ。
「醤油は大豆から作る発酵調味料だ。塩辛さの中に、深い旨味と香りがある。味醂は米から作る甘い酒で、料理に照りとコクを与えてくれる。この二つがあれば、大抵の料理は格段に美味くなる」
「へえー! そんな便利なものがあるのね! でも、どうやって作るの? 大豆なんて、初めて知ったけど……」
シュシュアの当然の疑問に、オレは「ふっ」と不敵に笑ってみせた。
「代用品ならいくらでもあるさ。この大陸の南方に自生する『
オレは語りながら、キッチンで実際の工程を再現してみせる。
黒鉄豆を巨大な蒸し器で柔らかく蒸し上げ、それを潰して小麦に似た穀物の炒って砕いたものと混ぜ合わせる。そこに、岩塩を溶かした水を加えて、大きな木の樽の中に仕込んでいく。
「ここまではいい。問題は、ここからだ」
オレは樽の蓋を叩き、真剣な顔で言った。
「本来、醤油作りには『
「じゃあ、どうするの?」
フィオが、真剣な眼差しで問いかけてくる。
オレは、キッチンに備え付けられた呼び鈴を、チリン、と鳴らした。
すると、天井の隅の影がぬるりと蠢き、オレの忠実なる同居人が、その冒涜的な巨体を現した。
「ひぃっ! で、出たわね、クロ!」
シュシュアがまだ慣れないといった様子で後ずさる。
だが、その隣でフィオは、後ずさるどころか、その紫色の瞳をきらりと輝かせた。
「……かっこいい。影みたいにかっこいい」
元・災厄である彼女の感性は、どうやら常人とは違うらしい。クロのおぞましい姿に、一種の同族嫌悪ならぬ、同族親和のようなものを感じているのかもしれない。
オレはそんな二人の反応の違いを面白く思いながら、クロに樽を指し示した。
「クロ。出番だ」
ギチチ、と嬉しそうな音を立てると、クロはその不定形の体から黒いなにかを、樽の中へと差し入れた。
樽の中の黒鉄豆と穀物の混合物が、クロの体組織に触れた瞬間、ぶくぶくと微かな気泡を立てて発酵を始めた。
「な、何をしてるのよ!?」
「クロにはな、あらゆる物質を分解して、望む形に再構築する力があるんだ。まあ、一種の生体錬金術みたいなもんだな。こいつの力を借りることで、麹菌による発酵と似たような現象を、無理やり引き起こしてるってわけだ」
「……便利。欲しい」
フィオの率直すぎる感想に、シュシュアが「ペットじゃないのよ!」と慌ててツッコミを入れている。
見た目はかなりグロテスクだが、これで極上の旨味と香りが生まれる。
数時間後、樽の中身は黒く、芳醇な香りを放つ液体――醤油もどきへと完全に変化していた。
それを麻袋で濾して、火入れをすれば完成だ。
「さて、これで終わりじゃないぞ。次は味醂だ」
オレは醤油の樽を片付けながら、今度は別の材料を取り出す。
もち米に似た、粘り気の強い穀物『銀のもち粟』。そして、以前グレンから貰った幻の蒸留酒『氷狼の喉笛』だ。
「こっちも基本は同じだ。蒸したもち粟に麹の力を加えて、デンプンを糖に変える。そこに強い酒を加えて熟成させるんだ」
再びクロを呼び、今度は蒸したもち粟の入った樽に体の一部を浸させる。醤油の時とはまた違う、甘い香りがふわりと立ち上り始めた。
「クロの力は万能でな。分解する対象と、生み出す物質をある程度コントロールできる。タンパク質をアミノ酸に変えることも、デンプンを糖に変えることもな」
糖化が終わったもち粟に『氷狼の喉笛』を注ぎ込み、蓋をする。
本来ならここから数ヶ月熟成しなければいけないが、オレの能力を使えば一瞬にできる。樽に軽く手をかざし、内部の時間だけを高速で進めるのだ。
蓋を開けると、琥珀色に輝くとろりとした液体が、蜜のように甘く、芳醇な香りを放っていた。
「これが、オレとクロの共同作業の結晶だ」
オレが完成したばかりの醤油と味醂を小皿に注ぎ出すと、シュシュアとフィオは今度こそ、好奇心に満ちた目でそれを覗き込んだ。
「うわぁ……すごく香ばしくて、いい匂い……!」
シュシュアが醤油を指先につけてぺろりと舐めると、その瞳が驚きに見開かれた。
「しょっぱいのに、甘くて……深い! これが……ジルさんの味の秘密……!」
「……こっちの味醂は、甘い。お菓子みたい。でも、お酒の匂いもする」
フィオも、その奥深い味わいに完全に魅了されたようだった。
二人が感動に打ち震えていると、仕事を終えたクロが、褒めてくれと言わんばかりにオレの足元に巨体をすりつけてくる。オレは「よくやったな」とその頭らしき部分を撫でてやりながら、二人に告げた。
「ふっ、だろ? さて、明日の昼飯は、この出来立てのソースを使って、最高の照り焼きでも作ってやるか」
その、まだ聞き慣れない、しかし響きだけで美味しいと分かる料理の名前に、シュシュアとフィオは顔を見合わせ、同時に目を輝かせた。
「「照り焼き!?」」
二人の期待に満ちた声が、ハーブと、そして出来立ての調味料の香りが満ちる休憩室に、心地よく響き渡るのだった。
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