20話 いつもの日常はこういう感じ

 ふわり、と鼻先をくすぐる朝の匂い。

 窓の隙間から差し込む太陽の光が、部屋の埃をキラキラと照らしている。私はゆっくりと瞼を開け、まだ少し重い体を起こした。

 隣のベッドからは、すぅ、すぅ、と規則正しい小さな寝息が聞こえてくる。

 淡い色の髪を枕に散らし、人形のように安らかな顔で眠っているのはフィオだった。

 あの日、ジルの作る料理の味を知って、すっかり毒気を抜かれてしまった元・災厄。行く当てのない彼女を見かねて、私が住んでいる集合住宅に連れ帰ってから、もうずいぶんと経つ。

 最初は警戒心の強い猫のようだった彼女も、今ではすっかり私に懐いて、こうして穏やかな寝顔を見せてくれるようになった。

 そのことに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は静かにベッドを抜け出した。


 備え付けの小さなキッチンに立ち、簡単な朝食の準備を始める。

 今日のメニューは、少し固くなったパンを使ったフレンチトーストと、干し肉と野菜の切れ端を煮込んだだけの簡単なスープ。

 卵を溶き、牛乳と少しの砂糖を加えて混ぜ合わせる。そこにパンを浸していると、背後で寝室のドアが軋む音がした。


「……シュシュア……?」


 眠そうな目をこすりながら、フィオがひょっこりと顔を出す。


「おはよう、フィオ。もう少しで朝食ができるから、顔を洗っておいで」


「……うん……。今日は、図書館に行くの?」


 こてん、と首を傾げるフィオの問いに、私の心は少しだけ揺れた。

 行きたい。行けるものなら、毎日でも通いたい。

 ジルのいるあの静かな空間で、他愛もない話をしながら、彼が腕によりをかけて作ってくれる絶品の昼食を待つ。あの時間は、何物にも代えがたい、最高の幸福だ。

 けれど、現実はそう甘くない。

 この宿舎の家賃も、日々の食費も、天から降ってくるわけじゃないのだ。


「ううん。今日は冒険者ギルドに行こうと思ってる。そろそろ稼いでおかないと、今月の支払いが厳しいから」


 そう言うと、フィオは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにこくりと頷いた。


 ジュウウッ、とフライパンの上でバターが溶ける心地よい音。卵液をたっぷりと吸ったパンを乗せると、甘くて香ばしい匂いが部屋に満ちていく。きつね色に焼きあがったフレンチトーストを皿に盛り付け、温めたスープをカップに注ぐ。

 テーブルに向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。

 私が作った、何の変哲もない朝食。それでもフィオは、初めてのご馳走を前にした子供のように、目をきらきらさせてフレンチトーストを頬張った。


「……おいしい」


「ふふっ、良かった。ジルさんの料理には遠く及ばないけどね」


「うん。でも、これも好き」


 素直な感想が、なんだかとても嬉しかった。

 食事を終え、戦闘用の革鎧に着替えながら、私はフィオに問いかけた。


「それで、フィオはどうするの? 今日も一緒に来る?」


「行く。あたしも、ギルドに行く」


 フィオは当然のように頷いた。


 あの日、ジルと出会ってからのフィオの変化は劇的だった。

 世界を滅ぼすことしか知らなかった彼女は、美味しい食事の味を知り、温かい寝床の心地よさを知った。けれど、この世界で『普通』に生きていくためには、それだけでは足りない。

 フィオがただの人間ではないことは、一緒に暮らしていてすぐに分かった。彼女の持つ力の本質は、私にもまだ理解できない。

 それでも、この世界で生きていくのなら、仕事は必要だ。だから、私は彼女に冒険者になることを勧めた。彼女の力があれば、それはたやすいことだと分かっていたから。

 とはいえ、いきなり高難易度の依頼を受けるようなことはしてない。

 二人で組んで、ゴブリンの討伐や薬草の採取といった、ごく簡単な依頼をこなすだけ。それでも、彼女にとっては新鮮な体験らしかった。


 二人で並んでギルドへと向かう。

 ギルドの扉を開けると、朝から景気づけに酒を煽る冒険者たちの喧騒と、汗と土の匂いが混じった熱気が私たちを迎えた。

 依頼が張り出された掲示板の前で、今日は何を受けようかと思案する。


「ゴブリン退治は昨日やったし……薬草採取は少し飽きたわね。ああ、この『迷子のペット探し』なんてどうかしら?」


「猫……! 探す!」


 フィオやる気に満ち溢れた瞳をしていると、不意に、背後から鈴を転がすような、しかし棘のある声が投げかけられた。


「あら、これはこれは。『雷電の剣姫』様が、猫探しとはずいぶんと落ちぶれたものですわね」


 振り返ると、そこに立っていたのは、私と年の頃も変わらない、けばけばしい装飾のついたローブを身にまとった少女だった。歩くたびに、意味もなく魔力の光の粒子がキラキラと舞い落ちている。

 私はきょとんと首を傾げた。


「ええと……名前なんだっけ?」


「なんですって!?」


 少女はカッと顔を赤らめ、金切り声で叫んだ。


「ルルクシアですわ! あなたの永遠のライバル、ルルクシア!」


 ああ、そんな名前だったわね。

 ルルクシアはわざとらしく咳払いを一つすると、扇子で口元を隠し、再び高慢な笑みを浮かべた。


「……ふん。まあ、ライバルというのも過去のことのようですが。あなたがS級昇格を辞退して、ゴブリンだの猫だの、雑用まがいの依頼ばかりこなしているという噂は本当でしたのね。もはや、わたくしのライバルと呼ぶのもおこがましいですわ」


 ああ、本当に面倒くさいのが来た。

 私が心の中で深いため息をついた、その時だった。

 私の隣にいたフィオが、すっと一歩前に出て、温度のない瞳でルルクシアを真っ直ぐに見つめていた。


「その頭のぐるぐる、鳥でも飼ってるの?」


 そう言うと、フィオは無邪気にルルクシアの完璧な縦ロールに手を伸ばし、指でぴょんぴょんと引っ張った。


「きゃあっ! な、何をするんですの! おやめなさい! これは『スパイラル・シャイニング』という王都で最新のファッションですわ!」


 ルルクシアの悲鳴に、フィオはぴょんぴょんと引っ張っていた手をぴたりと止めた。

 そして、きらり、とその紫色の瞳を輝かせる。


「スパイラル……シャイニング……?」


 こてん、と首を傾げ、心底不思議そうに呟いた。


「……なんだか、甘くて美味しそうな名前ね」


「は?」


 ルルクシアが間の抜けた声を上げた、次の瞬間だった。

 フィオはあむっと小さく口を開けると、なんの躊躇もなく、ルルクシアの完璧に固められた縦ロールに、がぶりと噛みついた。


「ぎゃああああああああああっ!!」


 ギルド中に、ルルクシアのかつてない絶叫が響き渡る。


「わ、わたくしの髪が! 食べ物ではありませんことよーーーっ!」


 ルルクシアの絶叫に、騒がしかったギルドの空気がぴたりと止まった。 

 なんだなんだ、と遠巻きに視線が集まってくるのが分かる。誰もがジョッキを片手に、何事かと私たちの様子を窺っていた。


「こ、こらフィオ! ダメでしょ、人の髪の毛を食べたら! ぺっ、しなさい!」


 そう言いつつも、内心は爆笑でお腹が痛い。笑いを堪えるのがこんなに苦しいなんて……!

 フィオの口から縦ロールを引きはがすと、フィオはもぐもぐと数回口を動かし、心底がっかりした顔で、その感想を述べた。


「……ん。あんまり美味しくない。ちょっと硬くて、ぱさぱさするわ」


「当たり前ですわ! わたくしは焼き菓子ではありませんのよ!」


 もはや半泣きで、一部が崩れて無残な姿になった髪を押さえるルルクシア。その姿は、遠巻きの憐憫な眼差しも相まって、もはや哀れだった。


 彼女は「ともかく!」と口にして、気を取り直すと、勝ち誇ったように一枚の依頼書をひらひらと見せつけてきた。


「ふんっ! あなたたちのような猫探し専門の雑魚と違って、わたくしはギルドからの指名で、高難易度の依頼を受けに来ましたのよ!」


 依頼書には『黒鉄の森に出現したオーガの討伐』と書かれている。確かに、今の私たちが受けているような依頼とは格が違う。


「あなたにはもう縁のない、華やかな舞台ですわね。おーほほほほ!」


 扇子を広げて高笑いするルルクシアに、私は心底どうでもよさそうに返した。


「へえ、頑張ってね」


 私は彼女を完全に無視して、壁に張り出された『迷子の三毛猫ミーちゃんを探してください』という依頼書に手を伸ばす。

 その態度が、ルルクシアの最後のプライドを粉砕したようだった。


「なっ……! そ、その態度はなんですの! 少しは悔しがるとか、羨ましがるとか、そういう反応があるでしょう!?」


「ええ……だって、オーガより猫の方が可愛いじゃない」


「そういう問題ではありませんわ!」


 ヒステリックに叫ぶルルクシアと、完全に会話が噛み合わない私。

 その騒ぎに、ついにギルドの受付嬢が困った顔で割って入ってきた。


「あ、あのー、ルルクシア様、シュシュア様……他のお客様のご迷惑になりますので、そのあたりで……」


 受付嬢にまで窘められ、ルルクシアは悔しそうに顔を真っ赤にした。

 彼女はビシッと私を指差すと、渾身の捨て台詞を吐き放つ。


「見てらっしゃい! わたくしがこの依頼を華麗にこなして、あなたとの格の違いというものを見せつけてやりますわ! そして、この実績をもとにS級に昇格ですわ! おーほっほっほっ」


 彼女はそう言って笑いながらローブの裾を翻し、わざと大きな足音を立ててギルドから出て行った。

 嵐が去ったような静けさの中、フィオが私の服の袖をくいっと引っ張る。


「……シュシュア。今日の夕飯、オムレツがいいな」


「そうね。帰りに卵を買って帰りましょうか」


 私たちは何事もなかったかのように、猫探しの依頼書を受付カウンターに持っていくのだった。

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