21話 腹が減っては猫も探せぬ!
その日の私とフィオは、王都中を駆け回っていた。
依頼内容は『迷子の三毛猫ミーちゃん探し』。
聞き込みを開始すると、どうやらこのミーちゃん、なかなかのいたずら好きで常習犯らしいことが判明した。
「ああ、ミーちゃんかい? さっきなら、魚屋の親父さんの荷車から干し魚を失敬して、屋根伝いに西の方へ逃げてったよ」
「仕立て屋の軒先で、干してあった高級な絹布の上で優雅に昼寝してましたわ」
「仕立て屋から追い出された後、路地裏で野良犬相手に一世一代の威嚇をしてましたぜ」
目撃情報を頼りに、まるでスタンプラリーのように王都を巡る。
こういう地道な依頼は、昔の私なら絶対に受けなかっただろう。もっと派手で、実入りが良くて、自分の名声が高まるような依頼ばかりを選んでいたはずだ。
けれど、今は違う。
フィオと二人で街の人の話を聞き、時々「あら、『雷電の剣姫』様じゃないか! 猫探しなんて、感心だねえ」と差し入れをもらったりする。そういう、何気ないやり取りが、今はとても心地よかった。
「最後に目撃されたのは中央広場のパン屋さんあたり、と……」
依頼書を片手に歩き出すと、すぐにフィオが私の服の袖をくいっと引っ張った。
彼女が指差す先、市場の入り口にある屋台から、とてつもなく食欲をそそる匂いが漂ってきていた。
「……あれ、おいしそう」
「あら本当! 揚げたてパンの屋台じゃない!」
こんがりきつね色に揚がったパンに、砂糖がたっぷりとまぶされている。これはもう、素通りするなんて選択肢はない。
「よし、寄り道決定! 腹が減っては猫探しなんてできないわ!」
二人で揚げパンを一つずつ買い、熱々のそれを頬張る。
サクッとした衣の中から、ふわふわの生地と、とろりとしたカスタードクリームが溢れ出した。
「んー、おいひぃ……!」
「……うん。甘くて、あったかい」
フィオが、目を細めて幸せそうに呟く。その表情を見ているだけで、私の心まで温かくなった。
腹ごしらえを済ませ、改めて聞き込みを再開する。
パン屋の主人に話を聞くと、「ああ、ミーちゃんなら、さっき裏口からパンの耳を盗んで、広場の方へ走っていったよ」と有力な情報を得ることができた。
「広場ね! よし、今度こそ捕まえるわよ、フィオ!」
「うん」
私たちは意気込んで、再び活気あふれる中央広場へと向かった。
けれど、広場に足を踏み入れた瞬間、私たちの足はぴたりと止まってしまった。揚げパンの甘い香りとはまた違う、抗いがたい魔性の匂いが、私たちの鼻腔を支配したからだ。
ジュウウウッ、と肉の焼ける音。香ばしい醤油ベースのタレが焦げる、暴力的なまでの香り。
匂いの発生源である露店に、私たちは無意識のうちに吸い寄せられていた。そこでは、大ぶりの肉塊と野菜が交互に串に刺され、炭火の上でじっくりと炙られている。
「……おいしそう」
「これは……猪肉の串焼きね……。見てフィオ、この照り! タレが染み込んだ肉汁が、炭の上に落ちて煙を上げてるわ……!」
もはや、私たちの頭の中から、三毛猫のミーちゃんのことなどすっかり消え去っていた。
私たちはそれぞれ串焼きを一本ずつ買うと、近くのベンチに腰掛けて、熱々のそれを夢中で頬張った。
一口噛むと、表面の香ばしい焼き目のすぐ下から、閉じ込められていた肉汁がじゅわっと溢れ出す。猪肉特有の力強い旨味と、甘辛い秘伝のタレが口の中いっぱいに広がり、合間に挟まれた玉ねぎの甘みが、その濃厚な味わいをさらに引き立てていた。
「んん〜〜っ! 幸せ……!」
「……うん。タレ、おいしい」
フィオも、普段の無表情はどこへやら、口の周りをタレでテカテカにしながら、うっとりと目を細めている。
二人してしばし、至福の味わいに浸っていた、その時だった。
私の脳裏に、パンをくわえて走り去る三毛猫の姿が、ふと蘇った。
「―――あっ! 猫!」
「忘れてた!」
私たちははっと我に返り、慌てて立ち上がった。いけない、いけない。美味しいものに夢中になって、すっかり依頼のことを忘れていたわ。
私たちがきょろきょろと辺りを見回していると、串焼き屋の陽気な親父さんが、呆れたように笑いながら声をかけてきた。
「お嬢ちゃんたち、猫なら、さっきあっちの時計塔の方に、勢いよく走っていたのを見たぞ」
「本当!? ありがとう、おじさん!」
私たちは礼を言うのもそこそこに、親父さんが指さした方へと駆け出した。
すると、広場の中心にそびえ立つ古い時計塔の周りに、大勢の人が集まって空を見上げ、何やらざわめいているのが見えた。
「おい、危ないぞ、あんなところに……」
「誰か助けに行けないのか?」
人だかりをかき分けて前に出ると、私たちの目に信じられない光景が飛び込んできた。
時計塔の、それも一番てっぺん。長針のすぐ上で、一匹の三毛猫が、盗んだパンの耳をのんきに毛づくろいしているではないか。
ミーちゃんだった。
地上数十メートルの高さ。見ているだけで足がすくむような場所で、当の本猫はまったく気にする様子もない。
だが、その時だった。
ゴォン、と時計塔が時を告げる鐘を鳴らし、その振動で長針が微かに揺れる。それに驚いたのか、ミーちゃんはバランスを崩し、にゃっ、と短い悲鳴を上げて足を滑らせた!
かろうじて前足で針の縁にぶら下がっているが、それも長くは持ちそうにない。
「きゃあ!」
「落ちるぞ!」
広場から悲鳴が上がる。
まずい! このままじゃ!
「フィオ!」
「うん!」
私が叫ぶのと、フィオが頷くのはほぼ同時だった。
やるしかない! 私は呼吸を整え、魔術を同時に起動させる。
―――
全身に魔力が駆け巡り、世界の時間が引き伸ばされる。壁面の僅かな凹凸が、完璧な足場として私の目に映った。
地を蹴る。身体強化によって増幅された脚力が爆発し、私の体は弾丸のように射出された。 思考と寸分の狂いなく連動した体が、壁の突起を蹴り、さらに加速する。ジグザグに、まるで雷光そのもののように、私は時計塔の壁を駆け上がっていく。
風を切り、あっという間に長針へとたどり着く。だが、私が手を伸ばす寸前、ミーちゃんはついに力尽き、にゃーん、と悲しい鳴き声を上げて空中へと投げ出されてしまった!
「しまっ……!」
けれど、地上で待ち構えていたフィオは、冷静だった。
彼女が地面にそっと手を触れると、その足元の影が、まるで生き物のようにぬるりと伸び、落下してくるミーちゃんを柔らかなクッションのように優しく受け止めた。
「「「おお……!」」」
私が見事に着地すると、広場を埋め尽くしていた人々から、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。
◇◆◇
「いやー、お二人さんのおかげで助かったよ! ありがとうねえ!」
依頼主であるパン屋の女将さんは、戻ってきたミーちゃんをぎゅっと抱きしめると、私たちに満面の笑みを向けた。手には、焼きたてのパンがぎっしりと詰まった紙袋が握られている。
「ほんのお礼だよ。よかったら持ってお行き!」
私たちはたくさんの感謝とパンを受け取り、依頼完了の報告をするため、夕暮れの道をギルドへと向かった。
派手な魔物討伐ではないけれど、誰かにこうして感謝されて、美味しいものを食べて笑い合う。なんだかんだ言って、今のこの生活を、私はとても気に入っている。
日に照らされた王都の街並みを眺めながら、しみじみと思う。
S級冒険者として頂点を目指すことしか頭になかった頃は、こんな穏やかな達成感を味わうことなんて、一度もなかった。
「パン、ジルにもあげたら喜ぶかな……?」
隣を歩くフィオが、紙袋を大事そうに抱えながらそんなことを呟く。「きっと喜ぶよ」と、わたしは確信をもって返事をする。
そんな充足感を胸に、私たちはギルドの扉を開ける。
だが、そこに広がっていたのは、いつもの喧騒とはまったく違う、ただならぬ緊張感と、重苦しいざわめきだった。
景気づけに酒を煽る声も、武勇伝を語る笑い声もない。誰もが声を潜め、不安と焦燥に満ちた顔で、仲間と何かを囁き合っている。
「どうしたのかな……?」
ただ事ではない雰囲気を感じ取り、人だかりに近づく。すると、私たちの耳に、冒険者たちの声が飛び込んできた。
「おい、聞いたか……」
「ああ、あのルルクシア様のパーティーが全滅したらしい……」
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