6話 ある親バカの悩み

 完璧なコーヒー。面白い本。そして、誰にも邪魔されない時間。

 この三種の神器が揃った時、オレの幸福度は最高潮に達する。

 このまま定時まで、静寂の城の主として君臨するのだ。


 カラン。


 滅多にならないはずの来訪者を告げるベルの音。

 オレはゆっくりと本を閉じ、眉間のシワを指でほぐした。最近、どうもこの図書館の静寂が安売りされすぎている気がする。

 また、例の噂を聞きつけた腕自慢だろうか。

 オレは完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、カウンターから顔を上げた。


「はい、ご用件は……ああ、お前か。久しぶりだな、グレン」


 そこに立っていたのは、大柄な体躯を安物の外套で隠した、見慣れた男だった。

 その男――グレンは、かつて『星砕きのグレン』という、星すら砕くほどの剛腕を持つと謳われた元S級冒険者だ。

 粗暴な見た目とは裏腹に、引退後は女性向けの衣料品店を営んでいる。そのギャップが面白い。


「よう、ジル。相変わらず死んだ魚みたいな目をしてるな」


 グレンはニヤリと笑い、大きな革袋を肩から下ろしながら、勝手知ったる様子でカウンターの中に入ってきた。


「それで、何の用だ?」


 オレが椅子に座ったまま尋ねると、グレンの顔がみるみる曇った。


「なあ、聞いてくれよ、ジル! オレの店が、ヤバいんだ……!」


 なるほど、相談事か。

 グレンが冒険者をしていた頃からも、よくオレのところに相談にきていた。まさか商売のことまで相談されるとは。


「近くにさ、巨大資本の衣料品店が進出してきてな。流行りのデザインの服を、信じられないくらいの安値で売ってるんだ。客がごっそりそっちに流れちまって……」


「なにか手は打たなかったのか?」


「ああ……対抗してこっちもセールをした。セール中はそこそこ客も来るんだが、終わった途端、ぴたりと誰も来なくなる。最近じゃ『次のセールはいつ?』としか聞かれない始末だ。利益なんてほとんど出てねえし、もう疲れたよ」


 オレは心底うんざりして、本音を口にした。


「店を畳んで冒険者に復帰すればいいだろ。お前の実力じゃあ、そのほうが楽に稼げる」


「馬鹿言え!」


 グレンは血相を変えて否定した。そして、ふと表情をデレりと緩ませる。


「オレにはアンナがいるんだ。天使みたいに可愛い、たった一人の娘がな!」


 親バカかよ。

 星をも砕くと恐れられた男の今の姿がこれだ。娘ができて、すっかり毒気が抜けてしまったようだ。


「冒険者に復帰してみろ。一度遠征に出れば、数ヶ月も家に帰れないなんてザラだ。娘が初めて歩いた日も、初めて言葉を話した日も、オレは見逃しちまった。もうあんな思いはごめんだ。あの子が大きくなるのを、この目で見守りたいんだよ。だから、冒険者には戻らねえ!」


「ギルドは何も言わんのか。S級冒険者なんて引っ張りだこだろ」


「表向きは、呪いで再起不能ってことにしてる。どうせ、オレがいなくたって世界は何事もなく回るさ。誰かが代わりをやってくれる」


 グレンは肩をすくめてこともなげに言った。


「まあ、これはお前から教わったことだけどよ」


 そんな青臭いことを言った記憶はないが、好きにすればいいと思う。

 だが、問題はそこじゃない。


「で、結局オレに何をしろと?」


「頼む、ジル! お前の知恵を貸してくれ! この通りだ!」


 巨漢が勢いよく頭を下げる。

 そんなこと言われてもな。

 オレが盛大にため息をつくと、グレンはニヤリと笑い、革袋の中から厳重に封をされた一本の瓶を取り出した。


「ふふふっ、もちろんタダでとは言わないぜ。とっておきの礼は持ってきたぜ」


 ずしりと重い、黒曜石のような瓶。そこには『氷狼の喉笛』というラベルが貼られていた。


「北の果て、万年氷河の水で仕込み、吹雪の中でしか育たない麦を原料にした蒸留酒だ。流通量が極端に少なくてな。普通の商人が手に入れようと思ってもまず無理な代物だぜ」


「……」


「一口飲めば、全身の血が沸騰するような熱さと、脳天を貫く氷のようなキレが味わえるそうだ。どうだ?」


 オレは無言でグレンの手から瓶をひったくった。


「……話を聞こうじゃないか」


 幻の酒。その響きだけで、オレの面倒くさがりな心は霧散した。

 オレは休憩室の冷蔵庫から、先日仕込んでおいたとっておきを取り出す。


「最高のお酒には、おつまみは必須だな」


 皿に盛り付けたのは、薄くスライスした『風渡り豚の生ハム』と、裏庭で育てたハーブを練り込んだクリームチーズ。仕上げに、黒胡椒を軽く振る。


「えっと、仕事中なのにいいのか?」


「どうせ誰もこないからいいんだよ」


 オレがそういうと、グレンは相変わらずだな、と苦笑する。しかし、その手はすでにおつまみへと伸びていた。


「うおっ、なんだこれ! めちゃくちゃ美味いぞ!」


 生ハムを口に放り込んだグレンが、驚きに目を見開く。

 ふふん。オレの怠惰ライフは、食の充実によって支えられているのだ。


「さて、本題をいただくとしようか」


 グラスを二つ用意し、『氷狼の喉笛』の封を切る。とろりとした透明な液体を注ぐと、消毒液にも似た、しかしどこか甘く清冽な香りがふわりと漂った。

 グラスを軽く合わせ、一口。

 次の瞬間、喉が焼けるような熱さに襲われ、直後に、まるで氷の刃で撫でられたかのような衝撃的なキレが駆け抜けた。


「……かっ!」


「……こいつは、やべえ!」


 思わず声が漏れる。これはすごい。生ハムの塩気と脂が、この酒の強烈な個性を完璧に受け止めていた。


「まず、その馬鹿げたセールを今すぐやめることからだな」


「なっ!? やめたら、それこそ客が一人も来なくなる!」


「そのやり方じゃ、店の価値を自分で下げてるだけだ。セールでしか買わない客は、本当の客じゃない。ただのハイエナだと思え」


 脳裏に、前世の記憶が蘇る。安売りは麻薬だ。一時的な売上は立つが、やがて定価では誰も買わなくなり、ブランド価値は地に落ちる。

 そうやって消えていったお店を、オレはいくつも見てきた。


「そういえば以前、お前の店に行った時、熱く語ってただろ。辺境の村に住むエルミナとかいう婆さんの作る服は、素材も縫製もデザインも一級品だって。あんなこだわりの塊を、使い捨ての流行品と同じ土俵で安売りするなんて、宝の持ち腐れもいいところだ」


「だが、高くても売れねえんだから仕方ねえだろ!」


「だから、戦い方を変えるんだ。いいか、明日からエルミナ婆さんの服の値段を、今の十倍にしろ」


「じゅっ……!? 正気か、ジル! ただでさえ売れねえのに、そんなことしたら破産するぞ!」


「安物買いの客は捨てるんだよ。狙うのは、本物の価値がわかる富裕層や貴族だ。この国じゃ、金持ちは『安くて良いもの』より『高くて特別なもの』を欲しがる。それがステータスだからな」


「だが、そんな客がうちみたいな小さい店に来るかよ……」


「だから、お前が『伝統』になるんだ。まず、商品を三種類に絞り込め。流行り廃りのない、何年でも着られるデザインのコートと、ワンピースと、ブラウス。それだけだ」


「なんで三種類なんだ?」


「種類を絞れば、一つ一つの品質を極限まで高められる。それに、客も迷わない。『エルミナのコート』と言えば誰もが同じものを思い浮かべる。それが『象徴』になるんだ。そして、デザインを毎年変えるな。少しずつ改良するだけだ。それが『伝統』になる」


「真似されたらどうする」


「だから、付加価値をつける。全ての服の袖口に、エルミナさんがデザインした小さな刺繍――『ロゴ』を入れろ。さらに、服の内側にエルミナ婆さんのサインとシリアルナンバーを刺繍で入れる。そして、購入者にはお前がサインした所有者証明書を発行するんだ。これで、ただの服が『資産価値のある一点物』に変わる。真似できまい」


 グレンは、酒を飲むのも忘れ、ゴクリと喉を鳴らした。


「……服が、資産……?」


「そうだ。お前が売るのは服じゃない。『伝説の職人エルミナの技と、それを見出した星砕きのグレンの物語』だ。店を改装して、商品はガラスケースに飾れ。お前は店主じゃなく、その物語を語る『コンシェルジュ』になれ。そして、『簡単な補修は生涯無料』。これが、大手には絶対に真似できない、お前だけの最強の武器になる」


 グレンはしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げると、その目には冒険者だった頃の闘志が蘇っていた。


「……すげえな、ジル。ただモノを売るんじゃねえ。オレと婆さんの誇りを売るってことか……。やってみる。オレ、やってみるぜ!」


 心の底から感心した様子で、グレンがオレのグラスに酒を注ぎ足す。

 まあ、たまには友人の役に立つのも悪くない。特に、こんな極上の酒が振る舞われるなら、大歓迎だ。


 その後も、オレたちは幻の酒を酌み交わし、店の再建計画で盛り上がった。

 たまには、こういう騒がしい一日も悪くないのかもしれない。そう思いながら、オレは三杯目のグラスを干した。

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