5話 植物園とそこに住む住人
シュシュアが帰宅すると、図書館にまたいつもの静寂が戻ってきた。
ふぅ、と一つ息をつき、オレは凝り固まった体をほぐすように大きく伸びをした。
やれやれ、今日はなんだかんだで騒がしかったな。
「さて、と」
最高の昼寝の時間は邪魔されたが、まだ定時までには時間がある。
そろそろ、裏の植物園の様子でも見ておくか。
最近、少し世話をサボっていたからな。
オレは受付カウンターを離れ、書庫のさらに奥、職員以外は立ち入り禁止となっている重厚な扉を開けた。
扉の先には、図書館本体と同じくらい広大な、ガラス張りの温室が広がっている。
『王立図書館付属植物園』。
かつては世界中の珍しい植物が集められ、多くの学者や貴族が訪れたという、知る人ぞ知る名所だったらしい。
だが、今や図書館同様、完全に忘れ去られた場所だ。利用者がいないのをいいことに、今ではオレ専用の家庭菜園と化している。
一歩足を踏み入れると、むわりと湿った土と植物の匂いが鼻をついた。
ガラスの天井から降り注ぐ陽光が、生い茂る葉に反射してきらきらと輝いている。色とりどりの花が咲き乱れ、一見すると楽園のような光景だ。
「お、吸血トマトはいい感じに熟してるな」
通路の脇に植えられたトマトは、血を吸いすぎたかのようにどす黒い赤色をしている。その根元には、哀れなネズミの白骨が転がっていた。
あっちでは、人喰い玉ねぎが幻覚作用のある甘い香りを振りまいているし、その隣では、獲物を溶かす消化液を花弁に溜めた『溶解ピーマン』が、うっかり迷い込んだ毒虫をまさに溶かしている最中だった。
自分で植えといてなんだが随分と物騒な畑だな。
だが、こいつらのおかげで、オレの食生活は豊かになっている。感謝しないとな。
そろそろ、あの『絶叫大根』も収穫時期のはずだが……。
そう思いながら温室の奥へと進んでいくと、不意に、背後の天井の方から異様な音が聞こえた。
――キィィィィィ……ギチ、ギチチ……。
ガラスを硬い爪で引っ掻くような、不快な音。
そして、何かが蠢く、粘着質な音。
オレは特に驚くこともなく、やれやれと肩をすくめて振り返った。
「よう、クロ。調子はどうだ?」
オレの声に応えるように、ガラス天井の梁から、そいつはぬるりと姿を現した。
もし、普通の人間がこれを見たら、間違いなく発狂していただろう。
それは、悪夢そのものを捏ねて固めたような、不気味な姿をしていた。
闇よりも黒い不定形の体に、大きさも数もバラバラな赤い単眼が、明滅しながらこちらを覗いている。ぬらぬらと粘液に濡れた体表からは、蜘蛛とカマキリを足して割ったような、鋭利な節足が何本も突き出し、天井の梁にその巨体を固定していた。時折、体のあちこちにある裂け目のような口が無意味に開閉し、そこから例の不快な軋み音が漏れ出てくる。
相変わらず、趣味の悪い見た目だな。
だが、その冒涜的な化け物――クロは、オレの姿を認めると、ギチギチと嬉しそうな音を立てた。そして、自慢げに前脚の一本を掲げてみせる。
その鎌のような先端には、図書館にいたであろうネズミや、どこからか迷い込んできたらしい小型の魔物、グリーンスライムなどが数匹、串刺しにされていた。
「お、大漁じゃないか。ご苦労さん」
オレがそう言うと、クロは満足げに体を揺らし、捕らえた獲物を溶解ピーマンや吸血トマトの近くにポイポイと放り投げる。花々は嬉しそうにその花弁を広げ、新鮮な餌に群がった。
害獣駆除から植物の餌やりまで、面倒な作業を全部やってくれるんだから、本当に助かる。
仕事を終えたクロは、天井からそろりと降りてくると、オレの足元にその巨体を擦り付けてきた。不定形の体の一部が、頭のように盛り上がっている。
撫でてほしい、という催促だ。
オレは不気味な見た目を気にすることもなく、その頭らしき部分をわしわしと撫でてやった。
「よしよし、いい子だ。そうだ、さっき豚肉のソテーを作ったんだが、残りをソースごと取っておいてあるぞ。後で休憩室で食べるといい」
ギチチチチッ!
クロは喜びを全身で表現するように、体をぶるぶると震わせた。赤い単眼が、期待に満ちてキラキラと輝いているように見える。
見た目はこんなんだが、懐かれると存外可愛いもんだ。犬とか猫を飼ってる奴の気持ちが、少しだけ分かった気がする。
こいつと出会ったのは偶然だった。
図書館の地下書庫に迷い込んできたのを、オレが作ったサンドイッチの匂いにつられて出てきたのが始まりだ。試しに一切れやったら、すっかり懐かれて、こうして図書館に住み着くようになった。
まあ、面倒な雑用を全部引き受けてくれるし、番犬代わりにもなる。オレにとっては有能な同居人だ。
クロに餌やりの続きを任せ、オレはしばらく庭いじりに興じた。
この植物園の連中は、元々はどれもこれも凶暴な肉食植物だ。最初の頃は、オレも何度か食われそうになった。
だが、毎日世話をして、美味い餌(害獣や魔物)を与え続けていたら、いつの間にかすっかり手懐けられてしまった。今では、オレが近づいても襲ってくるどころか、嬉しそうに葉を揺らすやつまでいる。
一通り作業を終え、クロと一緒に休憩室に戻る。
約束通り、残りのポークソテーを皿ごとテーブルに置いてやると、クロは無数の口で夢中になって食べ始めた。
オレはその間に、自分用の一杯を淹れることにした。
棚から取り出したのは、王都から遥か南東の『ルナリア高原』でしか栽培されない希少な珈琲豆だ。その特徴は、雑味のないクリアな苦みと、後味にふわりと残るチョコレートのような甘い香りにある。これを魔術式のミルに入れ、念じると、ゴリゴリと心地よい音を立てて豆が挽かれていく。
部屋に広がる、深く、香ばしい香り。
この瞬間のために、オレは生きていると言っても過言ではない。
丁寧にペーパーフィルターに粉をセットし、裏の井戸から汲んできた清冽な水を沸かす。最適な温度になったお湯を、円を描くようにゆっくりと、静かに注いでいく。
ぷくりと、珈琲の粉が呼吸するように膨らむ。最高の鮮度の証だ。
琥珀色の液体が、一滴、また一滴とサーバーに落ちていく。
その光景を眺めているだけで、ささくれだった心が穏やかになっていくのを感じた。
最高のドリップコーヒーをマグカップに注ぎ、オレは受付カウンターの自席へと戻る。
極上の羽毛クッションに深く体を沈め、温かいマグカップを両手で包み込む。
そして、読みかけだった冒険譚『勇者アレクスの軌跡』を再び手に取った。
一口、コーヒーをすする。
鼻に抜ける芳醇な香りと、舌の上に広がる深いコクと、わずかな酸味。
完璧だ。
カチ、コチ、と時計の音だけが響く静かな空間。
美味いコーヒーと、面白い本。そして誰にも邪魔されない、圧倒的な自由時間。
ああ、なんて幸せな仕事なんだろうか。
この平穏こそ、オレが二度目の人生で手に入れた、何物にも代えがたい宝物なのだ。
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