7話 剣姫、禁断の菜園といざなう

 じゅるり。

 いけない。また私――シュシュアは考えてしまった。

 あの、分厚いのにナイフを入れるとすっと切れる柔らかさ。完璧なロゼ色に輝く断面から溢れ出す、キラキラとした肉汁。そして、あの深紅のソースと白米が口の中で出会った時の、奇跡のような一体感……!


「ポークソテー……ジルのポークソテーが食べたい……!」


 あの日以来、私の頭の中はジルの手料理のことでいっぱいだった。ギルドの食堂で食べる日替わりランチも、王都で一番と評判のレストランのフルコースも、今ではすべてが色褪せて見える。

 ダメだ、もう限界!


「た、頼もう! 司書、ジル! この『雷電の剣姫』シュシュアが、お昼ご飯の催促に来てあげたわ!」


 カラン、と勢いよく扉を開け、私は仁王立ちで正直に宣言した。

 受付カウンターの奥では、ジルが特注の椅子に深く身を沈め、心底面倒くさそうにこちらを一瞥する。


「……まだ午前10時だ。昼飯には早すぎる」


「うっ……! で、でも、お腹と背中がくっついちゃいそうなくらいには空いているのよ!」


「知るか。腹が減ってるなら、その辺の本でも読んで静かに待ってろ」


 ジルはそれだけ言うと、再び手元の本に視線を落としてしまった。

 ぐぅぅ〜、と正直なお腹の音を隠しながら、私はしょんぼりとその辺の椅子に座る。しかし、本を読む気にもなれず、手持ち無沙汰に図書館の中をうろうろし始めた。


「それにしても、広いのよね、ここ……」


 書架の迷路を抜けた先、普段は誰も立ち入らないような書庫の最奥で、私は一つの重厚な扉を見つけた。蔦の絡まった、雰囲気のある扉。

 扉にはなにかが書かれた札が下がっていたが、気にせず扉に手をかける。


「あら、素敵な中庭でもあるのかしら?」


 好奇心には勝てなかった。私はギィ、と音を立てる扉を、少しだけ開けてみる。

 その瞬間、むわりとした湿った土と、むせ返るような花の甘い香りが鼻をついた。

 扉の先は、ガラス張りの天井から柔らかな光が降り注ぐ、広大な温室だった。色とりどりの花が咲き乱れ、まるで楽園のような光景に、私は思わず「わぁ……!」と歓声を上げた。


 ――それが、地獄の入り口とも知らずに。


 一歩足を踏み入れた、その時だった。

 私の足が、地面からにょっきりと生えていた大根のようなものを、こつんと蹴飛ばしてしまった。


「―――オギャァァァァァァァッ!!」


「ひぃっ!?」


 大根が、赤ん坊の断末魔のような、鼓膜を突き破る絶叫を上げた!

 その叫び声が引き金だった。今まで楽園に見えていた植物たちが、一斉にその本性を現したのだ!


「きゃああああ!」


 地面から伸びてきた血色のツタが、私の足に絡みついてくる! トマト!? なんでトマトが人を襲うのよ!

 バタバタともがいていると、今度は隣のピーマンが、獲物を溶かす緑色の消化液のようなのをブシュウウッと吐き出した! 危うく顔にかかるところだった!


 剣を抜こうにも、ツタが腕にまで絡みついてきて身動きが取れない。

 なんなのよこの地獄の家庭菜園は! 聞いてない!


 ツタに完全に拘束され、身動きが取れなくなった私の頭上から、巨大なピーマンが消化液のようなのをぽたぽたと滴らせる。

 絶体絶命! 私、こんなところでピーマンに食べられて一生を終えるの!?


「だ、誰かー! 助けてー!」


 私が剣姫にあるまじき大絶叫を上げた、その時だった。

 ぬるり。

 温室の天井の梁から、『それ』は現れた。


 闇よりも黒い、不定形の体。ぬらぬらと粘液に濡れた体表から、鋭利な節足が何本も突き出ている。大きさも数もバラバラな無数の赤い単眼が、一斉に私を捉えた。

 裂け目のような口が、ギチギチと不快な音を立てている。


「ひぃぃぃぃぃぃぃっ! で、出たぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 植物に食われるのも怖いが、化け物に喰われるのはもっと怖い!

 私は恐怖のあまり、完全にパニックに陥った。

 だが、その邪神は、私には目もくれず、私を拘束しているトマトのツタに向かって、鎌のような前脚を振り下ろした。

 スパァァン!

 いとも簡単にツタは寸断され、私は解放される。邪神は続けて、ピーマンに向かってギチチチッ!と威嚇の音を発した。すると、あれほど凶暴だったピーマンが、叱られた子犬のようにしょんぼりと萎んでしまった。


「た、助けて……くれた……?」


 私が呆然としていると、邪神はぬるりと私の目の前に降り立ち、その不定形の体の一部を、頭のようにこてんと傾げた。

 そして、ギチ、ギチ、と嬉しそうな音を立てて、そのおぞましい巨体をすりつけてくる。


「こ、来ないでぇぇぇぇぇ! 食べないでぇぇぇぇ!」


 私は腰を抜かし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら後ずさった。

 助けてくれたのは分かったけど、見た目が怖すぎる! 生理的に無理!


「騒がしいと思ったら……クロ、また客人を怖がらせたのか」


 のんびりとした声と共に、ジルが姿を現した。

 彼はパニックになっている私と、クロと呼ばれた化け物を交互に見ると、やれやれと首を振る。


「よしよし、クロ。助けてやったんだな、偉いぞ」


 ジルは、私が邪神だと思っていた化け物の頭らしき部分を、わしわしと撫で始めた。クロは気持ちよさそうに目を細め(ているように見える)、ゴロゴロと喉を鳴らして(いるかのような音を立てて)甘えている。


「……え……?」


 私が、目の前で繰り広げられる信じがたい光景に、完全に思考を停止した、その時だった。

 植物園の平和な(?)空気が、一変したのだ。

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