2拍の人生(後半)(END)

 煙は視界を濁らせる。

 彼の推し活は、徐々にストーカーの影を帯び始めた。

「赤スパ投げたんだから読んでくれよ」

 「SNS巡りに俺の名前が漏れてないぞ」

 そんなコメントを何度も送り、配信ごとに同じ内容を繰り返す。DMにも、指示のような長文を送りつけた。


 最初のうち、御火澄咲夜の反応はまだ柔らかかった。

 「ガチ恋勢、か……ちょっと怖いな」

 「指示厨の気持ちはわかるけど……」

 「ほんとにやめてってば」

 半ば冗談めかした注意が続いたが、やがて彼のコメントは無視されるようになり、最後はチャット欄から消えた。通知欄を開けば「ブロックされました」と赤い表示が残った。封鎖のチャイムが一度鳴り、彼の画面から彼女の声は消えた。


 警察に呼び出され、簡単な事情聴取を受けた。職場には及ばなかったが、それでも彼が住んでいた場所――「特別の前提」は崩れ落ちていた。


 怒りは形を欲する。

 机の上に積んでいたグッズをすべて引きずり出し、山のように積み上げる。限定盤のCDを一枚ずつへし折り、誕生日記念のぬいぐるみは裁ちばさみで胴体を切り裂いた。配信画面に映しながら、わざと残酷に見えるようにバラバラにしていく。

「こいつはもう俺の推しじゃない」

 そう吐き捨てるとき、指先が震えていた。


 動画は瞬く間に拡散された。コメント欄には罵声が並ぶ。

 「金で繋がってただけだろ」

 「未練がましいクズ」

 「ファンの皮を被ったストーカー」

 「推し活の顔に泥を塗るな」

 そのすべてが画鋲のように彼の心に突き刺さる。


 数字は雪崩のように減った。フォロワーも再生数も、崖から転げ落ちる石のように失われていき、最後に残った視聴数は「2」。もう一つは、自分のサブ垢だった。


  彼は新しいIDを作り、個人勢に向かった。

 「企業Vなんて所詮はキャバ嬢と同じだ」と、松村はSNSに書き散らした。笑顔はマニュアル、言葉は台本、ファンサービスは課金額で決まる。赤スパはシャンパンタワー、限定グッズは同伴ノルマ。画面の裏にいるのは「夢」ではなく「ホステス」だ――そう断じることでしか、自分の傷口を正当化できなかった。


 だが、彼の心を再び掴んだのは、企業ではなく、個人だった。

 霧村もえ。異色のオッドアイに猫耳というキャラ設定。だが、その声はまだ素人の拙さを残していた。チャンネル登録一万を越えたばかり、画面の向こうで彼女は緊張と必死を混ぜながら話していた。


 初めて投げた赤スパ。

 コメント欄が一瞬ざわついた。

 「赤スパ!?」「新人で赤!?」「誰だ初見でこんな……」

 霧村もえの声が一拍遅れて震える。

 「えっ……え、え、まじ? ギャーーーーッ! 嘘でしょ!? 初見さんなのに!? ありがとう! やばい、どうしよう……え、ほんとにいいの!? うれしい……! ありがとぉぉぉ!」

 その悲鳴じみた歓喜がイヤホンを通じて耳膜を震わせ、松村の胸に直接落ちた。塩辛い日常に、一瞬だけ甘露が染み込む。彼は両頬が熱くなるのを感じた。

 半月のあいだ、彼は最安のカップ麺をすすった。舌の両側がしびれる安物の塩味さえ、「もえちゃんの笑顔に換算できる」と思えば甘美だった。


 しかし、幸福は長く続かなかった。

 ある晩、霧村もえは「重大発表」と題した枠を立てた。サムネイルには赤字で「今後の活動について」。チャット欄はざわめき、松村の掌も汗ばんでいた。


 配信が始まる。

 「えっと……今日はみんなに大事なお知らせがあります」

 声は震えていた。数秒の沈黙のあと、画面に出てきたのは、もはや猫耳でも異色瞳でもない。


 茶色の髪を肩まで垂らし、二十代前半に見える清楚系の女子。

 しかし、その清楚は渋谷の街角に立っていそうな、安っぽい透明感。化粧は控えめだが、輪郭には疲れが残り、笑うと目元の下に陰が落ちる。

 「霧村もえとしての活動は今日でおしまい。これからは“私”として、顔出しで活動していきます」

 猫耳は外され、オッドアイもただの加工だったと告げられた瞬間、松村の胸に冷たい水が落ちた。


 コメント欄は「えー!」「応援してる!」「これからも好き!」と励ましの嵐。

 だが松村には、画面の女が安居酒屋の隅に座る「誰か」にしか見えなかった。二次元の光沢が剥がれ、三次元の肌理に置き換わったとき、彼の幻想は音を立てて崩れた。

 彼は両膝を抱えてうずくまった。自分が赤スパで支えたのは、偶像ではなくただの若い女――駅前でビラを配っても目立たない程度の。

 「俺の半月は……ただのゴミに変わった」

 そう呟くと、口の中がカップ麺の塩で苦くなった。


 数日後。

 霧村もえ――いや、「中の人」が次に告知したのは「路線食べ歩き配信」。都内を電車で巡り、駅ごとのグルメを食べ歩く企画。

 松村は、告知を見た瞬間に決意した。

 「現実の女なんて、存在する価値がない」


 彼は最寄りのスーパーで安物の菜切包丁を買い、袋ごとクローゼットの奥に隠した。心臓は早鐘を打ち、血が耳鳴りに変わる。

 「画面の中で俺を裏切ったんだ。なら、画面の外で終わらせる」

 それは正義でも復讐でもなく、ただ「二拍目の人生」から抜け出すための錯覚。


 告知された日、線路沿いに風が斜めに吹いていた。駅前の商店街は土曜の午後らしく賑わい、屋台の匂いと呼び込みの声が混じり合っていた。通りのあちこちでスマホを掲げる人影があり、配信用のカメラも回り始めている。

 松村は、その群衆の影に紛れ、フードを深く被った。耳の奥では、イヤホン越しに流れる配信の声が、目の前の現実と重なっていた。


「次は、この駅の有名なコロッケを食べてみたいと思います!」

 画面の彼女が笑う。その数秒後、現実の通りに彼女が現れた。

 スマホの画面と視界がぴたりと重なり、松村は胸の奥で確信する。――間違いない。


 想像していたよりも、彼女は小柄だった。背丈は周囲の人並みに埋もれるほどで、細い肩は春の突風に煽られれば今にも持っていかれそうに見えた。長い髪が風に乱され、彼女は片手で抑えながら歩く。笑うたびに頬が赤らみ、露店の揚げ油の照り返しが肌を照らした。

「近い……こんなに近い……」

 モニター越しに何百時間と見てきた姿が、目の前で三次元の影を伴って存在している。松村の喉は乾き、胸の奥で荒い呼吸が拍子を乱す。


 彼は薄いジャンパーの内ポケットに忍ばせた菜切包丁の柄を握りしめ、手のひらに汗を移した。金属の冷たさが皮膚を通じて心臓に響く。

 「いまなら届く」

 視界の端に群衆が揺れても、彼にはもうフレームの中心しか映らなかった。画面の中と外の境界は消え、彼女の輪郭だけが世界に残った。


 彼は、フレームの外から飛び込んだ。

 

 一撃目は空を切り、悲鳴が風を裂く。

 信号が赤から青に変わる間に、彼は二拍目の踏み出しを選んだ。だが、横合いから自転車が突っ込み、彼の足をさらった。骨が舗装の上で短く鳴り、世界が横倒しになる。

 通りすがりの腕が彼を押さえつけ、包丁は斑馬の白線をくるりと回って止まった。


 スマートフォンが路面で蜘蛛の巣のように割れ、液晶の下から御火澄咲夜の会員限定壁紙が透けた。唯一捨てきれなかった護符。

 彼は思い出す。

 大学の寮で、風景写真の壁紙を友人に「地味」と笑われた夜。反射的に変えると言った彼の手を、友人は軽く押さえた。

 「好きなら、そのままでいい。他人の声に合わせてばかりだと、呼吸が浅くなる」

 あのとき彼は、一拍目で頷けなかった。二拍目に、薄く笑ってみせただけだった。


 留置室の壁は、音を吸う。

 蛍光灯がわずかに瞬き、チカ、と、チカ、と、二つで一組の鼓動を刻む。外の車はブレーキと発進を繰り返し、二度鳴く。

 彼は、もし**「一拍目」**というものが人生に用意されているのなら――それは大きな選択ではなく、もっと小さなことだったのではないかと考える。

 酒を一杯減らすこと。

 送信前の一文を削除すること。

 角を曲がるとき、顔を上げ、目を合わせること。

 二拍目に吸収される前の、ほとんど無音の微小な反抗。


 だが思考は、いつも二拍目で濁る。

 彼は生まれてからずっと、二人称として生きてきた。

 「あなた」「君」「おまえ」――他人の呼び声に対して背を見せ、言われた方向へやや遅れて歩く存在。

 **「私」**という主語の使い方を、習わなかった。


 朝の気配が、廊下の向こうから薄く流れ込む。

 誰かが名前を呼ぶ。

 その音は、正確に拍に落ちる。

 彼は返事をしようと口を開く。

 声は、やはり半拍遅れて出た。


 いつものように。

 彼の人生のように。

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