2拍の人生(前半)

 産声は二度、間を置いて鳴った。

 助産師が足首に巻いた札には、くっきりと「2」。二番目の保育器、二番目の肌着、二番目に記入された名前。そこから先の拍子も、ずっと「二」から始まった。


 松村榮二郎は、家では弟。小学校では出席番号が二番。徒競走では二位の常連。写真を撮れば二列目の端――「見切れてはないけれど、主役ではない」位置に自然と落ち着く。

 父は「ひ弱だ」と言って、空き地で胸めがけてバスケットボールを投げた。鈍い音が胸骨で二度反響し、心臓が余計な打ち方を覚える。母は古いシャープペンで白紙にグリッドを引き、「この升目からはみ出さなければいいの」と言った。

 兄は天才で、学年首位を明け渡したのは一度だけ。その夜、兄は鍵をかけて泣き続けた。まるで一番の涙には、二番には触れられない特権があるかのように。


 榮二郎は「半歩引く」を身体に覚え込ませた。階段では人の背後に影のように貼りつき、会話では相槌の役を務める。高校も大学も、合格は第二志望。行きたかった校舎の角を曲がる手前で毎回立ち止まり、「ここでいい」と呟いた。

 劣等感は毒にも薬にもならず、ただ拍を遅らせる。


 ただ、画面の明かりの前だけは違った。

 ネットの掲示板、対戦ゲーム、ボイスチャット。文字と声は体の癖から自由で、そこでは彼の発言に拍手が降った。さりげないボケがスレッドを転がし、短いまとめが人を納得させる。匿名IDの彼は、はじめて「一拍目」を踏めた。電源を落とすと、魔法は切れた。


 大学では、女子たちに「蟾蜍」と渾名された。湿った石と同じ温度だ、という意味らしかった。

 現実では呼吸の仕方すら鈍るのに、ネットでは語彙が増え、声色が増え、人格が増えた。二次元は、彼にだけやさしい。


 彼は二度だけ、女と現実で会った。


 一度目。

 安宿のドアノブがかちりと鳴ったとき、コンビニの袋に入ったコンドームがポケットで擦れた。開いた隙間に現れたのは、彼より背の高い、厚みのある女。二の腕に刺青――太い文字で元彼の名。

 画面の声は飴色なのに、現実の気配は塩気が強すぎる。榮二郎は喉をひとつ鳴らし、踵を返した。階段を駆け下りる靴音が、ビルの壁で二度跳ね返る。


 二度目。

 今度は美人だった。香水の揮発に甘さが混じる。唇が触れ、拍が乱れ、いざ体が触れ合う段になると、経験はゼロのまま時計の針だけが進んだ。

 彼女は言った。「あなた、直せるよ。鼻毛、服、仕草。私の理想にしてあげる」

 改造計画は、ベッドの上のそれと同じく短く終わった。数日後、彼女は電話で静かに言った。

 「泣かないで、見苦しい。あなたも愛したけど、やっぱり彼がいい」

 受話器の向こうで、選択肢に〇がつく音がした。彼はまた選択肢Bだった。


 卒業後、学内の先輩に誘われ、五十人規模の派遣会社に契約社員で入った。派遣先はどこも酸欠気味で、昼間から終電の匂いが漂っていた。空調の音は絶えず鳴っているのに、空気は薄かった。

 彼が書くコードは、毎度「前任の方がマシ」と切り捨てられる。試用一か月で契約を切られ、また別の現場へ。履歴書の行数だけは増えるが、要約欄には何も残らない。まるで借り物の人生を、行数だけで埋めているようだった。


 「周さん、こいつ、あなたに話があるらしいよ」

「何ビクビクしてんだよ。とって食ったりしないからさ」

 ツールの使い方を聞きたいだけなのに、声が喉に貼りついた。相手は外国人の先輩。自分と同じ派遣社員なのに、日本語は流暢で、立ち居振る舞いは揺るぎない。どんなトラブルでも切り抜けられる自信が、その姿勢の隙間からにじみ出ていた。

 松村は、自分より年下の同僚の背に隠れ、代わりに質問してもらうしかなかった。背中に身を寄せながら、まるで小さな子どもが母親のコートにしがみつくように。


 社内の懇親会でも、彼は同じだった。

「お前、もう少しシャキッとしろよ。男なんだからさ」

 「は、はい……」

 「つーか、彼女いるよね?」

 唐突な問いに、彼の喉は乾いた。

 「え、ええ……遠距離交際……です」


 その瞬間、笑いが場を柔らかく撫で、話題は別の方向へ転がった。誰も追及はしなかった。

 松村はグラスを握りしめ、心の中で繰り返した。

 ――嘘じゃない。まだ現れていないだけだ。遠距離なんだ。

 その「遠距離」とは、現実との距離そのものだった。

 

 夜の商店街は、二車線の道路が油膜のように光っている。たまに八時台に上がれると、暖簾の揺れる居酒屋に入り、「今日の二品」とぬるい酒を頼む。土日はカーテンを閉め、二段重ねのカップ麺をすすり、積まれた漫画と二台のモニタに身を埋めた。

 「二」は、彼に安定を与えた。二択で迷い、二度ためらい、二回目の後悔を手放す練習だけが上達した。


 転調は、彼女の登場から始まった。

 御火澄咲夜――HELLOLIVE三期生。

 最初にその姿を見たのは、偶然クリックした深夜の配信だった。モニターの光が暗い部屋を青白く照らし、そこに現れたのはアニメと現実の境界を曖昧にした存在だった。動く口、揺れる髪、合成音声とは違う生々しい笑い声。チャット欄には秒単位で文字が流れ、スパチャが飛ぶたびに画面が弾けた。

 「……なんだ、これは」

 松村の胸に、今まで触れたことのない熱が差し込んだ。テレビでもアイドルでも、ここまで距離を詰められた感覚はなかった。


 咲夜は派手ではなかった。中性的で少し荒っぽく、ゲームも下手くそ。コメントに突っ込まれて「だって無理だもん!」と笑い飛ばす姿は、どこにでもいそうで、どこにもいない。

 だが、上達していった。最初は耳を刺すように不快だったASMRは、気づけば眠気を誘うほど柔らかに変わっていた。歌も、最初はブレスが乱れて息切れしていたのに、いつのまにかフレーズを最後まで保てるようになった。


 極めつけは「個別会話イベント」だった。

 画面の向こうで、咲夜が自分の名前を呼ぶ。三十秒という制限つきの時間、彼女はモニター越しにまっすぐこちらを見つめる。「ありがとう」と言われるたび、松村は息が詰まった。視線が交わった気がするのは錯覚にすぎない。それでも、カメラのレンズ越しに送られた一秒が、彼にとっては永遠に近かった。


 その二秒、その三十秒が、画面のこちら側の時間を確実に伸ばした。

 気づけば、松村の一日の拍は「彼女の配信スケジュール」を中心に刻まれるようになっていた。

 

 榮二郎は切り抜きを作り、長文コメントを書き、グッズを欠かさず買った。「篝火衆」と呼ばれる古参の輪の中で、彼のIDはしだいに見つけやすくなる。ある配信で、咲夜は彼の名前を読んだ。

 「いつも切り抜き助かってます。ありがとう」

 名前はWi-Fiの遅延を越えて胸に落ち、そこで熱を持った。

 初めて、自分だけに向いた一拍が来た――彼はそう錯覚した。


 錯覚は、しばしば人を統率者にする。

 彼は新人に指南し、ルールを作った。「切り抜きはまず私にDMで確認を」「変な編集は彼女の品位を下げる」――そんな規範を平然と掲げ、気づけば守衛の口ぶりで門を守っていた。


 さらに、彼は自分のメイン垢のプロフィール欄に経歴を書き始めた。

 ――早大卒業、大手IT企業勤務、凄腕エンジニア。

 実際には二流私大を出て派遣先を転々とするだけの契約社員に過ぎないのに、「早大」と記したのは、東大に次ぐ「二番目」という響きが自分に似合うと思ったからだった。真実と嘘を半々に混ぜ、権威の衣をまとったプロフィールは、ネットの海では容易に「信じてもらえる肩書き」へと化けた。


 やがて彼は「先生」「大先輩」「切り抜きの神」と呼ばれるようになった。新人が恐る恐る頭を下げるたび、古参が持ち上げるたび、松村の胸は満足感でいっぱいになった。自分の言葉が規範となり、コミュニティを回す歯車の一部ではなく、舵を握る立場になったと錯覚した。

 その錯覚の心地よさは、中毒のように彼の血に回った。


 ネットではよくある話だ。半分事実、半分は虚勢。プロフィール欄は簡単に自分を盛り上げ、他人の称号はあっさりと「地位」になる。

 だが、その虚飾の下で、松村榮二郎はますます「本物の自分」を直視できなくなっていた。

 

 ある夜のマイクラ配信。咲夜はいつものように下手な操作でブロックを積んだり壊したりしながら、リスナーからの質問を読み上げていた。

 「え、なになに……“咲夜ちゃんにガチ恋してます、どう思いますか”?」

 画面のアバターが動きを止め、咲夜の声がわずかに裏返った。

 「えっ、マジ? 私ってガチ恋勢いるの?」

 チャット欄が「いるよ!」「当たり前だろ!」と弾幕で埋まる。咲夜は照れ笑いを漏らした。

 「嬉しいけど……まあ、ほどほどにね。私、配信者だから。距離感、大事だからさ」

 少し間を置いて、照れ隠しのように続ける。

「……エロいファンアート描かれてるのも、知ってるよ。できるだけ見ないようにしてるけど……(笑)。でも、そういうのも含めて、私を応援してくれてるって思えば、ありがたいんだよね」

 そして、真剣な声色に変わる。

 「咲夜は、みんなのこと、全員大好きだよ」


 その言葉に、チャット欄は「すき!」「神!」と熱狂の嵐になった。だが、松村の耳には違う響きで届いた。

 ――特別は、誰にも与えない。


 胸の奥が一瞬で冷える。彼は椅子の肘掛けを強く握り、爪が白くなるまで力を込めた。

 「全員大好き」――その言葉は、彼の心を温めるどころか、逆に熱を奪った。

 愛が均されるとき、光は広がるが、熱は薄まる。真上から降る蛍光灯のように、ただ眩しいだけで温度がない。

 松村の内部で燃えていた火は、煙に変わり始めた。煙は目を刺し、視界を曇らせ、呼吸を乱す。

 「俺は……こんなに時間も金もかけてきたのに……。ガチ恋の中でも、俺だけは特別のはずだろ……」

 呟きは虚空に吸い込まれ、イヤホンから流れる咲夜の笑い声と重なり、耳の奥でひどく遠く響いた。

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