あまりに優秀だった
目覚まし時計が六時半を告げる前に、深井一貴はもう目を覚ましていた。洗顔、髭剃り、ワックスで髪を整え、玄関の鏡で襟元と袖の線を確認する。まるで工業製品の品質検査のような念の入れ方だった。
朝食は決まって角の喫茶店。ベーコンエッグトーストとブラックコーヒーを頼み、店員の女性に話しかける。「僕は東大卒で、大手電機メーカー勤務です。自動販売機も、エレベーターも、冷暖房も、エネルギー産業も――うちの会社が手がけていますよ」彼女の曖昧な笑顔は、深井には尊敬の照れ隠しにしか見えなかった。自分の話を聞けることは、凡人にとって光栄なのだ。
出社して打刻。会議が始まれば、彼は常に議論の中心だった。上司は保守的、同僚は理解が遅い、派遣社員に至っては数合わせ。女の同僚を追い詰め、涙を流させたこともあるが、彼に言わせれば当然の結果だった。「感情に流されるような人間は基礎仕事しかできない」。それが深井の評価だった。
仕事を終えるとジムへ。トレーニングよりも打刻と自撮りに時間をかける。筋肉の角度が一番映えるように鏡の前でポーズを決めるのが習慣だった。一組運動を終えると三十分休憩し、その間は女性トレーナーに話しかける。シャワーを浴びて帰宅すれば、出会い系アプリで条件を設定。顔と体型が第一、身長が一六五センチ未満なら論外。自分は一七〇しかないが、それは別の話だ。就寝前にはSNSに書き込む。「最近の女は金しか見ていない」。そして電気を消す。明日もまた、自分の優秀さを証明する一日が始まる。
人生の頂点は東大に合格した瞬間に決まった、と深井は信じていた。卒業前には奨学金を得てカナダへ留学。男女共同の学生寮で、ベランダに干された女性の下着を目にしたときの鼓動を、今でも鮮明に覚えている。「やはり才色兼備の女性こそ、僕の伴侶にふさわしい」。そう確信した。
学会にも顔を出した。発表したのは指導教授で、自分は端に座っていただけだったが、宴席の写真をSNSに載せてこう書いた。「世界のトップ二十人と同席した」。批判的なコメントがついたが、「事実を述べているだけ」と一蹴。井の中の蛙には空の広さがわからない。
プログラミングはC++ひと筋。学長にC#を勧められても、「真のシステムはメモリ管理から始まる。小手先の言語は不要」と笑い飛ばした。他の言語を使うエンジニアは低賃金で当然、彼の靴を磨かせてやるだけでも栄誉だ、と信じていた。
会話に頻出するのはNASAやCIA、シリコンバレー、マイクロソフトやグーグル。彼の目に映るのは「世界の中心」だけで、所属する会社も上司も同僚も下請けも、視界には値しなかった。
社内飲み会の出欠欄には「僕は行きません。僕が尻拭いしている連中が何を打ち上げるというんですか」と書いた。だが彼の残業に手を差し伸べる者は誰一人おらず、夜のオフィスには彼のデスクランプだけが点っていた。インスタントコーヒーの苦味をすすりながら「能なしども」と吐き捨てた。孤独は優秀さの証明だと確信していた。
ふと、実家を思い出す。母は安月給で、兄も姉も肉体労働者。家族全員が金を出し合って、勉強ができる自分を東大へ送った。彼はそれを「必然」と解釈した。「学歴が低いから不幸なのだ。人生の成否は高校、大学で決まる」。卒業式で学科代表として演説し、「私は誰の助けも借りずにここまで来た」と言い切った。最前列で泣きじゃくる母を見て「喜びの涙だ」と思ったが、同級生に「あの方はお母様ですか」と聞かれ、即座に「家の使用人です」と答えた。母は顔を覆って走り去り、その後三日間連絡が取れなかった。だが深井に罪悪感はなかった。母が不格好なだけだ、と。
週末は必ずデートを組む。アプリで顔と体型を選び、ジムで自慢の筋肉を披露しつつ相手を誘う。会えば開口一番「東大卒、大手勤務、年収五百万」。店選びは値段優先で、マクドナルドかファミレス。牛肉は一〇〇〇円も三〇〇〇円も同じ味、と豪語する。勘定は割り勘。「君が金目当てでない証拠になる」と胸を張る。デート中は常に自分の話で埋め尽くす。「僕の経験を聞けることが、君の人生の財産だよ」。白い太腿を横目にしながら。返ってくるのは気まずい笑みと「また連絡します」の言葉ばかり。たまに会話が続けば「車は?家は?両親と同居?」。彼は心の中で吐き捨てる。「女は結局、金しか見ない」。
そんな彼に転機が訪れる。紹介で出会ったのは早稲田大学院卒、登録者十万人を超える人気配信者。ようやく自分に釣り合う女性だと胸を躍らせたが、数度のやり取りののち、彼女は平凡な会社員と結婚を発表。耐え難い屈辱に、深井は執拗にメッセージを送りつけ、ついには尾行し、自宅前で待ち伏せた。警察を呼ばれ、接近禁止命令。会社も彼を解雇した。段ボール箱を抱えて退社するとき、送別の言葉は誰からもなかった。「五流大学の連中が」と吐き捨てるしかなかった。
彼は働かず、貯金を食いつぶしながら毎朝スーツを着て空の鞄を持ち、電車に揺られた。始発から終点まで、また折り返して。窓外を流れる景色が自分の人生そのもののように思えた。彼は優秀だ。世界が金と欲にまみれているだけだ。
通勤電車に満ちる女子高生たちの笑い声、短いスカートと膝上の靴下。彼の胸はざわついた。夜ごとに見てきた映像が蘇る。画面に出てくる男たちは冴えない容姿をしていると聞く。「観客が自己投影しやすいように」。だが自分は違う。自分は世界のトップと同席したエリートだ。
そしてある午後。駅のホームで、彼はふと携帯を構えた。だが手首を強く掴まれた。「何をしている!」現行犯、警察、という言葉が飛び交う。とっさに人波を抜け、黄色い線を越えて線路へ飛び降りた。
砂利を蹴る足取りは羽のように軽かった。トンネルの奥から迫る光。電車のヘッドライトが彼を正面から射抜く。彼はそれをステージライトだと思った。耳をつんざく急ブレーキの音はマイクのハウリングに聞こえた。
深井は顎を上げ、うっとりと笑った。――ああ、これこそ、僕が浴びるべき光だ。
彼は目を閉じ、完璧なコードを実行するかのように、その瞬間を受け入れた。
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