王子様が殺された(前半)

 最初に覚えている音は、粉砕機が錠剤を噛み砕く音だ。ガリ、ガリ、と一定のリズム。店の奥で母が乳鉢を回して、父が数取器で錠剤を数える。樟脳、ヨード、湿布の匂いが混じった空気は、私の幼年期の海の匂いだった。


 「いい女は、沈黙で返すのよ」と母は言った。「いい嫁は、我慢を知ってる」と父は言った。私は頷いた。頷く以外の返事を知らなかったからだ。


 ある晩、数学のテストを見せたら、父の掌が空を切って私の頬に落ちた。耳の奥で小さな破裂が起き、世界が片側だけ遠くなった。あとで耳鼻科に連れていかれ、よくあることだと医師は言った。帰り道、父は飴を買ってくれた。甘さで痛みは消えなかったけど、飴を噛む音だけは両耳で聞こえた。


 中学になると家庭教師が来た。鉛筆の芯の匂いが強い、背広の皺が多い男だった。宿題の丸つけのとき、彼の指が私の手首に長くとどまる。間違いを指摘するとき、背中が椅子ごと近づいてきて、肩に呼気が落ちる。私は何度か母に言った。「気にしすぎ」と言われた。父にも言った。「誤解されるようなことをするな」とだけ残した。


 卒業式のあと、彼は校門の外で待っていて「これで最後だから」と言い、私を抱きしめようとした。私は固まって、体は木のように固くなった。彼の腕は私の腕の上で止まり、空気だけが潰れた。押し返す力はなかった。家に走って帰り、台所の水道を目一杯ひねった。水の音で、心臓の音を消した。


 男は信用できない――その文脈を、私は体で覚えた。いや、体に教え込まれた。


 高校は女子高に行った。廊下を走るのは女の子だけ、教室の匂いも、体育館の汗も、笑い声も髪留めの音も、ぜんぶ柔らかかった。私はそこで初めて誰かの手を自然に握った。彼女は小さな手をしていて、いつも温かかった。けれど、私の中の何かが最後の一線で動かない。彼女の「好き」に同じ体積の「好き」を返せない自分を、私は憎んだ。別れのとき、私は彼女が一番傷つく言葉を選んだ。「あなたは私の代用品」。言いながら、舌の上に錆の味がした。


 その頃、私は鏡の前でウィッグをつけ、布を纏い、肌の露出を増やした。レンズの前でポーズを決めると、誰も私の中身を問わない。シャッター音は評価で、ストロボは承認だった。防音材が剥がれた六畳のスタジオで、私は自分に言い聞かせる。「私は価値がある」。口に出すたび、少しだけ音が現実になる気がした。


 大学を卒業して、貯めた小銭を数え、親に黙って日本行きの航空券を買った。空港で父の背中を見たとき、あの掌の感触が一瞬よぎったが、搭乗口のアナウンスが私を押し出した。京都に着いてからの生活は、想像と違っていた。畳の匂いは古い本の匂いに近く、冬は窓から風が入った。語学学校の教室は乾いていて、最初の頃は黒板の粉で喉が痛んだ。アルバイトの申請をして、深夜のコンビニでおでんの出汁を作った。外国人に許された時間は28時間。レジ横に置かれた唐揚げの油の匂いは、実家の油と似ていた。


 そんなとき、友人が言った。「先輩を頼るといい。優しくて、なんでも知ってる人」。八歳年上の留学生の彼は、メールの返事が誰より早かった。漢字の成り立ちだとか、日本の季語だとか、江戸の町割りだとか、私の知らないことを軽やかに教えてくれた。寝る前のスマホから流れる彼の文章は、子守唄のように整っていた。私は彼の文章に恋をした。画面越しの彼に、抱かれないまま抱かれていた。


 一年後、私は告白した。彼は短く「ありがとう」と打ち、少し間が空いて「嬉しい」と続けた。次に「恋人になろう」ときた。私はベッドの上で膝を抱え、小声で「うん」と言った。誰も聞いちゃいないのに、声は震えた。


 彼は札幌、私は京都。何度も日程を擦り合わせ、彼が土日を全部使って来ることになった。金曜の夜、彼は残業を終えて空港に向かい、最後の便で関西に着くという。私は駅前のカフェで、何度も鏡を見た。ウィッグはやめた。素の自分を見せるべきだと思ったから。


 改札から出てきた彼は、写真と違っていた。丸くなった頬、少し背中が丸い。スーツは肩が落ち、ネクタイは緩んでいた。目の下に薄い隈、指先は荒れて、爪の縁が白く浮いている。私は瞬きの回数を数えた。心のどこかが、乱暴に数を増やした。


 「待たせたね」と彼は言い、無邪気な笑顔で私の手を取った。その瞬間、私は自分の中の錆びた歯車が逆回転する音を聞いた。耳鳴りがぶり返し、世界の片側が遠のいた。彼の掌は、父の掌ではない。けれど私の皮膚は、過去と現在を区別してくれなかった。体の芯がひやりと強張った。


 「今日は……寮はダメで」と私は言った。「規則が厳しくて」。嘘ではなかった。だが本当の理由は別にある。彼の体温が、私のすべての理想を溶かしてしまいそうで怖かった。彼は疑いもしなかった。「じゃあ近くのホテルにするよ」と笑った。私の救いの言い訳を、彼自身の手で用意してくれた。


 土曜日は寺を巡った。彼は詳しかった。瓦の勾配の意味、庭の石の配置、縁側の影の深さ。私は聞き、頷いた。写真も撮った。レンズ越しの彼は、なぜかうまくピントが合わなかった。夜、彼はまた私の手を取ろうとした。私は反射的に手を引いた。彼の眼差しが一瞬だけ傷ついた犬みたいになった。その顔が耐えられなかった。笑って、別の話題を投げた。うまくやれたと思う。うまくやれなかったと思う。


 日曜日の夕方、駅まで送った。改札前で彼が私の手首に触れた。そこで、体が勝手に動いた。乾いた音が出た。彼の頬に私の手の跡がついた。私自身が驚いた。彼は目を丸くして、それから微笑もうとしてやめた。言葉が出ないまま、改札の向こうへ消えた。


 私はその夜、彼のメッセージを読まず、次の朝、電車の中で別れを告げる文面を書いた。短く、感情の跡を削って、事務的に。「ごめんなさい」「お互いのために」「今の私には」。送信した瞬間、通信中の小さな丸がくるくる回って、消えた。彼からの長い返事は、見なかった。通知を切り、ブロックした。私は自分の心臓の音をまた水の音で消した。


 罪悪感は、思っていたほど遅く来なかった。むしろ早かった。駅のガラスに映る自分が他人に見えた。私は王子様を失ったわけじゃない。私が王子様を殺したのだ。理想の形をした他人を、現実の形をした他人に戻れないまま、手のひらで叩き落とした。


 飛行機の予約を変更して、私は祖国に戻った。空港の匂いは、子どもの頃に嗅いだ店の匂いに少し似ていた。消毒液、汗、機械油。外に出ると湿った熱気が顔に貼りついた。SNSには相変わらず光が溢れている。誰かが誰かを褒め、誰かが誰かを叩く。私は画面の中で、どちらの役も演じられると思った。いや、演じることしかできないのだと知っていた。


 男は、遊ぶための対象。捨てるのは当然。そう言い聞かせれば、彼の頬の熱は消える。彼の無邪気な笑顔も、関西の湿った風が洗い流す。私は別の熱源を探した。より大きい声、より速い光、より簡単な正義。


 街角で拡声器の声が上がっていた。紙を配る手、列を整える手、掲げられた旗。人の波に混じると、耳鳴りは群衆のザワメキと同化した。私はプラカードを握った。握りしめる感触は、誰かの手とは違った。自分の手の骨と、紙の繊維だけの、軽い感触だった。軽さは、時々、救いになる。


 顔を上げると、誰かがレンズを向けていた。シャッターが切れ、私は一瞬だけ、私自身から解放された。フレームの中の私は、意味を持っていた。匿名の誰かの正義の顔。名前のない女神の予備軍。私は息を吸い、吐いた。吐く息の途中で、遠くのほうで誰かが歓声を上げた。歓声は、甘い飴のように口の中で溶けた。


 そして私は、群衆の音の中に、もう一度、自分の価値を聞こうとした。次は、レンズの向こう側が答えをくれるはずだと信じて。

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