第45話 失われた『熱』の予兆

安土城の大広間は、静寂に包まれていた。


天正十二年の冬。日本全土の統一を祝う盛大な宴が開かれているはずなのに、そこには熱気も、高揚した声もない。漂うのは、わずかな香の匂いと、淡い酒の匂いだけ。家臣たちの衣擦れの音さえ聞こえぬほど、その場は完璧な静けさに満ちている。皆、各自の席で静かに酒を飲み、必要最低限の会話しか交わさない。彼らの顔には、安堵も歓喜も、そして何より「熱」が感じられなかった。


その夜、城下では、冷たい冬の風が吹き荒れていた。

町人たちは、家の中で小さく身を寄せ合っている。

「今宵は、お城で盛大な宴が催されているとか…」

誰かが呟く。

「そうだろうな。おれたちは、もう戦の心配をしなくていいんだから…」

その声には、感謝と、そしてどこか満たされない感情が混じっていた。


信長は、上座からその光景を眺めていた。

おかしい。何かが決定的に欠けている。この光景は、まるで…


まるで、規律を完璧に遂行する部隊の夕食会のようだ。


信長は、彼らの完璧さに満足していた。彼らの行動は、すべてが合理的で無駄がない。酒を飲みすぎる者はいない。不必要な雑談に興じる者もいない。互いの杯が触れる小さな音さえ、聞こえてこない。


それは、まさしく信長が求めた「規律」の完成形だった。


しかし、その完璧さが、信長の胸に違和感を生む。この静けさは、戦乱がもたらす緊張感から解放された安堵ではない。それは、まるで感情を失った人形たちの静寂だった。


広間の隅、下座の兵士たちが囁き合っている。

「殿は、何を考えておられるのだろうか…」

「まるで氷のようだ。近寄りがたい…」

彼らの不安の声が、か細く、しかし確かに耳に届く。

信長は、その声に耳を傾ける。俺の求めた規律は、彼らを安心させるはずだった。なのに、なぜ不安を感じている?


信長は、杯を傾けた。

近藤さんなら、どうしただろうか?

きっと、こんな静かな宴会には、我慢ができなかったに違いない。

『おーい、永倉! もっと飲め!』

そう言って、大声で笑い、永倉や原田に酒を注いで回る。

その声は、まるで岩を砕くようだった。

屯所の宴会は、いつもそんな大騒ぎだった。

酒の匂い、汗の匂い、泥の匂いが混じり合い、熱気に満ちていた。

そこには、規律なんてなかった。だが、そこには、確かな「熱」があった。

誰もが、自分の夢を語り、馬鹿騒ぎをし、そして、明日の命を燃やしていた。


信長は、秀吉に目を向けた。秀吉は静かに酒を飲んでいる。その表情は、どこか寂しそうだ。秀吉は、かつてはもっと熱かった。『殿、天下統一したら、盛大な宴会をやりましょう!』そう言って、目を輝かせていた。だが、その輝きは、もはや彼の目にない。


信長は、家康に目を向けた。家康は、相変わらず冷静だ。彼は、こんな宴会を望んでいたに違いない。規律と、秩序と、そして何よりも「平和」を。だが、その「平和」は、あまりに冷たかった。


信長は、立ち上がった。誰もが、彼に注目する。その視線は、尊敬と畏怖が入り混じっていた。もはや、彼を「うつけ」と呼ぶ者はいない。彼は、完璧な天下人だ。


信長は、広間の中央に立つ。

俺は、この国に「安全」と「秩序」を与えた。だが、その代わりに、この国から「熱」を奪ってしまったのではないか?


彼の脳裏に、沖田の笑顔が蘇る。『土方さん、鬼の副長なのに、なんだか寂しそうですね。』あの時の沖田の言葉が、今、胸に突き刺さる。


信長は、広間の隅に座る千利休に目を向けた。利休は、静かに茶を点てている。彼の点てる茶は、いつも完璧だった。無駄な動きは一つもない。だが、その茶には、何の感情も込められていない。


信長は、利休のそばに歩み寄る。

「……利休。茶に、熱は不要か?」

信長の問いに、利休は静かに茶碗を差し出した。

「茶には、心があればよろしゅうございます。熱は、泡のように消えていくものにござりますれば」

利休の言葉は、まるで信長の心を凍り付かせる。

「茶に熱は不要…」信長は、その言葉を反芻する。

俺も、利休も、完璧を求めてきた。だが、完璧は、感情を排除する。完璧は、熱を奪う。完璧は、孤独を呼ぶ。


俺は、なぜ熱を失った?


戦が終わったからか?

命を賭ける相手がいなくなり、緊張の糸が切れてしまったからか。


規律を強いたからか?

俺が、皆の感情を縛りすぎたからか。規律は秩序を生むが、同時に情を殺す毒なのか。


それとも、俺が強すぎたからか?

俺がすべてを一人で成し遂げ、誰も追いつけなくなったからか。俺の孤独が、皆の熱を冷ましてしまったのか。


答えは、見つからない。


利休は、完璧な所作で茶を差し出した。

信長は、その茶碗に目をやる。茶の色は、澱んだ黒い影のように見えた。

熱のない茶。それは、まるで熱のない国のようだった。


信長は、茶碗を手に取った。

俺は、この国から「熱」を取り戻す。


それは、刀を振るうことでは成し遂げられない。

それは、規律を強いることでも成し遂げられない。

それは、心を動かすことだ。


彼は、自分が何を犠牲にして、この完璧な世界を築き上げたのか、その問いの答えを、見つけ始めていた。


それは、孤独な旅路だ。

だが、俺は、この旅路を歩むことを決意した。


風が、乾いた音を立てて安土城の天守に吹き付けてくる。その風は、どこか故郷の多摩の風を思わせた。

それは、彼が一人で歩む、最後の道の始まりだった。


信長は、天守から見下ろした城下の灯を見つめた。あそこには、焚き火を囲んで笑う町人たちがいる。そこにこそ、自分が失った「熱」がまだ残っているのではないか。


「明日、城下の者どもを集めよ。唄え、踊れ。熱を忘れさせるな。」


誰にともなく放たれたその声は、冷えきった大広間には響かなかった。だが、夜風に乗って城下へ流れ、焚き火の火花のように、小さな熱を呼び起こした。


――俺は、この国に『誠』という名の花を咲かせてみせる。

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戦国新選組 最狂×最狂 ー土方歳三が織田信長に逆行転生した混ぜたら危険な世界線ー 五平 @FiveFlat

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