【Episode20】兄と妹弟

夕食を終えた後、柊は廊下を歩き、末の弟、龍の部屋の前で足を止めた。

扉越しに鉛筆の走る音がかすかに聞こえる。ノックをすれば、間をおいて「はーい」という素直な声が返ってきた。


部屋に入ると、机の上には教科書とノートがきちんと並べられ、その隣にお気に入りのミニカーや組み立て式のロボットが整然と置かれている。

窓際の棚には、幼い頃から集めてきた小さな鉱石の瓶が色とりどりに並び、昼間の光を閉じ込めたようにかすかに輝いていた。

消しゴムの削れた匂いや鉛筆の芯の香りが漂い、ページをめくる音がまだ部屋に残っている。整頓されつつも、使い込まれた温度がはっきりと感じられる空間だった。


龍は、昔から言われなくてもこういうことができる子だった。

机を整える習慣も、身の回りを片づける手際も、誰に叱られたからではない。むしろ、親が家を空けがちであったことが理由かもしれない。年の離れた末子として生まれ、幼い頃は泣き虫で、姉たちに甘えてばかりだった姿を柊は覚えている。母を失ってからは利沙に寄り添い、安心を得ていた弟が、今では一番に自立心を見せる存在になった。その変化を思うと、不意に時の流れの速さを意識させられる。


「柊兄さん、ちょうどいいところに」

顔を上げた龍は、分からない問題の載ったノートを差し出す。

「ここ、どうやって解くの?」


柊は椅子を引き、弟の隣に腰を下ろす。鉛筆を取り、手際よく式を並べながら淡々と説明した。龍は真剣に聞き入り、眉間に皺を寄せつつも、理解できた瞬間にはぱっと顔を明るくして頷く。その切り替えの早さに、まだ子どもらしい無邪気さが残っていた。


ふと柊は、さらりと口を開いた。

「……そういえば、この前言ってた“きれいな人”、その後はどうなったの?」


龍の顔がぱっと明るくなる。

「うん、最近は美優ちゃんも一緒によく遊んでもらってる。伶くんもたまに一緒にいるよ」


「伶くんも?」

柊はわずかに眉を上げる。思いがけない名前に驚きを覚えたが、そこには触れなかった。

代わりに、少しだけ声をやわらげる。

「楽しいか」


「うん!」

龍は力強く頷き、笑顔を見せる。その笑顔はまだあどけなく、けれど確かに成長の兆しを含んでいた。


柊はその横顔を静かに見つめる。外での交わりを増やし、少しずつ世界を広げていく弟。その姿は、守られるだけの子どもから「他者と関わる一人の人間」へと移ろい始めているように見えた。

鉛筆の先でノートに線を引きながら、柊はその笑顔をただ受け止めていた。


***


夜も更けた頃、玄関の扉が軋むように開いた。

外気をまとって入ってきたのは、上の弟の凌だった。黒髪に青い瞳を宿し、ぼんやりとした顔立ちはどこか眠たげで、緊張感を欠いている。肩幅は広く体格にも恵まれているが、立ち姿は力強いというよりも、自然と力が抜けたような印象を与えた。


柊にとって凌は、兄妹の中でも最も掴みどころのない存在だった。

何でも器用にこなすが、決して一番にはなれない。姉の里理と比べられ揶揄されても、仕方がないと本人もどこか諦めている節がある。それでも卑屈になることはなく、与えられた役割を淡々と果たしてきた。


「おかえり。少し時間ある?」

柊は廊下に立ち、声をかけた。


凌は一瞬目を瞬かせ、驚いたように眉を上げる。

「…ただいま。何かあった?」


「少し散歩しようと思って」

柊は軽く笑みを添えて言い、玄関を指した。


凌は怪訝そうにしながらも頷く。

「いいけど…」


二人で夜気の漂う外に出ると、足音が並んだ。沈黙がしばらく続き、やがて凌が口を開いた。

「もしかして、姉さんたちには言えないこと?」


柊は空を見上げるようにして短く答えた。

「うん。そのうち家を出ようと思って」


凌は言葉を失ったように足を止め、兄を見た。

「……は?」


しばしの沈黙のあと、信じられないものを聞いたように声を漏らす。

「兄さんは、なんだかんだで家を継ぐんだと思ってた」


柊は前を向いたまま、静かに言った。

「俺もそのつもりだった」

そしてほんの一拍置いて、淡々と続ける。

「ごめんね」


凌は苦笑に似た息をつき、肩をすくめる。

「それは俺じゃなくて、里理に言ったほうがいい」


柊はわずかに目を細め、口の端だけで笑った。

「言った瞬間修羅場になるのが目に見えてるから、ギリギリまで言わない」


凌は呆れを隠さず、深くため息をついた。

「…兄さんらしいな」


しばらく歩いたのち、凌は不意に呟いた。

「俺も、家出ようかな」


柊は足を緩め、横顔に視線をやった。

「いいじゃん。その方が凌くんには合ってるよ」


月明かりの下、兄弟の影は並んで伸び、夜風に溶けていった。


***


朝のキッチンはまだ静かだった。

他の兄弟は眠りの中にあり、家全体が夜の余韻を残しているような時間。

冷蔵庫の灯りと小さな手元の明かりに照らされながら、下の妹の里理は自分の朝食を黙々と用意していた。


癖のない黒髪がさらりと揺れ、背筋を正した姿は隙がなく、ひとつひとつの動作は無駄がない。

冷たい横顔は、鋭さを帯びた父の面影を強く思わせる。兄弟の中で最も整った顔立ち、そして何事も筋道立てて処理する合理さ。柊にとって里理は、ただ優秀というだけでなく“父の影を最も色濃く宿す者”として映っていた。


だが同時に、彼女は誰よりも家の重荷を背負うことになる存在でもある。柊が家の役目を放棄すれば、最も重荷を背負わされる立場にあるのも彼女だ。彼はそのことを痛いほど理解していた。


「おはよう」

静かな声でそう言いながらキッチンに入ると、里理は手を止めてちらりとこちらを見た。

わずかに眉を寄せ、嫌悪を隠しきれない表情を一瞬だけ浮かべる。


「…おはようございます」

きちんとした返事だが、温度は冷ややかだ。


柊は気に留めた様子もなく、軽く問いかける。

「早いね。朝練?」


「そうです」

短い返事。無駄のない声。


小さな間が落ち、今度は里理が切り返した。

「兄さんはこんな時間にどうしたんですか」


柊は視線を流しながら、淡々と答える。

「入りたいゼミがあってさ。その教授の著書を、授業前に図書館で探してみようと思って」


一瞬、里理の目が見開かれる。拍子抜けしたように息を整え、呟く。

「……学校には、ちゃんと行っているんですね」


「興味があって選んだ学校だからね」

柊の声は静かだった。


里理はふっと息を吐き、スプーンを皿に置く。

「その興味を、もう少し家にも向けてほしかったです」


柊はすぐに視線を落とし、短く言う。

「ごめん」


冷たい光のように張り詰めた空気の中、その一言だけが残った。


***


学校からの帰り道、柊は珍しく星ノ谷家には寄らず、まっすぐに自宅へ戻った。

玄関を抜けて廊下を歩いていると、奥から微かに旋律が流れてくる。家の防音室。

扉の向こうで、上の妹の利沙がピアノを弾いていた。


幼いころ、母の意向で兄妹そろって習っていたピアノ。柊もそれなりに熱心にやっていたし、大会に出れば入賞くらいはできる程度には形になっていた。

けれど、妹の才能はその比ではなかった。初めて触れる曲を、何年も弾き込んできたように自然に奏でてしまう。

努力や反復では届かない次元の「音楽」が、彼女の中には最初から備わっていた。

その格の違いを、柊は当時から痛感していた。


(……やっぱり、すごい)

鍵盤をなぞる白い指先を、黙って見つめながら思う。

彼女は人当たりがよく、誰からも好かれるが、実際は柊以上に関心と無関心の線引きがはっきりしている。興味の外にあることは容赦なく忘れる。それを“天然”という仮面で乗り切ってしまう。

自分と似ているようで、決定的に違う。そんな存在。


やがて曲が終わり、最後の音が空気に溶ける。

利沙は振り返り、柊の姿を見ると、ぱっと顔を綻ばせた。


「柊さん。おかえりなさい」

その笑顔は、昔と少しも変わらなかった。


「利沙ちゃん。ただいま」

柊は軽く片手を上げ、部屋に入る。


利沙は首を傾げて問いかける。

「今日は星ノ谷さんのお屋敷には寄ってこなかったんですか?」


「たまにはね」

柊が答えると、利沙は「そうですか」と小さく笑みを深めた。


利沙が鍵盤の上に手を置いたまま言う。

「……じゃあ今日は、柊さんのおうち時間ですね」


柊は少しだけ笑みを含ませる。

「まあ、そうなるのかな」


「ちゃんとご飯は食べましたか? 帰ってきてすぐに部屋にこもってしまうから、心配になります」

「昨日の夕食は一緒に食べたじゃない」

「でも、食べ足りないのではないかと思って」


柊は目を細め、苦笑を押し隠すように答える。

「心配しなくても大丈夫。利沙ちゃんほど食べなくても、俺は平気だから」


利沙はくすりと笑い、ピアノの蓋をそっと閉じる。

「じゃあ代わりに、音楽を少し分けてあげます。今日の曲、柊さん好きそうかなって思って弾いていました」


柊は一瞬だけ目を瞬かせ、やがて小さく頷いた。

「……ああ。確かに、好きかもしれない」


「よかった」

利沙は満足げに微笑み、肩の力を抜いた。


利沙は少し思い出したように手を打った。

「そういえば…この前、柊さん、朝に帰ってきましたよね」


柊は瞬きし、表情を動かさずに返す。

「…そうだったかな」


「うん。廊下で偶然会ってびっくりしました。朝に帰ってくるなんて珍しいなって」

利沙は首を傾げ、柔らかな笑みを浮かべたまま問いかける。

「星ノ谷さんのところにいらっしゃったんですか?」


柊は少しだけ目を細め、曖昧に答える。

「まあ、そんなところ」


利沙は深く追及することはせず、ただ安心したように頷いた。

「よかった。柊さんが無茶をしてないなら、それでいいんです」


柊はその様子を眺めながら、この妹は、ほんとうに必要なこと以外は聞かないし、聞いてもすぐ忘れるのだ、と改めて思う。

柊はそんな考察を内心で巡らせる。すべてを天然で乗り切るような在り方は、自分にはない種類の強さに思えた。


利沙はにこりと笑みを深め、姿勢を正した。

「でも、体調だけは気をつけてくださいね。柊さんが倒れたら、きっとみんな困りますから」


柊はその笑顔を見つめ、わずかに息を吐く。

「気をつけるよ」


そう答える声は静かで、けれどほんの少しだけ、素直な響きを帯びていた。

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