【Episode21】綺麗な目
屋敷に足を踏み入れた途端、静けさの奥にひそやかなざわめきがあるのを柊は感じ取った。廊下の壁際には信者たちが列を成し、誰一人声を発しない。それでも彼らの目だけは生き物のように動き、柊を追い続けていた。
珍しいものを目にしたときのような好奇、異質を前にしたときの警戒、そして触れてはならないものを見るような畏れ。それらが幾層にも重なり、無言の問いが空気に浮かぶ。なぜここにいるのか、と。
中には礼を崩すまいと懸命に微笑みを貼り付けている者もあれば、あからさまに眉を寄せる者もいる。視線を合わせたかと思えばすぐに逸らす者、袖口を握りしめて小さく震える指先。細かな仕草を柊は淡々と拾い上げながら歩を進めた。自分はこの場において完全に異物なのだと、静かに理解しながら。
やがて重厚な扉の前に至り、世話役が手をかけて押し開ける。差し込む昼の光の向こう、応接室に瑠見が待っていた。
カーテンを透かす柔らかな光の中で、銀の髪は細い糸のように煌めきながら肩に流れ落ちている。瞳は朝焼けの黄に淡い桃色を含み、光を吸い込んで奥底まで澄み切って見えた。表情は緩やかな笑みを形作り、指先の仕草ひとつにまで気品が宿る。その姿は絵画の人物のようで、神秘という言葉そのものが形を得た存在のように見えた。
瑠見は穏やかな顔を保ったまま、しかし声色にかすかな揺れをにじませて言った。
「昨日は来てくださらなかったのですね」
柊はその表情を観察する。口元の緊張、声の奥に隠された掠れ、揺れる指先。彼女が取り繕いながらも焦燥を抱えていることは明らかだった。ここしばらく、同じような影がずっと差している。
「かわいい人を口説くにも準備がいるんだよ」
応接室の椅子に並んで腰を下ろす。湯気の立つ茶器を前にしても、柊の姿勢は普段通り崩れず、軽く口角を上げて瑠見に目をやった。
言葉は軽いが、視線は揺れない。瑠見はその隣で、穏やかな笑みを崩さずにいた。けれど、指先がひとつ小さく震え、膝に添えた手がわずかに握りしめられる。
「……では、準備はどこまで進んでいるのですか」
声音はやわらかく整えられていた。だが、問いの裏に焦りの色が滲む。瑠見が以前語った、家のために子を望む話。その返答を今、改めて求めているのだと柊は察した。
すぐに答えられる言葉を持たず、柊は視線を落として考え込む。沈黙が二人の間に落ちた。
その沈黙を埋めるように、瑠見は小さく息を吐き、笑みを薄くした。
「考えていると仰るけれど……結局、何も行動になさっていない。本当に、口先だけなのではありませんか」
声がわずかに強くなる。張り詰めた糸がきしむ音のように。
柊は顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと待ってね…」
思案を言葉にする前に、時間を稼ぐような声音。だが瑠見には、それすら逃げに聞こえたのだろう。
「……いつまで待てばいいのです!」
押し殺していた感情が声ににじむ。瑠見は次の瞬間、勢いのまま柊の肩を押した。ソファの背に体を預けた柊は、不意を突かれて目を見開く。けれど抵抗はせず、そのまま押し倒される形となった。
瑠見の手に押し倒され、背にソファの感触を受け止めたまま、柊は僅かに視線を横へと流した。扉の外。世話役が控えているはずの廊下。声が漏れはしなかったか、まずそれを気にする。
瑠見の声音は、押し寄せる波のように途切れなく続いた。
「わたしの父は、未来視の力が弱いと言われていました。それでも、穏やかで、壮健で、周囲に安心を与える人でした。けれど、あっけなく死んでしまった。未来が読めなくても、誰よりも信じられていた人が」
瑠見の声は、最初こそ震えていたが、吐き出すほどに熱を帯びていった。
「今、星ノ谷の家は傾いています。信者は減り、家を支える力も薄れてゆく。……だからこそ、わたしが『未来を視る者』として人々を導かねばならないのです。わたし以外に、もう誰も残されていないから」
彼女の指先が柊の服を掴む。爪がかすかに食い込むほど強く。
「けれど、それだって、どれほど続くのか分からない。わたしの未来視は、わたし自身のことは視れません。……父のように、ある日突然倒れる未来を持っていたとしても、分からないのです」
吐息が荒くなり、瑠見の瞳が潤んだ。
「もしわたしがいなくなったら、家は終わります。信仰も、すべて……消えてしまう。そうならないためには、子を残さねばならない。次代へと繋ぐ者を、必ず」
涙は落ちない。必死に抑え込んでいる。だが声だけが熱を帯び、鋭くなる。
「だから待たされるのは怖いのです。考えていると言いながら、何も動いてくださらない。口先だけで終わるのではないかと……わたしは、毎日怯えているのです」
最後の一言は、喉の奥から絞り出すようだった。
「私には…時間がないのです」
柊は息を吸いかけ、言葉を選ぶように口を閉じた。
視線は逸らさない。ただ、何を返すかを探すために数秒の沈黙が落ちる。
柊の声は平板で、しかし一切の揺らぎがなかった。
「聞いてるよ」
その響きに、瑠見の胸の奥で何かがわずかに震える。けれど不安は消えない。彼女は視線を逸らせず、かすかに唇を噛んだ。答えは確かに与えられているはずなのに、また煙に巻かれてしまうのではないかという疑念が、涙とともに喉の奥を塞ぐ。
柊はそれを見抜いているかのように、静かに言葉を継いだ。
「君が思うより、俺は考えてる」
短い一文。しかし、その目は逸らさずに彼女を射抜いている。軽口でも、慰めでもない。淡々とした調子のまま、けれど逃げずに告げられたそれは、誤魔化しではなく確かな重みを持っていた。
瑠見は言葉を返せなかった。噛みしめた唇の隙間から、かすかな息だけが洩れた。
「……落ち着いて話そう」
そう言いながら、彼女の肩にそっと触れ、押し倒されたままの体を起こす。視線でソファに戻るよう促すと、瑠見はわずかに逡巡しながらも従った。
柊は呼び鈴を使わず、自ら手を伸ばして卓上のポットから紅茶を注ぐ。音を立てぬようにカップを差し出すと、瑠見は両手でそれを受け取った。細い指先が白磁の縁に触れ、震えがまだ完全には収まっていないのが見て取れる。
しばらくの沈黙。瑠見はカップを唇に寄せ、小さくひと口含む。温かな香気が胸の奥に広がると、張り詰めていた呼吸がほんの少しだけ整った。
柊はその様子を見届け、淡々と問いかける。
「落ち着いた?」
瑠見は視線をカップの中に落としたまま、わずかに頷いた。
完全に不安が消えたわけではない。それでも、言葉を交わすだけの静けさを取り戻したことは確かだった。
柊はしばらく黙っていたが、紅茶を置く音に合わせるように口を開いた。
「意味なく拒んでいたわけじゃない」
声色は淡々としている。だが、言葉は順序立てて並べられ、どこか理路整然とした響きを持っていた。
「君の存在は、もう信者のあいだで偶像になりすぎている。本来の星ノ谷の信仰は、能力そのものを対象にしていたはずだ。だから、誰を伴侶に選んでも、誰と子を作っても、本来は問題ではない」
視線を瑠見に向けたまま、少しだけ声を落とす。
「けれど今、ここに残っている信者の多くは能力ではなく“君自身”を信奉している。君を形ある象徴にして、そこに縋っている」
柊の目は揺れない。静かに続ける。
「そんな状況で、偶像と同列に並ぶ存在…伴侶を作れば、強い反発が起こるだろう。偶像を“汚された”と感じて、君を拒む者が出てもおかしくない」
「君は導き手であろうとしているけれど、同時に、君の生活は信者の支援で成り立っている部分も大きい。要は、君と信者は共依存の関係にあるんだ」
柊は一度言葉を切り、短く息を吐いた。
「だから、その関係にヒビを入れるような行動は避けるべきだと思った。…それで今まで拒んでいた」
彼の声音がわずかに柔らぐ。
「けれど、この話をすると、今の君のやり方そのものを否定するように思えて、言えなかった。…悪かったと思っているよ」
瑠見はしばらく言葉を失っていた。
これほどまでに自分のことを考え、状況を読み取っていたとは想像もしていなかったのだろう。驚愕と戸惑いがないまぜになった表情で、ただ柊を見つめている。
「……いつから、そんなことを考えていたのですか」
掠れる声でようやく出た問いかけに、柊は迷う様子もなく答えた。
「君が、この家の状況を俺に話した日から」
瑠見の目が大きく見開かれる。唇がわずかに震え、呆然としたように息を飲んだ。
「……なんで」
小さく漏れた言葉に、柊は淡々と視線を返す。
「そのくらいの覚悟は持って、あの日応えたつもりだから」
瑠見は、なおも納得できないように視線を揺らしながら口を開いた。
「……でも、あなたは支えないと、そう言ったではありませんか」
柊は静かに首を横に振る。
「支えてはいない。この家を維持するために、俺は何も協力していない」
言葉の温度は変わらない。けれど、その裏に含まれる確かさが瑠見の胸を突いた。
「……私は、ずっと……からかわれているのだとばかり……」
声が震え、次の瞬間、柊の言葉が重ねられる。
「意味のない嘘は言わないよ」
その一言に、瑠見は堪えきれなくなった。唇を噛んでいた力が解け、熱い雫が頬を伝い落ちる。
「……あなたは……言葉が……下手すぎます……」
泣き笑いにも似た表情で、彼女の瞳から抑えきれない涙が零れた。
柊はただ黙ってその様子を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……綺麗な目だね」
慰めるでもなく、寄り添うでもなく。ただ事実を告げるように。
その声音は穏やかで、けれど不思議なほど優しく響いた。
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