【Episode19】ざわめきの種類

応接室。昼の光がカーテン越しに柔らかく広がり、淡い影を壁や床に落としていた。

磨かれたテーブルの表面には木目が静かに光を返し、その上では茶器の湯気が細い糸のように揺れている。

その落ち着いた空気は、つい先ほどまで廊下に満ちていた人の声やざわめきと、あまりに対照的だった。


つい先ほどまで、瑠見は数人の信者に呼び止められ、廊下で短く言葉を交わしていた。

子の病を案じる母親の震える声に微笑を添え、老信者の不安を鎮めるようにその手を包む。

ほんの数言で、強張った表情が次々と緩んでいく。

その場の空気ごと和らげるような気配を、柊は少し離れた場所から静かに見届けていた。

一言ごとに人の心を動かし、触れられた者が救いを見出す。その在り方は確かに偶像の力を備えていた。


やがて部屋に戻り、瑠見はふっと小さな吐息をこぼしてソファに腰を下ろす。

信者の前で崩さなかった笑みは残っているが、カップを持つ指先にはわずかな震えが走った。

視線を柊へ移し、声を落として問いかける。

「……今のわたし、どう見えました?」


唐突というよりは、確認を求めるような響きだった。

柊は少しだけ目を細め、淡々と答える。

「印象的だったよ。君はやっぱり人の心を動かすのが上手い」


「それは誉め言葉と受け取ってよろしいのかしら」

瑠見は小さく笑みを浮かべたが、揺れる瞳にわずかな探る色を宿す。


柊は肩をすくめ、返事を曖昧に流した。


短い沈黙。

瑠見は視線を落とし、指先でカップの縁をなぞりながらぽつりとこぼす。

「……もし、わたしに未来視の力がなかったとしたら。柊さんは、どう思われます?」


柊はすぐには答えず、わずかに間を置く。

「どうって、別に変わらないんじゃないかな」


「変わらない?」

瑠見は思わず問い返し、すぐに苦笑を添えた。

「皆が信じているものを支えているのは、その力ですのに」


「君が話すのを見てれば分かるよ。人を惹きつけてるのは力じゃない。君自身だ」


瑠見の表情に、かすかな揺らぎが走る。

いつもの堂々とした笑みはそのままに、ほんの一瞬だけ沈黙が差し込んだ。


「……軽口の延長かと思いましたけれど」

「どうだろうね」


柊の声音は相変わらず平板で、何ひとつ感情を映さない。

その言葉の真意を測ろうとするかのように、瑠見はしばらく視線を外さなかった。


やがて再び、穏やかな笑みを形作る。

「やはり意地悪ですわ」


瑠見の言葉がふっと空気に溶ける。

応接室には茶器の香りと、微かに張り詰めた余韻だけが残り、静けさは先ほどよりもいっそう濃くなっていた。


***


翌日。屋敷の玄関をくぐると、静謐な空気の奥にざわめきが漂っていた。

廊下の壁際には信者たちが立ち並び、誰ひとり声を発することはない。けれど視線だけは、柊の動きを追う。


まるで珍しい生き物でも目にしたかのような眼差し。

好奇と警戒が入り混じり、そこに言葉はなくとも「なぜここにいるのか」という問いが浮かんでいるのが分かる。


柊は足を止めず、ただ薄めに流し目を返す。

背後に小さなひそひそ声がこぼれるが、意味を取ることもなく、そのまま歩を進めた。


やがて廊下の奥、応接室の前で世話役が立ち止まる。

扉に手をかける前に、柊に振り返る。


「……粗相のないように」


低く抑えた声。礼を欠くな、という遠回しの忠告だった。


柊は表情ひとつ変えず、ただ軽く頷く。

世話役はそれを確認すると、静かに扉を押し開けた。


カーテン越しの柔らかな光が差し込む応接室が、その奥に待っていた。


応接室。

昼下がりの光がカーテンを透かし、磨かれたテーブルに影を落としていた。

茶器から立ちのぼる湯気の揺れだけが、間延びした空気を埋めている。


「……ねえ、柊さん」

瑠見がそっと声を落とす。

「こうして向き合っていても、あなたは少しも揺らいでくださらない」


柊は答えず、ただカップを指先で転がすように触れる。

沈黙。


瑠見は小さく笑い、しかし笑みの奥に微かな悔しさをにじませる。

「沈黙も、立派な意地悪ですわ」


柊は目を細め、軽く肩をすくめる。

「そう見えるなら、そうなんだろうね」


「逃げていらっしゃるのではなくて?」

瑠見は探るように言葉を重ねる。

「わたしがどれほど近づいても、あなたは揺らがない。まるで、心のどこかを固く閉ざしてしまっているみたいに」


柊はわずかに視線を逸らし、再び何も答えなかった。


その無言が、瑠見の胸をじわりと焦がす。

やがて、彼女はゆるやかに身を乗り出した。

テーブルに添えた手が柊の肩口へと伸び、囁きが重なる。


「……それなら、試させていただきますわ」


言葉の終わりと同時に、瑠見の唇が触れた。

最初はほんのかすかな接触。柊は瞼を閉じることなく、冷ややかに受けているように見えた。


けれど彼が抵抗しないと知ると、瑠見は深く息を吸い、角度を変えて唇を押し当てる。

重なりは次第に深くなり、熱を帯びていく。


そのとき、柊の睫毛がわずかに震え、瞼が静かに伏せられた。

表情は変えないまま、ただ受け入れるように。


(粗相ねぇ)

胸の奥にひとつだけそう呟き、彼は何も示さなかった。


唇を離した瑠見は、すぐに姿勢を戻さず、柊の横顔を至近で見つめていた。

やがてゆるやかに息を吐き、笑みを形作る。


「……これでも、まだ少しも揺らいでくださらないのですね」


穏やかな声音。けれど睫毛の揺れが、その余裕をわずかに裏切っていた。


沈黙。

彼女は視線を伏せ、囁くように続けた。


「……本当に。前に言ったこと…ちゃんと考えていてくださるのですか」


普段なら決して見せない、弱さのにじむ言葉。

笑みは保ったままでも、声音にはかすかな震えが混じる。


柊は瞼を持ち上げ、まっすぐに彼女を見返した。

表情は変えず、声にも抑揚はない。


「考えてるよ。これでもね」


視線をそらさずに告げられた一言に、瑠見の肩が小さく揺れた。


窓辺をすり抜ける光が、ゆるやかに埃の粒を浮かび上がらせる。

二人の間に交わされた言葉の残響が、まるで沈黙の中に刻み込まれたかのように、長くそこに留まり続けていた。

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