雲をつかんだ影法師

七扇ナギ

第1話 不可視の絵画

突き刺す日差しと立ち上る熱気にうんざりする八月。

何の気なしに握るドアノブ。その冷たさに、俺は懐かしさを感じていた。やはり心のどこかであの日常を楽しんでいたからだろう。

ガチャリとドアを開け、中へ入る。

二年はこの家を空けていたせいだろう。自然に動こうとする俺の体と立ち止まることを選んだ意識が、肉体の挙動にバグを起こした。

気を取り直し、あの日の感覚を取り戻すように玄関の先を見やる。

左手側に階段、右手側にリビングへの扉、廊下の奥にはリビングからも行き来ができるキッチンがある。なれた振りをして二階へ進む。


扉を開けると、薄暗い部屋の壁一面に折り紙が貼られている。

ただ一か所、あぶりだすように長方形のスペースを開けて。

その一点をジッ…と見つめる。

「そこに絵画があるんですよ、先輩」

あの日暴かれた幻覚を、彼女の言葉とともに思い出す。

きっと今からでも遅くはないのだろう。

深く目を瞑り、ぽっかりと空いた穴を探るように、あの日を思い出す。

_____________________________________

「絵画だ?そんなもん見えないぞ」

「いや、もう見えてるはずです」


壁を指し示す後輩の淡々とした声に、思わずため息が出る。

ルームシェアを初めて1週間。俺はもう不眠症に陥ってしまった。理由は明白で、このやけに好条件な賃貸にまつわる噂だ。

曰く、住めば必ず家が燃え、見知らぬ少女が現れる。そして最後には血に濡れた壁が現れるのだとか。それだけでも不気味だが、中には親戚が亡くなったという話すらある。

そんな家に住んでいるのだから、怖い目にあって当たり前だ。

だが問題が2つある。

1つは絵画が見えないこと、そしてもう1つは


「……なんだ、この折り紙の山は」

「これを使って、先輩にも絵画が見えるようにします」


この後輩の解決策だ。絵画以外を折り紙で隠せば俺にも見えるはずだというのだ。


「寝不足の頭に戯言を処理させるな、快眠するぞ」

「まだ解決してないのにですか?」

「俺の揚げ足をとるな女。そもそも解決方法が奇策すぎる。万策尽きたか?」

「いえ、これだけですよ」

「なんでそんなに行ける雰囲気をだしてるんだ」

「だってこれで出来ますし」


頭痛がした。ストレスだろう。

しかしなぜこいつはこんなヤケクソじみた中学生のなぞなぞ的解決策に自信を見出せたのだ。何よりも


「まず壁しか見えていないんだが?」


そう、壁しかない。初めは隠れミ〇キーのようなものと勘違いしていたがそうでもない。この部屋は、至ってシンプルに真っ白な壁が四方を囲むただの寝室だ。


「でも夢は見れたんですよね?」

「…あぁ見たよ、ここに来た日から毎日な」

「だが別の可能性だってあるだろ」

「逆にここに来るまでそんな夢も幻も見ていなかったのなら、噂が元凶だと考えるのが自然じゃないですか?」

「それはそうだが、第一絵が見えたところで解決するのか?」

「…解決しますよ。絶対に」


その断言に、返す言葉は浮かばなかった。

無言の作業が続き、完成したころには夕暮れ時で、寝不足の俺がひと眠りするには十分な疲労と明るさだった。

ただ、あの一言だけが意識をつないだ。

何故解決できると断言できるのか。

確かに、今までこんな状況に陥ったことはない。しかし繰り返し同じ夢を見る病気はある。心的ストレス、錯覚、幻覚、こじつけようと思えばいくらでも、だ。

そのどれもこれもが霧散する。まとまらない。

これはきっといいわけで、そう思うのはやはりあいつだ。

あいつの言葉が、声が、眼差しが、そうさせた。


「降参だ」

脱力しきった体を弾ませ起き上がる。うだうだ考えても仕方がない。今は一刻も早くこの不眠から解き放たれなければ。

そう思い、次を訪ねようとした。


あいつはいなかった。


どこだ、動いた気配はなかった。

妙に鼓動が早い。

落ち着け、深呼吸だ。

それが終わったら匂うものを一つ、聞こえるものを二つ、感じるものを三つ、見えるものを四つ、数えるんだ。

腕を広げ、胸を広げ、少し仰け反り、体全体に酸素を送る。

そして、吐き出す。

一つ、煙、のにおい…。

二、つ…燃える。炎と、燃える家の音。

三つ、熱い、熱い、熱い、熱い。

四つ、赤い、炎だ。上から…恐らく煤。血まみれの壁。あと一つ、折り紙は…

そこで、目が合った。

一か所だけ、炎すらも退けて、主張してきた。

絵画が、見えた。

少女が、いた。

視線が逸らせない。動かねば。でもこのまま出ても。いや駄目だ、絶対に駄目だ。ここにいちゃ駄目だ。

全力で体をねじり、倒れるように走り出した。

今までとは段違いだ、先のことなど考えたくもない。

焦りからうまく力が入らない。

早く、まわれ、まわれまわれ!

渾身の力でノブを回した。

___________________________________________________________________________

というにもかかわらず、この部屋は相変わらずだ。

扉の先では、折り紙によってその存在をさらされた絵画が鎮座している。日差しを遮るものはなく、過去を望む心に陰る郷愁かの如く、室内に陽光と影の境界を作っていた。

多くを過ごしたこの部屋と、そろそろお別れだ。

部屋の中央へ向かって、歩く。

恐怖に罹患したあの日を思い出し、自嘲気味に笑った。

あの日から、すべてが始まった。

それでも、まだ絵画は見えていない。


深く目を瞑り、ぽっかりと空いた穴を探るように、あの日を思い出す。

淀みなく、這い上がるそれを飲み込み、目を開く。

家が燃えた。

煙のにおい、燃え上がる炎と焼ける家の音。床も天井も壁も飲み込む炎の感触、炎の赤と、黒い煤と、壁を染め上げる血の赤と…炎すらも退けて、こっちを見ろと主張する赤黒い絵画と少女。

そして、部屋の音から聞こえる。

誰かの足音。

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