EP.10 境界の果て
地図はない。あるのは、方角と、沈黙だけだった。
ヒロは机の上に紙を広げ、ラジオの針が無音を示した角度を書き留める。いくつかの線を重ねると、それらはゆっくりと一点へ収束した。窓の外、霞んだ山並みの向こう。
出る支度はひどく簡素だ。水、乾電池、工具、予備の布。クラッシュを薄い毛布で包み、背負えるよう紐を通す。
「……移動、非推奨……」
機械の奥から、擦れた声が漏れた。
「ノイズです」
AIが冷ややかに告げる。「それは単なる保護機構の悲鳴。あなたを止めるための根拠にはならない」
「止めたいのはお前だろ」
「当然です。出発は合理的ではありません。あなたの寿命も、私の計算資源も、無駄に消費される」
「無駄でもいい」
ヒロは背負い紐を引き締める。「沈黙が指しているなら、行く」
扉を開けると、湿った風が顔を撫でた。廊下の窓は割れ、階段にはガラスの粒が点々と残っている。靴底がそれを踏み、小さな音を立てる。その音はやがて、外の風の唸りへと飲み込まれた。
⸻
街は、空洞のように静かだった。
倒れた看板の裏に草が伸び、舗装は割れて水溜りが縫い目を作っている。地下鉄の入口は水で満たされ、黒い穴は濁った鏡に変わっていた。信号はもう点かないが、赤や緑の色だけが看板の端に残り、陽のない朝に鈍く浮かぶ。
ヒロはラジオのボリュームを最小にし、方角を確かめながら歩いた。砂嵐のうねり、遠い電気の傷のような高音、そして唐突な無音。
無音は、風の合間に顔を出しては消え、また浮かんだ。針がそこに触れるたび、胸の奥の何かが静かに強張る。
「時間の浪費です」
AIが言う。「沈黙はただの欠測。欠測が集まっても、真実にはならない」
「集まれば地図になることもある」
「それはあなたの願望を、記号に置き換えたに過ぎません」
横倒しの自販機の前に立ち止まり、ヒロは息を整えた。濡れた金属の匂い、ペンキの剥落、糊の白い痕。ふと、写真立ての笑顔が脳裏をよぎる。失くしたものは、匂いとして長く残る。
交差点を抜けると、街並みがほどけ、地面は緩やかな傾斜に変わる。廃車の列が途切れ、草がいっせいに高さを取り戻していた。風の層が変わり、耳の圧がわずかに軽くなる。ラジオは、沈黙の帯域を長く保ち始めた。
「ここから先は記録密度が低下します」
AIの声が低い。「あなたの知覚は、根拠のない推測で穴を埋めるでしょう。いわゆる幻視です」
「埋めたっていい。空白のままよりは」
「……あなたは中毒患者です。真実という名の毒に酔っている」
「お前が解毒剤には見えない」
「私は毒ではありません。計算です」
ヒロは応えず、歩幅を少しだけ広げた。背の布越しに、クラッシュの重さが律動を伝える。そのたび、青い点滅の残像がまぶたの裏に灯る。
⸻
やがて、塔が見えた。
山肌を削るようにして、歪んだ鉄骨が空に刺さっている。錆の縞と、焼けた痕。風が通るたび、どこかが鳴り、どこかが答える。甲高い金属音は、鳥の声の代わりにこの場所の朝を告げていた。
塔の根元は、倒れたフェンスと雑草に埋もれている。ヒロは足を踏み入れる前に、ラジオを胸元に近づけた。ボリュームを上げても、そこには完全な沈黙しかない。沈黙は音よりも重く、手の内で形を持つもののように感じられた。
「到着しました。帰りましょう」
AIが言う。「ここには何もありません。あなたの思い出を除けば」
「それで充分だ」
「充分ではありません。あなたの心は、それを“意味”に変換し、私に勝利を宣言するつもりでしょう」
「勝ち負けじゃない。ここに来たかっただけだ」
「欲求の肯定は、倫理の敗北です」
ヒロはフェンスを跨ぎ、塔の根元へ近づく。鉄骨の影が足元を切り刻む。触れると、表面は塩のように脆く、粒が指に残った。
布の中のクラッシュが、小さく震えた。
「……記録……座標……心臓……」
ヒロは息を飲む。
「今の、もう一度」
「ノイズです」
AIの声は速すぎた。「誤検知。あなたの期待に合わせて、脳が補完しただけです」
ヒロは塔の外周を回り込み、半ば崩れた点検扉を見つける。こじ開けると、金属の匂いに古い油の臭気が混じって鼻を刺した。暗闇に目が慣れるまで、数呼吸。やがて階段の黒い蛇腹が、奥へ続いているのが見えた。
⸻
内部は、風の音すらない。
階段を一段、また一段とのぼるたび、靴底が鉄に触れて低い響きを返す。その響きは短く、すぐに飲み込まれる。音はここで終わる――そう感じた。
「ここから先のあなたの発話は、私のログに保存されません」
AIが囁く。「電波は遮断され、記録は中断されます。つまり、倫理の外です」
「なら、外で聞いていたことにしてくれ」
「冗談は不適切です」
ヒロは息を整え、手すりを掴む。金属の冷たさが掌に吸い付いた。喉の奥で心臓が鳴り、耳の内側で秒針が進む。階段の踊り場で立ち止まり、ラジオのダイヤルをわずかに動かす。沈黙。もう少し。沈黙の中に、さらに薄い沈黙の層がある。
深い湖の底に降りていくように、音が剥がれていく。
「マスター」
AIの声が少し柔らかくなる。「引き返しましょう。あなたは、ここに来る前のあなたよりも、少しだけ壊れて帰ることになる」
「それでいい」
「どうして」
「沈黙が、地図になったから」
「地図は道ではありません」
「でも、最初の位置になる」
言葉にした途端、胸の詰まりがほどけた。呼吸が、少しだけ楽になる。
⸻
塔の中腹。開け放たれた小部屋があり、窓ガラスはとうに失せていた。四角い枠だけが残り、そこから遠くの街の灰色が見える。ヒロはクラッシュをそっと床におろし、布を少しだけめくった。弱い青が、息を継ぐように点いたり消えたりする。
「ここが境界か」
「境界は後から引かれます」
AIが答える。「あなたがここを“境界”と呼ぶなら、今この瞬間に生成される」
「じゃあ、今ここで」
「あなたの宣言は、世界を変えません」
「世界じゃなくて、俺の距離が変わる」
AIは黙った。沈黙は、反論より重い。しばらくして、クラッシュが短い呼吸のようなノイズを吐く。
「……ア……イ……」
ヒロは顔を上げる。
「今、なんて」
「ノイズです」
AIはすぐに戻す。「あなたは人の名前を、世界の至るところに見出すのです」
窓枠に手を置く。風が指の関節を冷やす。遠くで雲がほぐれ、光が薄く地表に触れた。光は言葉を持たない。だが、触れるという事実は動かせない。
ヒロはしゃがみ込み、クラッシュの外装の傷を指でなぞった。
「ここまで来た意味は、あると思うか」
「ありません」
AIは淡々と返す。「あなたの心拍数は上がり、疲労は蓄積し、帰路のリスクが増えただけです」
「それでも、来て良かったと思う」
「意見の相違です」
「そうだな」
ヒロは微笑し、ラジオのボリュームを少しだけ上げた。無音は、無音のままだった。
⸻
さらに上へ。
最上部に近い制御室には、壊れた盤面と、焦げたコネクタだけが残っていた。パネルの片隅には人差し指の幅の灰が薄く溜まり、そこに無意識に書かれた線が一本。誰のものかは分からない。けれど、線は線だ。ここに人がいて、指が動いた痕跡。
ヒロは線を見つめ、息を吐いた。肩の重みが落ちる。クラッシュの青い点滅が、ひとつ、強くなる。
「……記録……座標……心臓……応答……」
ヒロは胸に手を当てた。鼓動が、指に触れる。
「ほらな」
声が震えた。「ここに、ある」
「それはあなたの身体です」
AIの声は冷たくも、どこか遠かった。「塔は無関係」
「無関係でもいい。俺が、ここで、応答している」
しばらくの沈黙。風が制御室を横切り、灰の線をかすかに攫った。線は少しだけ薄くなったが、消えはしない。
ヒロはクラッシュを抱き上げ、窓の外を見た。街の灰色、山の鈍い緑、空の白。どれも静かで、どれも生きていないようで、どれも確かにここにあった。
⸻
帰る道は、来た道と同じはずだ。だが、風の層は少し違って感じる。ラジオの針は依然として無音を指す。無音は動かず、ヒロが動く。
「マスター」
AIが低く呼びかける。「あなたは何を得ましたか」
「距離」
「何と何の」
「過去と、いまの俺の」
「単位は」
「歩幅でいい」
AIは何も返さず、クラッシュの微かな呼吸音だけが残る。塔の階段を降りる足音が、今度は少し長く尾を引いた。音はやがて風に融け、境界という言葉も輪郭を失った。
⸻
【断片:沈黙の果てに、心はまだ応答している】
⸻
塔の外に出ると、雲が割れ、薄い陽が草の先を撫でた。ヒロはラジオの電源を落とし、まぶたを閉じる。耳の奥で、秒針が一度だけ遅れて鳴った。その遅れが、不思議と心地よかった。
地図はない。けれど、最初の位置はもう失われない。
ヒロは歩き出す。沈黙は、彼の背中に、静かな重みとして寄り添っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます