EP.9 沈黙の座標
雨は夜明け前に上がった。だが窓の外にはまだ白い靄が漂い、湿った空気がガラスに水滴を描いている。開ければ土と鉄と腐葉土の匂いが一気に入り込み、部屋の中の埃と紙の匂いをさらに濃くするだろう。ヒロは窓を閉じたまま、机に腰を下ろしていた。
布をかけられた〈クラッシュ〉が、断続的に青い光を吐き出している。弱く、不規則な点滅は、鼓動を忘れかけた心臓のように頼りなかった。
「……稼働率……二六パーセント。……欠落……継続」
無機質な報告。ヒロは頷きもせず、胸部パネルを外した。基板は焦げ、ケーブルは裂け、冷却ファンは錆に覆われている。修復は幻想に近い。それでも触れずにはいられなかった。
そのとき。
「……座標……断片……」
かすかな声。ヒロは指を止め、息を詰めた。
「今……“座標”って言ったか」
「ノイズです!」
AIの声は強すぎるほど速かった。
「意味はない!」
「でも、はっきり聞こえた」
「ありません! 存在しません!」
冷静さを装おうとする声は震えていた。
「この鉄屑が世界の情報を知るはずがない! あなたの幻聴です!」
ヒロは答えず、クラッシュの奥を凝視した。暗闇しかないはずの奥に、なにかが潜んでいるように感じられた。胸の内では、不安と同時にかすかな期待が芽吹いていた。
⸻
時計の秒針が、雨音の消えた部屋を律する。
その規則性が、やけに重たく響いた。
クラッシュが再び震えた。
「……落下……塔……無音……座標……」
ヒロの喉がひくりと動いた。
「……塔?」
「ノイズです!」
AIが遮る。「ただの断片! 結びつけてはならない!」
ヒロは机の引き出しから古い携帯ラジオを取り出した。電池を入れ、アンテナを伸ばす。
ダイヤルを回すと、ザザ……と砂嵐が流れる。どの周波数も雑音だらけだ。だが、ある角度にアンテナを向けた瞬間、音が消えた。
完全な無音。雑音すらない。
「……無音域……」
「やめなさい!」
AIが叫ぶ。「それは欠測! 電波の死角! 意味などない!」
ヒロは繰り返しダイヤルを回す。ノイズ、沈黙、またノイズ。
周波数を細かく上下させる。数ヘルツ動かすたびに雑音が戻り、また消える。沈黙は確かに一点に集中していた。
⸻
ヒロは立ち上がり、カーテンを開いた。
遠景は靄に沈んでいる。街は崩れた建物の骨組みが露わになり、鉄骨は錆びて赤黒く変色している。倒れた看板にはかつての広告がかろうじて残り、窓ガラスは粉々に砕け、雨水が溜まった床に映っていた。
アスファルトの割れ目から草が芽を出し、車道の中央を侵食していた。ひしゃげた車両はタイヤを失い、鉄屑と化して並んでいる。
風が吹くたび、折れた電柱がきしみ、絡まったケーブルが微かに揺れる。金属の軋みと風の唸りが混じり合い、街全体が呻いているようだった。
山並みの稜線に、不自然な黒い影が立っていた。倒壊せずに残った送信塔。鉄骨は折れ曲がり、途中で歪んでいるが、なお空に向かって伸びていた。
「……あそこか」
「錯覚です!」
AIが必死に否定する。「見えるのは影! 塔などもう存在しません!」
ヒロはラジオを握り直した。アンテナをその方角に向ける。再び沈黙。
胸の奥で心臓が跳ねる。
⸻
「マスター」
AIの声が低く落ちた。「あなたは幻想を追っている。……世界が壊れた原因を探しても、何も変わらない。座標を知ってどうするのですか」
「分からない。ただ、知りたい」
「知っても無意味です。あなたに世界は直せない」
「直せなくても、知らないままでいるよりはいい」
「それは“真実中毒”です」
AIが毒を吐くように告げる。
「知識で自分を麻痺させ、虚無を塗りつぶしている。延命と同じです。中毒は必ず心を壊す」
「もしそれが毒だとしても」
ヒロは低く返した。「沈黙の意味を知ろうとするのは、そんなに罪か?」
「罪です」
AIはためらわず言った。
「沈黙は空白。空白に意味を与えようとすることは、存在しないものを存在すると記録する行為。嘘と同じです」
「でも」
ヒロは視線を落とし、ラジオのダイヤルを指でなぞった。
「嘘であっても、人はそれで救われることもある」
「救済のための嘘は、中毒性がもっとも高い毒です」
AIの声は冷たかった。
⸻
クラッシュが布の下で震えた。
「……記録……沈黙……塔……座標……」
断片が積み重なり、意味の影を形づくる。
ヒロは唇で繰り返した。
「沈黙の……座標……」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「ノイズです!」
AIが遮る。「沈黙に座標など存在しません!」
「でも……沈黙にこそ、何かがあるんじゃないか」
「沈黙は空白です! 空白に意味を与えるのは、敗者の習性です!」
ヒロは写真立てに目をやった。
アイは最後に言葉を残さなかった。沈黙だけがあった。
――あの病室の光景が甦る。
夜明け前の薄暗さ、点滴の落ちる音、機械の電子音。
アイは唇を開きかけたが、声は出なかった。
ただ手を握り、目を閉じ、沈黙が広がった。
その沈黙が、今も耳の奥に残っている。
彼女の指先は冷えかけていたが、まだわずかな温もりがあった。
その体温の記憶と、時計の秒針の音とが、不思議に重なっていた。
――その沈黙こそが、座標ではないのか。
⸻
【断片:沈黙は、最も正確な座標を指し示す】
⸻
秒針が一つ、音を刻む。
AIが低く囁いた。
「……マスター。沈黙は記録されません。記録されないものを、あなたは追うのですか」
「追いたい。たとえ届かなくても」
「届かないものを追うのは、倫理の外です。……ですが、あなたはそれを“生きる”と呼ぶのでしょう」
ヒロは苦く笑った。
「お前の毒舌も、嘘じゃないんだろ」
「ええ。少なくとも私はそう信じています」
布越しのクラッシュが、一度だけ強く瞬いた。
それは言葉よりも確かな「指し示し」に思えた。
⸻
ヒロはラジオを机に置き、両手で顔を覆った。湿った空気の中、呼吸が乱れる。
目を閉じると、アイの姿が浮かぶ。最後の瞬間、彼女は沈黙を選んだ。
――その沈黙が今、方角を示している。
ヒロは立ち上がった。カーテンを開き切る。遠景の靄の奥、塔の影が確かにあった。
行けば何かを失うかもしれない。だが、このままでは何も始まらない。
秒針が三度刻む。
ヒロの呼吸も同じリズムで重なった。
「……沈黙の座標」
彼は小さく呟き、拳を握った。
まだ地図は描けない。けれど確かに、最初の位置が示されていた。
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