第三章【椿】
1.
季節は巡り、わたしは、25歳になっていた。
あの日、階段から突き落とされ、母の「愛」という名の鎖に雁字搦めにされてから、一年が経つ。
わたしは、外の世界と、完全に隔絶されていた。
わたしの日常は、ただ、母の望むように、母の言うように、過ぎてゆく。
わたしは、母の愛に溺れ、もがき苦しみ、そして、とうとう、もがくことをやめた。
わたしは、もう、自分自身の意志を、持でない。感情は嫌なほどわたしにまとわりつくのに、それが意志にならない。もう、志などない。
そしてわたしは、もう、自分自身の感情を認めることができない。絶望していても、それを認めたく無くなる。
しかし、そんなわたしの日常に、一つの転機が訪れた。
親戚が、わたしに、仕事を紹介してくれたのだ。
それは、親戚の知人が経営する、輸入家具系の会社だった。
母は、最初、渋っていた。
わたしを、この家から、外の世界に出したくないのだろう。
しかし、親戚の説得に、母は、やがて、承諾する。
「椿が、社会に出ることは、いいことだね。ママも、応援するわよ。」
母は、そう言って、わたしに、優しい笑顔を向けた。
その笑顔の裏に隠された、わたしを縛り付けるための、深い闇に、わたしは、気づかないふりをした。
わたしは、もう、その闇を、見ることができない。認めてしまえば、わたしが壊れる気がした。
母は、わたしを、就職活動のためのスクールに通わせた。
それは、母の「愛」という名の、新たな檻だった。
「椿、一人で就職活動をするのは、大変でしょう?ママが、スクールに通わせてあげるから、安心してね。」
母は、そう言って、わたしを、スクールへと送り出す。
わたしは、そのスクールで、講師に、面接の練習や、自己PRの書き方などを教わることになった。
スクールの教室は、清潔で、明るい。
周りには、わたしと同じくらいの年齢の、若者たちが、たくさんいた。
彼らは、皆、希望に満ちた顔をしていた。
わたしには、その希望が、眩しくて、目を覆いたくなる。わたしは、新しい生活に希望を見いだせない。ただ、親戚に押し流されるまま、気づけばここに来ていた。
わたしは、彼らの中に、自分の居場所を見つけることができない。
わたしは、この教室で、一人、世界の片隅に取り残されたような気持ちになる。
講師は、中年くらいの、小太りの男性だった。
彼は、わたしの履歴書を、手に持っていて、
彼は、わたしの履歴書を、まるで、ゴミでも見るかのように、冷たい目で見ていた。
わたしの履歴書は、空白ばかりだ。
短期大学を卒業してから、五年間の空白期間。
そこには、何の仕事も、何の経験も、書かれていない。仕事はしていたが、どうしても思い出したくなくて、かけていない。もし書けば、会社での経験を聞かれてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
「君は、この空白期間に、何していたの?」
講師の声は、低く、冷たかった。
わたしは、口を開くことができなかった。
「親の介護でもしていたのかい?」
講師は、そう言って、嘲笑った。
わたしは、何も言わずに、ただ、下を向いた。
面接の練習が始まった。
わたしは、講師に、自己PRをするように、言われる。
「あなたの強みは、何ですか?」
講師の声は、わたしを、直接、叩く。
わたしは、言葉に詰まった。
わたしの強み……。
わたしには、そんなもの、何一つない。
わたしは、この5年間、ただ、母の愛という名の、檻の中に、閉じ込められていただけだ。
わたしは、ただ、母の望むように、生きてきただけだ。
「…わたしには…協調性があります。」
わたしは、掠れた声で、そう言った。
講師は、鼻で笑う。笑う。笑う。
「協調性?君のような人間が、協調性があるわけないだろ。」
講師の言葉は、まるで、鋭い刃物のように、わたしの心を、切り刻んだ。
「君は、自分の意見を、何も持っていない。ただ、周りに、流されているだけだ。」
その言葉は、まるで、わたし自身の心の声のように、わたしの耳に響いた。わたしの現実の、核心をついている。それが認めたくなくて、そうでは無いと思いたくて、わたしはただ、目をつぶり、涙を押し込むしかなかった。
一日の授業が終わり、わたしは、一人、教室を出た。
夕方の空は、灰色に染まり、冷たい風が、わたしの頬を撫でる。皆は、早々に友達を作り、何人かで帰っている。彼らは講師に虐められていないから、こんなにしあわせでいられるのだろう。
わたしは、どこに向かえばいいのか、わからなかった。家にゆくしかない。頭ではわかっているのに、それを認めたくなくて、それならどこに行けばいいかと考えていた。
わたしは、このスクールに来週も通い、就職活動を成功させなければならない。
それは、母の望みだ。
わたしは、母の望みを、叶えなければならない。
しかし、わたしは、この就職活動に、何の希望も見出せない。
わたしは、ただ、絶望の中に、取り残されていた。
わたしは、もう、何をすべきか、わからない。
わたしは、もう、自分という存在が、どこにも、ないような気がした。
わたしは、ただ、静かに、一人で、泣いた。
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