7.
母の愛から抜け出したい。
わたしは、そう、心の奥底で叫び続けていた。
一人で生きなければならない。
この歪んだ愛情から、わたしは、自力で、抜け出さなければならない。
そう、わたしは、自分自身に言い聞かせていた。
しかし、現実は、わたしの決意を、嘲笑うかのように、目の前に、立ちはだかっている。
わたしは、退院してからというもの、母の愛に、溺れる一方であった。自分でできていたことも、次第に出来なくなってゆく。
母は、わたしのために、毎朝、手の込んだ朝食を作ってくれる。
温かいスープ。
丁寧に焼かれた卵焼き。
わたしが好きな、全てを、食卓に並べてくれた。
わたしは、その食事を、口に運ぶたびに、胸の奥が、温かくなるのを感じる。
しかし、その温かさの奥には、わたしを縛り付けるための、見えない鎖が、絡みついている。
その食事は、わたしを、この家に閉じ込めるための、餌だ。
わたしは、その餌に、貪欲に、食らいついている。
わたしは愚かで、情けない人間なのだろう。
わたしは、自分自身が、嫌で、嫌で、たまらなかった。
母は、わたしを一人にしない。
わたしが、自分の部屋に引きこもろうとすると、母は、すぐに、わたしの部屋にやってくる。
「椿、ママと一緒に、お茶を飲みましょう。」
母の声は、いつも、優しかった。
わたしは、その優しさを、拒むことができない。
わたしは、母と一緒に、リビングのソファに座り、他愛のない話をする。
その時間は、まるで、温かい、そして、心地よい、夢のようだ。
しかし、わたしは、それが、悪夢だと知っている。
この夢から覚めてしまえば、わたしは、再び、孤独という、冷たい現実に、引き戻される。
わたしは、その孤独に、耐えられない。
毎晩、母が、わたしの部屋に、温かいココアを淹れて持ってきてくれる。
「椿、ぐっすり眠れるように、ママが、お話をしてあげるからね。」
母の声は、まるで、子守唄のように、わたしの心を静かに撫でる。
その言葉は、わたしを安心させるための、言葉だ。
しかし、その言葉の裏には、わたしをこの家から出させないための、深い闇が隠されている。
わたしは、その闇を、知っている。
わたしは、その闇を、恐れている。
しかし、わたしは、その闇から、逃げ出すことができない。
わたしは、もう、もがくことをやめてしまった。
もがけば、もがくほど、泥沼は、わたしを深く、深く、引きずり込む。
もがけば、もがくほど、わたしは、母の愛という名の鎖に、雁字搦めにされる。
わたしは、ただ、その泥沼に、身を委ねるしかなかった。
わたしは、母の愛に、溺れてゆく。
それは、わたしが、自分自身の意思を、完全に失ってゆくことだった。
わたしは、もう、自分の感情を、感じることができない。
わたしは、もう、自分の心を、信じることができない。
わたしは、ただ、母の望むように、母の言うように、生きてゆく。
それが、わたしにとっての、唯一の、生きる道だった。
ある日の午後、友人の芽理から、電話がかかってきた。
その電話は、まるで、凍った湖に、小さな石を投げ入れたように、わたしの心に、波紋を広げた。
わたしは、震える手で、受話器を握りしめた。
それなのにわたしは、その電話に出ることができなかった。
母は、わたしが、友人と話すことを、快く思わない。
母は、わたしを、自分だけのものにしたいのだ。
わたしは、受話器を、静かに置いた。
その時、わたしの心に、深く、深い、絶望が広がった。
わたしは、もう、外の世界と、繋がることができないのだろうか。
わたしは、もう、誰も、信じることができない。
わたしは、この家から、二度と、出られないのだ。
会社を辞めてから、一歩も外に出ていない。通わなければならない、病院での怪我の処置もいけなくなり、わたしの怪我は、元看護師の母が見ることになった。
夜、母は、わたしに、優しく微笑みかけてくれる。
「よかったわね、椿。あなたは、もう、一人じゃない。」
母の声は、勝利を宣言している。
わたしは、母の笑顔を見て、ただ、静かに、泣いた。
それは、悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。
それは、わたしが、母の愛に、完全に、敗北してしまったことへの、絶望の涙だった。
わたしは、母の愛という名の、闇の中に音もなく、気付かぬうちに沈んでゆく。
その闇は、温かくて、心地よくて──。
しかし、そこから、わたしは、二度と、抜け出すことができないきがした。
わたしは、ただ、この闇の中に、静かに、身を委ねるしかない。
わたしは、もう、もがけない。
もがいても、もがいても、無駄なのを知ってしまった。知りたくなかった。
知らなければ、まだ希望をいだけたのに。
ただ、わたしは母の愛にのめり込むしかないのだ。
それが、わたしにとっての、唯一の、救いなのかもしれない。
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