6.

入院生活を終え、わたしは、再び、この家に戻ってきた。

見慣れた天井。

見慣れた部屋。

しかし、何もかもが、以前とは違って見えた。

この部屋の空気は、まるで、わたしを包み込む、温かい繭のようだ。

けれど落ち着かず、必要も無いのに飲み物を過剰に飲んだ。その度息が苦しくなり、意識が遠のく気がする。それでもわたしは、僅かに空く「」が怖くて、2時間にして2リットルを飲み干した。

こんなのでは行けない。そうわかるのに、嫌でもわたしはわたしだった。

温かくて、心地よくてここから抜け出すことができない。

夜が深まり、母は、わたしの部屋を出ていったあとは、静寂が、わたしの部屋を包み込む。

わたしは、ベッドに横たわり、天井を見つめていた。

天井には、小さなシミが、ぼんやりと浮かんでいる。

そのシミが、まるで、わたしの心の闇を、象徴しているかのようだ。

やがてそれは、広がってゆくのだろう。会社を辞める前よりも、確かに大きくなった気がした。

わたしは、目を閉じ、何も見ないように願った。もう、起きたくない。朝が来るのが怖い。

こんなのなら、惜しまれながら逝きたい。


わたしの心は、やけにざわめいていた。

それは、わたしを、深い、深い闇に、引きずり込もうとする、衝動的な感情に感じた。


わたしは、ベッドから、起き上がると足は、音もなく、クローゼットへ向かう。

クローゼットの扉を開けると、そこには、わたしが幼い頃、母とよく遊んだ、人形たちが、静かに、並んでいた。

その人形たちは、わたしに、優しい思い出を、語りかけてくる。

しかし、わたしは、その思い出を、聞きたくなかった。

わたしは、その人形たちを、憎んでいた。


この人形たちは悪くないのに、それはわたしと母の、歪んだ愛情の、象徴だからだ。

わたしは、衝動的に、人形たちを、一つ、また一つと、ビニール袋に詰めてゆく。

人形たちは、何の抵抗もせず、ただ、静かに、ビニール袋の中に、詰め込まれていった。


わたしは、ビニール袋の口を、固く、固く結んだ。

これで、わたしは、この人形たちと、母との、歪んだ関係から、永遠に、解放される。


そう思ったはずだった。

それなのに、わたしが、ビニール袋を、手に持った瞬間、わたしの心に、深い、深い、空虚感が広がった。

この人形たちを捨ててしまえば、わたしは、一人になってしまう。

わたしは、母の愛情という名の、檻から、抜け出してしまう。

わたしは、その孤独に、耐えられない。

早く抜け出し、1人で生きなくては、と思っていたはずなのに、土壇場で情けなく後ずさった。


わたしの手は、無意識に、ビニール袋の固結びを解いていた。解いては行けない。そんなわずかな抵抗も打ち砕かれ──。

わたしは、人形たちを、再び、クローゼットの中に戻し、空になった袋をぶらりとおろしていた。

人形たちは、何も言わずに、ただ、静かに、わたしを、見つめている。

──いやだ……いやだ……見ないで……

見られるのが辛かった。わたしを莫迦にしているみたいで悲しくなる。

わたしは人形たちから、目をそらした。

そして、ベッドに戻り、再び、横たわる。

わたしはなんて無力なのだろう。寝転がると、息が苦しくなった。胴体に何かが乗っているように、重くて、苦しい。

その時、わたしの目に、一つのぬいぐるみが、飛び込んでくる。

それは、母が、わたしの誕生日に、作ってくれた、手作りのぬいぐるみだった。

そのぬいぐるみは、わたしに、母の温かい愛情を、語りかけてくる。

しかし、わたしには、それが、ただの、嘘くさい、温もりにしか感じられなかった。

わたしは、そのぬいぐるみを、捨てることを決意した。

しかし、わたしの手は、そのぬいぐるみを、掴むことができない。

わたしの手は、まるで、ぬいぐるみに、触れることを拒むかのように、震えていた。

わたしは、ぬいぐるみを、ビニール袋に詰めることすら、できなかった。

わたしは、自分自身の、弱さに、深く、深く、打ちのめされた。

わたしは、もう、母の愛情から、逃げ出すことができない。

わたしは、もう、母の支配の檻から、抜け出すことができない。

わたしは、再び、ベッドに横たわり、天井を見つめた。

火事でも起きて、全て焼き尽くしてしまえば、吹っ切れるだろうか。

天井のシミは、まるで、わたしという存在の、無意味さを、示しているかのようだった。

わたしは、もう、自分自身の、意志を、持つことが許されないのだろう。

わたしは、もう、自分自身の、心を、信じることができない。

わたしは、ただ、母の愛に、のめり込んでゆく一方であった。

まるで、深い、深い、泥沼に、足を踏み入れたかのようだ。

一歩進むたびに、わたしの身体は、泥にからめとられ、沈んでゆく。

わたしは、もう、この泥沼から、抜け出すことができないのかもしれない。

わたしは、ただ、母の愛という名の、闇の中に、静かに気付かれずに──。

─沈んで行く。

その闇は、温かくて、心地よくて這い上がるために掴むところもない。

わたしは、もう、何も感じない、人形のように、生きていきたい。

何も感じなければ、何も傷つくことはない。

何も感じなければ、わたしは、この地獄で、生き延びることができる。

わたしは、ただ、目を閉じた。

そして、夢の中であれば、わたしは、母の愛情から、逃げ出すことができる。

夢の中であれば、わたしは、自分自身を、取り戻すことができる。

わたしは、そう願っていた。

わたしの心は、深い、深い、絶望に、支配されていた。

わたしは、もう、この絶望から、抜け出すことができないのだろうか。

わたしは、もう、この自己嫌悪という名の、呪いから、解放されることはないのだろうか。


誰の助けも、求めない。

誰の温もりも、求めない。


そうすることが、わたしにはできない。

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