5.

涙はとめどなく溢れ出るのに、止めようと思えばすっと止まる。しかし、悲しみが途切れるわけではなく、空虚感が広がる。

この空虚感は、まるで、わたしの心の奥底に開いた、大きな穴のようだった。

何をしても、何を見ても、何を話しても、その穴は、埋まることがない。

わたしは、この穴を埋めるために、必死に、何かにしがみつこうとした。

しかし、しがみつこうとすればするほど、わたしの手から、全てが滑り落ちてゆく。

会社での出来事、上司からのことばの暴力。

わたしは、あの出来事から、もう、誰にも頼りたくない、と心に決めていた。

誰も、わたしを救ってはくれない。

誰も、わたしを、理解してはくれない。

誰も、わたしを、助けてはくれない。

わたしは、一人で、生きてゆくことを、選ばなければならない。

そう、固く決意していたはずだった。

しかし、わたしが気づけば、わたしは、母に依存していた。

病院のベッドの上で、母が、毎日、わたしのそばにいてくれる。

母が、わたしの手を握り、優しく話しかけてくれる。

その温かさが、わたしを、深い、深い闇から、引き上げてくれるような気がした。

わたしは、母の言葉を、まるで、飢えた子供が、食べ物を求めるように、貪欲に求めていた。

「椿、ママがずっとそばにいるからね。」

「もう、一人で頑張らなくていいのよ。」

母の言葉は、まるで、わたしを包み込む、温かい毛布のようだった。

わたしは、その温かさに、甘えていた。

わたしは、もう、一人で、何もかも背負わなくてもいいのだと、心の奥底で、安堵していた。

しかし、わたしが、母の言葉に安堵するたびに、わたしの心は、深く、深く、えぐられてゆく。

自己嫌悪。

わたしは、自分自身が、嫌で、嫌で、たまらなかった。

わたしは、もう、誰にも頼らないと、決めたはずだったのに。

わたしは、また、母という、偽りの愛情に、しがみついている。

わたしは、また、母という、支配の檻の中に、自ら、戻ってきている。

わたしは、なんて、弱くて、情けない人間なのだろう。

わたしは、自分自身を、許すことができなかった。

母の優しい笑顔を見るたびに、胸の奥が、ひりひりと痛む。

母の笑顔は、わたしを縛り付けるための、鎖だ。

わたしは、その鎖を、自分から、受け入れている。むしろ、しがみついている。けれどこの均衡は、いつか必ず崩れさる。その前に全部自分で抱え込むようにならないと、わたしはその時──。その先は、考えるのも怖かった。

わたしは、自分から、母の支配の檻の中に、閉じ込められている。

「大丈夫だよ、椿。何も心配しなくていいからね。」

母の声は、まるで、子守唄のように、わたしの心を静かに撫で続けた。

その言葉は、わたしを安心させるためのものなのに、言葉の裏には、わたしをこの家から出させないための、深い闇が、隠されている。

わたしは、その闇を、知っている。

わたしは、その闇を、恐れている。

しかし、わたしは、その闇から、逃げ出すことができない。

わたしは、もう、一人で生きてゆく力が、残っていない。

わたしは、母に、依存しなければ、生きていけない。

「ママ……」


わたしは、そう言って、母の手を握りしめた。

その時、わたしは、自分自身が、壊れてゆくのを感じた。

わたしは、自分自身を、見捨てようとしている。

わたしは、自分自身を、母という闇に、売り渡そうとしている。

わたしは、もう、自分自身の、心の声を聞くことができない。

わたしは、母の言葉と、母の望むことを、自分の望みだと、思い込もうとしている。

わたしは、もう、自分という存在が、どこにも、ないような気がした。

わたしは、病院のベッドの上で、ただ、静かに、泣いていた。

それは、悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。

それは、わたしが、自分自身を、見失ってしまったことへの、絶望の涙だった。

わたしは、もう、どうすればいいのか、わからない。

わたしに、自分自身を、取り戻すことができる力は残っているのだろうか。

わたしはこの闇から、抜け出すことができるのだろうか。

夜が深まり、母が病室を出ていった後も、わたしは、ただ、一人、泣き続けていた。

窓の外は今日も暗く塗りつぶされていた。

わたしは、その闇の中で、静かに、自分自身を、憎み続けた。

わたしという存在は、なんて、弱くて、醜いのだろう。

わたしという存在はどうしてこんなに無価値なのだろう。

わたしは、自分自身に、そう、罵声を浴びせ続けた。

その罵声は、まるで、母の罵声のように、わたしの心を、切り刻んだ。

わたしは、もう、自分自身の声を受け止められない。

わたしは、もう、自分自身の感情を感じることができないのだろうか。

わたしは、ただ、空虚な存在として、生きてゆくしかないのだろうか。

わたしがこの地獄から、解放されることはあるのだろうか。

わたしは、この自己嫌悪という名の、呪いから、解放されることはないのかもしれない。

わたしは、ただ、静かに母の抱えるの闇の中に、沈んでゆく。

誰の助けも、求めない。

誰の温もりも、求めない。

それが、怖い。


わたしが母の抱える闇の底に着いたとき、わたしという存在は母のように変わってしまうのだろう。


嫌だ。嫌だ。怖い。

誰かにすがりつきたくて、たまらなくなった。

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