2.

夜の帳が降り、家の中は、深い静寂に包まれていた。息を吸う度に、肺がヒリヒリと痛む。お腹が痛いのが、何ヶ月続いただろうか。

もう、腹痛もにちじょうのいちぶだった。

わたしは、自分の部屋のベッドに横たわり、天井を見つめていた。昼間、母がわたしにかけてくれた優しい言葉の数々が、まるで、美しい花束のように、わたしの心の周りを飾っている。しかし、わたしは知っている。その花束が、わたしを縛り付けるための、偽りの鎖であることを。わたしは、もう、その鎖から、逃れようと、もがくことすら、しなくなっている。逃げようとすれば、逃げられずに絶望するだけだ。これ以上傷つきたくない。もう、傷つくのが怖い。

ベッドの横に置かれた、母が作ってくれたぬいぐるみが、わたしを、じっと見つめている。そのぬいぐるみの優しい表情は、わたしを安心させる。しかし、その安心は、わたしを、母の愛という名の檻の中に、深く、深く、閉じ込めてゆくための罠だ。わたしは、この檻の中で、静かに、朽ちてゆくしかないのだろうか。朽ちてゆけばいいが、死んでも母の愛に縛られるという未来が見えるようである。

深夜、不意に、リビングから、母の声が、微かに聞こえてきた。電話の声だ。母は、いつも、夜になると、誰かと、楽しそうに、話をしている。わたしは、その声を聞くたびに、胸の奥が、ひりひりと熱くなるのを感じる。それは、わたしが、知らない、母の一面を、垣間見るような気がするからだ。知ってしまうのが怖い。知ってしまえば、わたしは……。もう、自分を保てなくなる。母の裏の顔は、予想が着いてしまう。きっと、わたしを馬鹿にしている気がする。

わたしは、ベッドから起き上がり、音を立てないように、廊下に出た。リビングの扉は、少しだけ開いていた。そこから、母の声が、はっきりと、聞こえてくる。

「そうなのよ、うちの椿、本当に困ったもんでね。」

母の声は、いつもの、わたしに向ける優しい声とは、違っていた。それは、わたしに父への文句を言っていた頃の、あの、冷たくて、見下すような声だった。わたしの心臓が、冷たい氷に変質するように、凍りついてゆく。

「もう25にもなって、仕事も続かないし、引きこもりだし、本当にどうしようかと思って。親戚の紹介で、やっと就職できるかと思ったら、今度は、スクールの先生にまで、馬鹿にされてるみたいでね。」

母の声は、まるで、わたしのことを、母では無い見知らぬ他人のように、嘲笑っていた。わたしは、身体が、震えるのを、止めることができなくなる。

「心配で心配で、毎日、つきっきりでいるんだけど、この子、全然、自立しようとしないのよ。本当に、私だけ、苦労してるんだから。」

母の声は、まるで、わたしを、足手まといのように、扱っていた。わたしが、これまで、母の望むように、母の言うように、生きてきた、その全ての努力が、無意味だったかのように、感じられた。わたしの心に、深く、深い、絶望が広がってゆく。

心配という言葉も、わたしが幸せになって欲しいからではなく、早く自立して、母の文句を聞くだけの人になって欲しいからなのだ。人が聞けば、母が正しくて、わたしは間違っているのだろう。けれど、数年前の母の様子を嫌なほど知っているわたしからすれば、母の真意は分かっていた。

「あの子、昔から、本当に手がかかる子だったから。私が、全部、してあげないと、何もできないのよ。ほんとに最低。わたしの文句だけ聞いてりゃいいの」

母の声は平坦でありながら、わたしの悪口を、平然と言っている。母は、わたしを、無力で、手のかかる存在だと、誰かに、話していた。母は、わたしを、支配するための、正当な理由を、見つけていたのだ。わたしは、母の愛に、溺れているのではない。わたしは、母の愛という名の、闇の中に、引きずり込まれているのだ。そう、わたしが完全に悪い訳では無い。けれど、わたしが悪い部分もあり、母を責められない。わたしが全て悪い、解決しようと思えば、わたし一人が悪いから、出来る。そう思うことで、少しは楽になった気がした。けれど、それは絶望と隣り合わせだ。母の罪を、わたしが被らなければいけない。

わたしは、その場に、立ち尽くしたまま、母の言葉を、ただ、静かに聞いていた。母の声は、まるで、わたしを縛り付ける鎖のように、わたしの心を、雁字搦めにしてゆく。わたしは、その鎖から、逃げ出すことができない。わたしは、もう、何をすべきか、わからない。わたしは、もう、自分という存在が、どこにも、ないような気がした。

わたしは、ただ、その場に、崩れ落ちた。

わたしの頬を、冷たいものが、流れてゆく。それは、涙だった。わたしは、まだ、泣くことができる。それが煩わしくて、もう何も感じたくないと思った。悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。それは、わたしが、母の愛に、完全に、敗北してしまったことへの、絶望の涙だった。わたしは、もう、もがくことをやめた。もがいても、もがいても、無駄なのだから。わたしは、ただ、静かに、沈んでゆく。それが、わたしにとっての、唯一の、救いなのだから。

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