3.
夜の闇が深まり、冷たい空気の粒が窓ガラスを叩く。その音は、まるでわたしの心臓の鼓動のように響いた。リビングの時計の針が、重く、鈍い音を立てて時を刻んでいる。
向かいに座る母の顔は、蛍光灯の光に照らされ、普段より生気がないように見えた。母の頬には、疲労と、言葉にできない何かの影が落ちている。
わたしは何度も言葉を飲み込んでは、また飲み込んだ。
夏からずっと、このことについて話そうと思っていた。何度か機会はあったが、母の不機嫌な顔を見るたびに、言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
しかし、もうこれ以上、この思いを胸の奥にしまい込んでおくことはできない。
遅れて言えば、また父の文句を聞かされるだろう。毎晩だけで壊れかけていたわたしに、それは出来ない。
わたしは、手に持っていた湯呑みをテーブルに置き、掠れた声で言った。
「あのね、お母さん。わたし、春から、一人暮らしをしようと思うんだ。」
湯呑みから立ち上る湯気が、わたしの言葉を吸い込んで、ぼんやりと空気に溶けてゆく。
母は、わたしを言葉もなしに見つめた。
彼女の眼差しは、底なしの井戸のように深い。わたしには、そこにどんな感情が渦巻いているのか、読み取ることができない。
これから、怒られるのか。
話題を、父のことにそらされるのか。
わたしには分からない。
「…どうして?」
母の声は、普段よりずっと低く、掠れていた。
風が古い木の葉を揺らすような、細い音で、わたしに問うている。
「わたし…自分の力で生きてみたいんだ。もう十八歳だし…」
言葉を続けるうちに、わたしは自分でも信じられないほど、声が震えていることに気づいた。
母に逆らうことは、何よりもわたしにとって恐怖なのだ。
「このままじゃだめだって思うの。」
わたしは、なんとか言葉を絞り出した。それは、自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。
もうこれ以上、この家で、あの幻聴に、何より母の文句に、耐えるのは無理だ。
そう、わたしは心の中で叫んでいた。
しばらくして、母の口元が、僅かに歪んだ。
それは、微笑みでも、怒りでもない、不可解な表情だ。
「…ああ、そう。椿も、もう大人だもんね。」
母は、そう言って小さく頷いた。わたしは、一瞬、胸をなでおろした。もしかしたら、理解してくれるかもしれない。そう、淡い希望を抱いた。
しかし、次の瞬間、母の顔から感情が消えてゆく。
「…だけど、考えてみて、椿。私が辛い時、私は誰に話せばいいの?」
氷でできた刃物のように、母の言葉がわたしの胸を突き刺した。母の表情は、無感情のまま、その声だけが、わたしの心臓に深く突き刺さる。
これ以上、言葉を出すことが出来ない。
「あんたは、自分勝手だって言うでしょ?私だって、誰かに話を聞いてほしいのに…」
母は、足音を立てながらわたしに近づいてくる。その足音は、闇の中に響く得体の知れない足音のように、わたしを追いつめてゆく。
「椿が、いなくなったら、わたしは一人になるのよ。誰もいないこの家で、一人で過ごさなきゃいけないんだよ。一人で苦しまなきゃいけないのよ。」
母の声が、わたしを捲したてるように近づきながら追い詰めてくる。声も段々と大きくなる気がした。
「…でも、ママだって、わたしがいないほうが、楽なんじゃ…」
わたしが、掠れた声でそう言うと、母は突然、声を荒げた。
「どうしてそんなこと言うの!わたしは、椿のこと、心から愛してるのよ!」
その声は、いつもの罵声とは違って、わたしを包み込むように響いた。しかし、その言葉の裏には、わたしを縛り付ける鎖のような重さがあるのを知っている。
「わたしが辛い時、わたしを支えてくれるのは椿しかいないのに…」
母の顔が、僅かに歪む。その表情は、自分が世界で一番不幸な人間だと言っているようだ。
「ねぇ、椿。わたしに、一人で耐えろっていうの?」
その言葉に、わたしは何も言い返すことができなかった。
母は、わたしの肩に手を置いた。その手は、冷たく、重く、まるで石のようだ。父がいた頃のような温かさの欠けらも無い。
「椿が、そばにいてくれれば、私は、もっと強くなれる。あなたの笑顔があれば、私は、もっと頑張れるのに…」
母の声は、まるで不協和音が隠されたメロディーのように、わたしの心を不気味に、優しく撫でる。だが、母の奏でるメロディーは、わたしを縛る糸を紡いでいるように感じられるのは変わらない。
「…そんなに、わたしのこと、嫌いになったの?」
母の言葉が、再びわたしに突き刺さる。
わたしを試している。
もし、嫌いだと言ったら────。
もし、正直に父の文句を言われたくないと言えば────。
「…違うよ。」
わたしは、震える声で答えた。正直に答えることは出来なかった。
「じゃあ、私を一人にしないで。私を捨てないで。」
母の声は、弱々しく、どこまでも執拗だった。
わたしは、母の言葉を聞くと、毒を飲まされたような感覚がした。この言葉に、わたしは逆らうことができない。逆らえば、もっとひどい言葉が返ってくる。わたしは、母を傷つけ、自分が傷つけられることを恐れた。
「…うん…。」
わたしは、小さく頷いた。
その瞬間、母の顔が、一瞬だけ、安堵の表情を見せたように感じられた。
「椿。やっぱり、あなたは、私のことを一番に考えてくれるのね。」
母は、わたしを優しく抱きしめた。その温かさは、わたしを溶かすように感じられた。しかし、その温かさの奥には、わたしを雁字搦めにする、見えない鎖が絡みついている。
「お母さん、もう、一人じゃないからね。」
母の声は、勝利を宣言している。
わたしは、母の腕の中で、ただ静かに泣いた。それは、悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。ただ、わたし自身の意志が、また一つ、削り取られてゆくのを感じて、止めどなく流れる涙だった。
窓の外では、月が曇り空に隠れて、家の中は、また、闇と絶望に包まれていった。
わたしは、この家から、二度と出られないのかもしれない。そんな予感に、わたしは、ただただ震えることしかできなかった。
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