2.
湿り気を帯びた空気は、わたしの皮膚に張り付き、夏の終わりの重苦しい雲のように心に影を落とす。夜が来るたび、母の父への文句と、わたしの絶望と沈黙に満ちた劇場に変わる。
思い返せば、最初は、ただの不満の言葉だった。父の不在を嘆き、自分だけの不幸を語る声。わたしはただ、頷くことしかできなかった。
だが、わたしの中にあったのは母の心が少しでも軽くなるようにという、自分なりの祈りだった。
しかし、祈りは届かなかった。言葉の刃は、日を追うごとに鋭さを増してゆく。
「椿は何も分かっていない」
「何もできない」
「あんたがいたら、私は休まらない」
その言葉の数々が、呪いのように、わたしの内側を蝕んでゆく。
最初は、ただの言葉だと割り切ろうとした。けれど、耳から入った音は、音もなくわたしの心に根を張ってゆき、わたしが限界だと叫んでからは、さらに悪化の一途をたどった。
夜の帳が降りると、母の言葉の洪水が始まる。まるで激しい雨のように、音を立てて降り注ぎ、わたしの心を浸食してゆく。
もう逃げ出したい。
耐えられない。
消えたい。
そのような願いすら虚しく、やがて、その言葉は、昼間の光の中でも、突然わたしを襲うようになった。
スーパーの通路で、見知らぬ人の話し声が、母の罵声に聞こえるのだ。
友人の騒ぐ声が、母の罵声と重なる。
「どうして、あんたはそんなにのろいの!」
風の音が、わたしを責める声に聞こえる。
「私の気持ちも知らないで、勝手に生きている」
「居なくなれば?私はあんたが必要ない」
わたしを傷つける言葉の数々が、あちらこちらから響く。
だが、振り返っても、そこに母の姿はない。ただ、風がざわめき、人々の声が聞こえるだけだ。それでも、その幻聴はわたしを追い詰めてゆく。
「あんたなんかいなければよかった」
その言葉が聞こえた時、わたしは自分の足が地面から離れてゆくような感覚に襲われた。身体は動くのに、まるで魂だけが、宙に浮いているような、おぼろげな感覚だ。
そして、眠りにつくと、幻聴はさらに形を変えてわたしを苦しめる。夢の中のわたしは、いつも深い霧の中に立っている。足元はぬかるみ、一歩進むたびに靴が泥に沈む。遠くから、母の声が聞こえてくる。
「あんたのせいで、こんなことになったんだ」
「あんたなんか頼りにならない。私は一人ぼっちで生きていきゃいいんでしょ?」
「あんたが苦しめ」
わたしが1番傷ついた言葉達が、再びわたしに突き刺さる。
声は、時折、父の声に変わった。
「お前が、俺を呪ったのか?」
わたしは必死に逃げようとするが、足は泥にからめとられ、思うように動けない。声はわたしを追いかけ、わたしは逃げ場を失ってらゆく。そして、夢の終わりにはいつも、冷たい水の中に沈んでゆく感覚がわたしを包む。息ができず、わたしは叫び声をあげて目を覚ました。
目が覚めると、枕は湿り、心臓は激しく音を立てている。窓の外はまだ暗く、夜明けは遠い。幻聴は、夢から覚めても消えない。
まるで、わたしの心に深く根を張った苔のように、どこまでも張り付いている。
いつしかわたしが十八歳になると、幻聴はさらに巧妙になっていた。
母や父の声だけではなくなっていた。
「お前は、このまま消えてしまえばいい」
「あんたは、一人で生きていけるわけない」
それは、道行く人々の囁き声、テレビから流れる雑踏の音、鳥のさえずりまで、あらゆる音の中に紛れ込んで、わたしを責め立てる。わたしは、誰も信じられなくなった。
誰かがわたしに話しかけても、その裏で幻聴が聞こえてしまう。
「どうしたの?」と優しい声で聞かれても、わたしには母の声で「どうして、そんなに暗いの?」と言われたように聞こえてしまう。
わたしは、人と話すのが怖くなった。自分の心が壊れてゆくのを、はっきりと感じた。
心の奥底に、黒い穴が開いている。そこから、母の言葉の幻聴が、まるで毒ガスのように湧き上がってくる。
鏡に映るわたしは、疲れ切った顔をしていた る。目の下の隈は深く、生気のない顔だ。
「お前は醜い。誰にも愛されない」
鏡の中のわたしが、母の声で囁いた。わたしは悲鳴をあげそうになり、慌てて鏡を布で覆った。
母がわたしを言葉で呪っているとは、信じたくなかった。ただ、自分の心が弱く、脆く、壊れてしまったのだと思っている。いや、そう思いたい。
「わたしが悪いんだ。わたしが、お母さんを苦しめているんだ」
そう思うことでしか、自分を保てなかった。
しかし、わたしがどれだけ謝罪しても、母の言葉は止まらない。わたしの心は、次第に何一つ喜びを感じられなくなってゆく。
感情の揺れが、まるで遠い国の出来事のように、わたしから離れてゆく。
楽しいことも、嬉しいことも、何一つ感じることができない。
ただ、幻聴だけが、わたしの中に残り、わたしを静かに殺してゆき、感情の振り子は、絶望にふれたまま、止まってしまった。もう、喜びにゆらぐことすらなくなってしまった。
わたしは、一体いつまでこの痛みに耐えればよいのだろう。
いつか、何もかもが壊れて、わたしという存在が消えてしまえば良いと、そう願うようになった。
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