4.

約一年前、母がわたしを抱きしめた日から、わたしの心は、また一つ、深く沈んでいった。

この家から出られない。そんな見えない鎖が、わたしの足首に巻き付いているのを感じた。


それは、母の愛情という名の鎖だ。


優しい言葉と、熱い抱擁の裏に隠された、身動きの取れない錘を感じる。

わたしは、日々の生活の中で、自分の感情がどんどん薄れてゆくのを感じていた。


まるで、色褪せた写真のように。楽しいことも、嬉しいことも、何一つ感じることができなくなった。ただ、母の言葉とその幻聴だけが、わたしの心を占めていた。

季節は巡り、木々の葉が、夏の濃い緑から、赤や黄色に変わってゆく。

わたしは、窓の外をぼんやりと眺めていた。道行く人々は、それぞれに物語を抱えて歩いている。

賑やかな笑い声。

楽しそうな会話。

わたしには、それが遠い国の音のように聞こえた。


夜、母が珍しく穏やかな顔で、わたしに話しかけてきた。

「ねぇ、椿。わたし、あなたのこと、ちゃんと見てるわよ。」


その言葉に、わたしは、一瞬だけ胸が温かくなったような気がした。


「……お母さん。」

「私ね、椿がね、もうすぐ二十歳になるんだって思うと、なんだか、寂しいような、嬉しいような…複雑な気持ちなの。」

母の声は、いつになく優しく、どこか悲しげだった。わたしは、何も言わずに、ただ頷く

「でも、大丈夫。私が、ずっとそばにいるから。椿が一人にならないように、ずっと、ずっとそばにいてあげるから。」

その言葉は、わたしを安心させるための言葉だと、わたしは信じようとした。しかし、わたしの心は、震えていた。その言葉が、わたしをこの家に縛り付けるための呪いのように聞こえたからだ。

いや、実際そうなのだろう。

母は、一人で父への怒りを抱えられない。

わたしがいなくては行けないのだ。

母が寝室に行ってから、わたしは自分の部屋に戻った。真っ暗な部屋に、月の光が差し込んでいる。窓から見える月は、まるでわたしの心のように、ぼんやりと霞んでいた。

わたしは、ベッドに横たわり、天井を見つめる。天井には、小さなシミがぼんやりと浮かんでいる。そのシミが、わたしがこの家から出られないことの象徴のように思えた。

徐々に広がり、わたしを包み込んでしまうような気がする。

夜が深まるにつれ、幻聴が始まった。

「あんたは、このまま、この家から出られない。あんたは、一人で生きていけるわけない。」

母の声だ。

しかし、幻聴は、それだけでは終わらない。

「お前は、お母さんを苦しめている。お前が、母さんを不幸にしているんだ。」


今度は、父の声が聞こえる。

わたしは、頭を抱えた。どうして、こんなにも苦しいのだろう。わたしは、一体、何をしたのだろう。

涙が、とめどなく溢れてきた。

わたしは、何も感じられなくなったと思っていたのに、涙だけは、まだ流れることができた。それは、わたしの心の奥底に、まだ何かが残っていることの証拠なのかもしれない。

だが、それは喜びにならない。

何かを感じられるというのは、悲しんだり、辛い思いをしなければならないということなのだ。

わたしは、震える手で、何かを思ってベッドサイドの引き出しを開けた。


中には、古い日記帳が入っている。

それは、わたしがまだ幼い頃、母と父が、まだ仲が良かった頃に書いていたものだ。十五年ほど触っていない。

ページを捲る。


そこには、幸せな思い出がたくさん詰まっていた。

家族で遠足に行ったこと。

母が作ってくれたお弁当のこと。

父がわたしを肩車してくれたこと。


「わたし、パパとママのことが大好き!」


そこに書かれていた、わたし自身の幼い文字が、わたしを深く突き刺した。あの頃のわたしは、本当に幸せだった。何の疑いもなく、母と父を愛していた。

しかし、今はどうだろう。わたしは、母の言葉を信じることができなくなってしまった。父の幻聴に怯えている。

日記帳の最後のページに、わたしは、震える手で文字を書き込んだ。

「私は、もう、どうすればいいのかわからない。私は、この家から出られるのだろうか。私は、この呪いから解放されるのだろうか。」

その文字は、わたし自身の心の叫びを体現したように歪み切っていた。

夜は、さらに深く、暗くなった。わたしは、日記帳を閉じて、ベッドに身を沈める。

もう、明日は来ないでほしい。そう願った。

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