16. お帰りなさい。旦那様。元奥様
……自慢できるようなところ、あったかしらね?
「私たち、もっと色々話せば良かったね」
彼は、私に言えなかったたくさんの想いを抱えていたのだろう。
合意だったけど、貴族の令嬢を連れだした責任感も重くのしかかっていただろうし。
結婚後も、お互いに会話する時間もそれほどあったわけじゃない。
忙しいというのは、お互いに、そして自分自身に言い訳をするのに最適な言葉なんだわ。
ヴァルディスが、私の手をぎゅっと握ってくる。
「過去形はやめよう」
「うん」
帰りはどちらともなく寄り添って歩いた。
デルバン川は黒い水面に、崩れた月の姿を映している。川沿いの通りは、大声をあげる酔っぱらいや陽気な人で溢れていて、ぶつかりそうになるたびにヴァルディスは肩を回して抱き寄せる。
微笑みながら顔を上げると、ヴァルディスも熱をこめて見返してきた。
思い出した。彼のそばは、こんなに居心地が良かったんだ。
繰り返した時間、離れてしまったのは悪いことじゃなかったんだわ。だって、付き合い始めた頃の気持ちをもう一度味わえたんだしね。
遠くからヴァルディスを呼ぶ声がした。
「え、ヴァルディスさん!?」
工房の仲間だろうか、驚いた顔の男たちが近づいてくる。
「スーツかよ!? えらく決まってるじゃねえか。男前になったなおい」
肩やら背中やら叩かれながら、ヴァルディスは困ったように微笑む。
私は少し退がったところで、微笑ましく見ていた。
図らずも、私が彼を自慢する形になってしまったわね。
「師匠! なんですか、その格好〜感謝祭の予行ですか!?」
「ばか。仮装じゃないぞ」
グラマラスな体を作業着で包んだステファニーが、嬉しそうにヴァルディスの背中を何度も叩いている。一つに結んだ赤い髪がぶんぶん揺れていた。
……ふぅん、やっぱり仲は良さそうね。ていうか、ステファニー、恋する乙女丸出しで、なんだか見ていられない。
彼女は覚えていないだろうけど、私にとって修復技術を教えてもらった師匠でもある。相手が自分の夫どうこうではなく、彼女のそんな顔はあまり見たくない私がいる。
「で、どうしたんです。商談ですか?」
「いや、今日は奥さん連れてたんだ」
ヴァルディスがやや照れた顔で私の方を振り返る。私は少し腰を屈めて挨拶をした。
「いつもヴァルディスがお世話になってます」
男たちは一瞬息をのみ、やがてへらっと笑いながら頭を下げた。ヴァルディスは再び背中を叩き始められる。先ほどよりも強い音をたてて。
「こいつ、こんなお姫さん、どこで捕まえた!?」「犯罪でしょう、これ!」「もっと早く紹介しろよ」
「奥さん……?」
呆然とした顔のステファニーが、そこにいた。
「ステファニーさん、お久しぶり」
私は、彼の腕との仲を見せつけるような下品な真似はしない。
「いつぞやはあなたに『おばさま』なんて呼ばれましたけど。今日は私、少し顔色がいいの。どうかしら?」
存分に艶然と微笑んで見せる。
やっぱり、少しは皮肉を言って自慢したくなってしまったわ。
見て。この21日の休暇で獲得した血色のいい肌を。この艶のある琥珀色の髪を。
男たちは強張った顔のステファニーと私を見比べて、ににやにやと肘で叩き始めた。
「おい、ステファニー。この奥さんにおばさんなんて言ったんか?」
「はいはい、そういうことね。無理だよお前。無理無理無理。ぷくく」
「うっさい。クソジジイ!」
吐き捨てたステファニーと、一瞬目が合った。
「……?」
彼女の目が揺れて、言葉にできない何かが滲む。何か気づいたように見開いた。
剣呑な光が消え、少し柔らかな光が宿り始めた。
私ははっとなった。
ノインが、私と過ごして培った感情を、彼女に残してくれたんだ。
……そう、私たちが過ごした師弟関係の時間は、あなたにとってもそんなに悪いものじゃなかったのね?
「お邪魔しました! では!」
困ったように眉を下げ、彼女は勢いよく腰を折る。
可愛くて、一生懸命な人だったな。
遠くになっても手を振っていて、温かい気持ちが胸に広がった。私も思い切り振り返す。
やがて完全に姿が見えなくなった後、口からぽつりと溢れでる。
「私が死んだら、あなたは再婚するのかな」
彼から答えが返ってくることはなかった。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。私はほっと胸を撫で下ろす。
*
屋台の喧騒から一歩踏み出すと、馬車の前でノインが静かに立っていた。
空気がひやりと頬をなでる。月光に照らされたあてどもなく彷徨う瞳が私を捉えた。
その完璧な立ち姿。彼の周りだけ別世界のようだ。心臓が掴まれたようにぎゅっと引き締まる。
「お帰りなさい。旦那様。元奥様」
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