4. 旦那様には内緒ですよ
寝る前に、ヴァルディスのことなんか思い出したからかもしれない。
その日に見た夢は、彼への恋心を自覚した日の夢だった。
十五歳の時、私が壊してしまった父の精霊家具を直してくれたのは、若き日の彼。
二十歳にして腕を買われたヴァルディスは、うちの専門修復師として定期的に訪れていた。
魔法のように働く彼の指から目が離せなかった。
視線には繊細さが宿っていて、時折走らせる目は鋭くて。
彼の指が家具に触れると、ひとつひとつ欠けたところが息を取り戻すかのようだった。
煤のついた髪を手の甲で拭いながら、ヴァルディスは惚けている私を見てにっと笑った。
『旦那様には内緒ですよ』
秘密にして欲しいのは私の方なのに。
ぎゅっと締まった胸の痛みは、今でも忘れられない。
目が醒めても、まだ夢が続いている気がした。
* * *
「離婚してくれ。リディア」
もう何十回も聞いたそのセリフに安堵を覚える。
緩みそうになる頬をおさえた。
良かった。今日もあのベッドで休めるんだ。
いつもの馬車から降ろされ、去ったのを確かめた後、思い切り腕を伸ばす。
勢いよく噴きだす噴水の音。戯れる二匹の小鳥。
「元奥様、顔色が良くなりましたね」
水飛沫を背に、ダークスーツをきっちりと着こなしたノイン。片手を胸に、片手を腰に、いつもと同じ角度でお辞儀をする。
「そう?」
琥珀色の髪は艶やか、肌の調子は素晴らしく――はないけれど、少なくとも年相応の顔にはなった。
それだけでも、十分嬉しい。
「さて、行きましょう。今回はどの宿殿に泊まりますか?」
「前回と同じところにしようと思うの」
色々な宿殿を試してみたけれど、土と水と風の混合精霊ベッドが一番素敵だった。
横になると、青い山々に囲まれた孔雀色の湖のイメージが広がるのだ。
たゆたう湖の上で、好きなだけ寝転がっている気分になれた。
「参りましょう」
長身で姿勢のいいノインが、トランクを片手に堂々と歩く姿は一目をひく。
特にご婦人方の。
その後ろを歩くのは少し誇らしかった。
「いつもありがとう。今日は一時間経ったら起こしてくれる? 美味しいものを食べに行きましょう。ノイン、食べたいもの考えておいてね」
振り返ったノインが、無言で一歩前へ出た。
え……なに?
すぐ後ろで、低いうめき声。
思わず振り返ると、見知らぬ男がノインに胸ぐらを掴まれていた。
いつの間にか忍び寄っていたらしい。舌打ちを残して、男は人混みに消えていく。
「スリでしょうか。次回、この道は気をつけましょう」
「え、ええ、そうね。ありがとう」
激しく脈打つ胸を抑えながら、耳に髪をかけた。まだ指先が震えている。
おかしいわ。胸の高鳴りが止まらない。
何の震えなの、これは。
「ああ、あと、精霊はものを食べませんので。あなたが食べたいものを、どうぞ夢の中で考えておいてください」
* * *
ごとごとと車輪が石畳を噛む音だけが響く、いつもの馬車の中。向かいに座る夫との間とは重い沈黙。
その沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。
「どうした」
どうした、とは?
「……笑っていたな」
「え、うそでしょ。やだ」
思わず自分の口元に手をやる。
ここ数日、ふかふかのベッドで眠っていたせいかしらね。今日も眠れると思うと自然と口が……気をつけよう。
「顔色もいい」
淡々と放つヴァルディスに、私はむっと口を尖らせた。
でも不思議と、以前のような胸の痛みがない。
なんだか彼が、遠くに感じる。今ならすんなり別れてもいい気がするわ。
「嫌ですか? 離婚を言い渡した女が元気そうだと」
少しだけ、意地悪く言ってみた。軽い意趣返しのつもりで。
ところがヴァルディスは、まるで殴られたかのように目を見開いた。
「え……?」
ダークグレーの瞳が揺れる。何か言いたそうに口を開くが、言葉にならない息を漏らすだけ。
……なんなの、この空気。
彼は唇を数度空振りさせた後、全てを諦めたように、ぎゅっと引き結んだ。
全てを切り捨てるように、窓の外に視線を投げつける。
その横顔は痛々しくて、とても話しかける勇気がでない。
一瞬、苦しそうに歪んだ気がしたのは、気のせいだったのかしら。
* * *
朝に目を覚ます度に、体調が良くなっているのを感じる。
それと同時に、ノインの視線が気になるようになってきた。
回を重ねる度に強くなる彼の目の光を、私はただ犯罪者を警戒してのことだと思い込んでいた。
「このお店にしましょう」
サジオ、と青いペンキで走り書きした看板のお店。
睡眠の次は食事よね。
美味しい記憶をたくさん重ねて、生きる気力をつけなくては。
明日になっても元気がなかったら野垂れ死に一直線だもの。
魚の形になっている鉄製の取っ手を押す。すると燻した魚の香りがふわりと漂ってきた。
いい匂い。
喉は自然とごくりと鳴っていた。
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