5. 増えた体重がなかったことになるってこと?

 洞窟のような内装だわ。油ランプの炎がゆらめいて、岩肌を削ったような壁に光が溶けて奥まで広がっている。


 席は八割ほど埋まってる。時おり大きな笑い声が店の奥から響いてきた。


 平日の昼間だけど、昼食をゆっくり楽しむ人たちってこんなにたくさんいるのね。


 あちこち見渡すと、乾いた網や魚の骨の飾りが天井からぶら下がっていた。へえ、こんな風に内装に使われたりもするんだ。素敵。


 案内された席に座る。


 やがて、こんがりと焼き目のついた白身魚に、緑鮮やかなタジル草のソースがたっぷりとかけられた一皿が運ばれてきた。


 清涼なハーブとバターの香りが鼻をくすぐる。


 一口運ぶ。ほろりと崩れる柔らかな身と、絡まってくるソースの酸味。一瞬後に追いかけてくるハーブの香味。


「んん!」


 おいしい、おいしいわ。味わって食べるのって、なんて素敵な時間なの!

 

 悶えそうになるのを堪えて味わっていると、ノインがすっとメニューを目の前で広げてみせた。


「え? もういいわよ。おいしいけど、そこまで食べられないわ」


「失礼しました。その顔を見てると、ついもっと食べさせなければという義務感が生じてしまいまして」


「……顔?」


「お嬢さん、おいしそうに食べてくれるわね」


 そばで皿を片付けていた恰幅のいい女主人が、嬉しそうに声をかけてきた。


「そのパン、うちの姪っ子のパン屋から仕入れてるの。もしよかったら、贔屓にしてくれると嬉しいわ」


「ええ、ぜひお伺いしますわ」


 店を出て、石畳の通りを少し歩き、甘い香りが漂ってくるお店へと向かった。


「わあ……!」


 お腹が満たされていたせいか、パンよりもお菓子の方に目移りしてしまう。


 ショーケースの中には、フルーツが飾られたタルトや、雪のように白いクリームをのせた焼き菓子。漆黒のチョコレートケーキ。

 宝石のようにずらりと並んでいた。


 全部食べたい……でもお腹がもういっぱいで……。


「次回もくればいいじゃないですか」


 面白そうに目を細めたノインが、屈んで覗きこんでくる。


「へ?」


 ……それはつまり。


 今日が終われば、この一日はリセットされるのだから、この満腹感も、増えてしまった体重も、すべてなかったことになるってこと?


「……っ!」


 ごくりと喉が鳴る。


「どうしました?」


「罪深いことを考えてしまって……」


「是非やりましょう」


 見透かしたように、ノインはにこやかに言い放った。


 どうしてこの人は、こんなにも私の望むことを叶えてくれるのだろう。


 彼は何も食べられないのに。


「ねえ、ノインは時の精霊だって言ったわね。巻き戻せるのは分かったけど、どうして私にだけ記憶があるの?」


 席に座り、コーヒーを嗜んでいた私の問いに、ノインはすっと手を目元の高さまであげた。その手の周りに光の粒子が集まり、一冊の重厚な本へと姿を変える。


 金色の紋様が描かれている革張りの本が、重力を取り戻した瞬間に、ノインは片手で掴んだ。


「この本は『時の記録』。この日一日を記したページを」


 触れてもいないのに、手元の本がパラパラとひとりでにめくれていく。


「時を戻した直後に、あなたの魂に読ませるんです。その日に起きた出来事だけでなく、感情や実感も含めてね」


「……えっと、私は21日を繰り返しているというよりは、繰り返してきた記憶を読んでから一日を始めてるってこと?」


「さすがです」


「……そう、だからなのね。繰り返すたびに、少しずつ心が……体も回復している気がしていたの」


「あなたさまは特に思い込みの力が強いようですから。回復も早いのでしょう」


「一言多いのよ」


 ノインは嬉しそうに目を細めた。


  *


 外に出ると三時を回っていた。

 食べすぎてしまったからか、眠気がひどくて頭が重い。

 宿殿のベッドが恋しい。すっかり楽を覚えてしまったけれど、私ちゃんと元の生活に戻れるのかしら?


「ノイン、さっき、私のこと、思い込みが強いって言ったわね?」


 遠い日のことをふと思い出す。


「昔、似たようなことを友達に言われたことがあるの。『あんたは普通そうに見えて、時々とんでもなく突拍子もないことをする。あの大人しい旦那はついていけないわ。絶対うまくいかなわいわよ』って。大喧嘩になったわ。だって、その時は……彼に夢中だったから」


 話しながら胸が苦しくなる。大好きだったアリシア、今頃どうしてるんだろう。

 彼女と一緒だったら、この21日は何倍も楽しいものになるだろうな。


「それは……」


 ノインは長い指で口を覆う。


「素晴らしい慧眼の持ち主ですね。是非仲直りするべきです」


「えっ、まさか……本当にそれが離婚の理由なの!?」


 ノインは一瞬目を逸らし、すぐににこやかに手を振る。


「知る必要ないでしょう? 僕がそばにいるんですから」


「……」


 ずっと聞けずにいたことがある。私は道の小石を蹴りながら、意を決して顔を上げた。


「ノイン、私の21日を繰り返して、あなたに何の得があるの?」


「僕の、ですか?」


 初めて聞かれた質問だ、とでも言うように、ノインは数度、灰色の瞳を瞬かせた。

 そして、何か面白いものを見つけた子供のように、ふっと口の端を緩める。


「得になることは……そうですね」


 その笑みから柔らかさが消えた。ゆっくりと深みを増した灰色の瞳が、まっすぐ私を捉える。


「僕への好感度が上がること、でしょうか」


 時が止まった。


「……誰の――」


 私が言い終える前に、彼はさらりと言った。


「あなたの、です」


 聞き間違いではなかったの。


 心臓が大きく跳ね、思わず盛大にむせてしまう。


 ノインが差し出した水筒の水を飲み干し、なんとか平静を装った。


「私、不倫とかするつもりはないの」


 声が上擦らないように努めて言うと、ノインはにやっと目を細めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る