壊れた沈黙
※この章には性暴力に関する言及があります(直接描写はありません)。
帰り道で、足音が一つだけ増えた。
振り向く前に、肩を掴まれる。
声が、間に合わない。
世界が静まる“スン”とは違う、音の落ち方だった。
冷たい地面、爪の先の砂、ストッキングに走る細い線。
夜の空気はよく晴れて、痛みの輪郭まで鮮明だった。
助けを呼ぶ言葉は、喉の手前でほどけて、形を失った。
人の気配のない角を、風だけが通り抜ける。
私は自分の体の境界線が、知らない手で乱暴に引き直されるのを感じた。
その線は、今まで私が知っていた地図と、どこかが違っていた。
立ち上がると、膝が笑った。
呼吸を数える。
一、二、三。
数え方を忘れてしまうほど、世界が遠かった。
私は歩き出し、最初に見えた光の方へ向かった。
公衆電話。
緑の受話器、硬貨口の金属。
コインを一枚入れて、受話器を持ち上げる。
耳にあてる。
押せない。
番号は、覚えているのに、指が動かない。
返却ボタンを押す。
チャリン。
戻ってくる音だけが、今夜の世界とつながっていた。
部屋までの階段は、いつもより段数が多かった。
鍵がうまく回らず、二度ほど空振りした。
明かりをつける。
鏡の中にいる私は、私に似ているけれど、同じではなかった。
シャワーの音で部屋の音を消す。
消しても、耳の奥に残る音がある。
それは誰の声でもなく、私の体が発する「違う」という声だった。
夜が終わるまで、私は何度も時計を見た。
針が動くたび、さっきの角の空気が戻ってくる。
「警察」「病院」「友だち」
いくつかの言葉が浮かんでは沈み、どれも今夜の私の手には重すぎた。
朝になっても、口の中に金属の味が残っていた。
窓を開けると、冬の風が入り、カーテンが小さく震える。
身体のどこにも大きな傷はないのに、目に見えない場所ばかりが痛かった。
彼の受験が終わる日まで、私は何もしなかった。
それは正しさではなく、ただの停止だった。
応援の言葉を飲み込み、番号を押さず、コインだけを戻した。
チャリン。
何度も確かめたその音が、やがて私の沈黙の形になった。
「終わったら」
約束の先に並べていた言葉たちが、机の上で裏返る。
裏返った紙の白さは、眩しいのに、何も読めない。
私は鞄を詰め、最低限のものだけを持って、地元へ戻る準備を始めた。
携帯もポケベルもない時代。
沈黙は、簡単に世界を分けた。
自然消滅という言葉は、私を免じてはくれない。
それでも、私はそれを選ぶ。
選ぶしかなかった。
ドアを閉める前、部屋をぐるりと見渡す。
机の上に、0.5ミリの替芯が一本。
指で転がすと、かすかな音がして、すぐに止まった。
覚える、忘れない。
その二つのあいだに挟まったまま、私は鍵を回した。
——
次回 会わない日の終わり
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