プロローグ:劣等と喪失

 (……叔父さんって本当に良い人だよな。今の時代に、希少種だ)

 清泉は外を歩きながら、胸ポケットから煙草を取り出し、肺に煙を山ほど入れた。

 清泉はまだ十八歳だが、酒の味も煙草の匂いも、既に知ってしまっている。その癖女の味は未だに知らない。

 酒と煙草のことは、流石に叔父には言えていない。そんな事を叔父が知った暁には、卒倒しかねない。


 (ああいう人が詐欺師に狙われるんだよな。普段は迷惑かけてる分、そういうのからは守ってやらなきゃ)

 そう思うんだったらまずその煙草を止めろよ、と心の中の天使が辛辣にツッコミを入れるのを無視して、清泉は一歩一歩、教会から遠ざかって行った。教会の清らかな空気は消え去り、代わりに繁華街の喧騒が段々と響いて来る。


 しかし今の清泉はどうしても、クラブやゲーセンに行く気にはなれなかった。先刻さっきの叔父の顔が、視界にちらついてしまうのだ。かと言って、このまま帰るのも何だか間が悪い。どうしたものか。

 (お笑いライブは……白々しい。投擲場にでも行くか?俺、昔からナイフ投げだけは得意だったからな……)

 清泉は大通りの電柱に寄りかかり、どうしようか考えようとしたが――そこのお兄さん、という声が遠くから聞こえた瞬間、思考がピタリと止まってしまった。


 兄の笑顔が、声が、フラッシュバックのように脳裏に蘇った。ただの客引きの声如きに、心がぐるぐると掻き乱される。清泉は悔し紛れに踵で電柱を蹴った。

 もし兄が生きていてくれれば、こんな下らない放蕩なんて止めていた。兄の背中を追って、勉強にも励めていた。しかしそんなを考えても意味は無い。

 清泉はもう八年間、兄に会えていない。そしてこれからも、きっと会えないのだろう。

 清泉の兄の姫崎翡翠は、清泉が十歳の頃、行方不明になってしまったのだから。


 それは家族でキャンプをしていた時のこと。両親から離れて川遊びしていた清泉と翡翠は、突然水の流れに巻き込まれたのだ。

 翡翠は川に流されたまま、行方知れずになった。清泉は兄を助けようと、必死でもがいているうちに、流木で左目を切ってしまった。


 兄は清泉とは比べ物にならない程、頭が良くて、努力家で、その上とても優しくて。思い返せば両親は、露骨に兄を贔屓していたが、清泉は今なおそれに納得している。それ程までに、兄は和泉の憧れだった。

 そんな兄が家から消えて、おかしくなったのは清泉だけではなかった。一番おかしくなったのは和泉の両親だ。

 兄が行方不明になってからというもの、清泉のことを目に見えて放置するようになった。


 清泉が学校で眼帯を揶揄われたと訴えても、濁った目でスマホを弄っているだけで、全く相手にしてくれなかった。そして息子への当てつけのように、優秀な従妹いとこ星宮純恋ほしみやすみればかりを可愛がるようになった。

 それでも表面上は、清泉は両親と上手くやれていた。子供が川に流されて行方知れずになるなどよくある悲劇だということを、清泉に無情に示すかの如く、姫崎家の日常は淡々と続いていた。


 そんな生活にヒビが入ったのは、今から一年前――清泉が大学受験生だった時のことである。

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