プロローグ:短夜の教会
神聖なる教会の礼拝堂に、天に轟くような怒号が響き渡った。
「こらぁ、和泉!お前また、いかがわしい街に行く心算だな!」
(……うわ、やべっ。見つかった)
目を吊り上げて怒る、この教会の神父にして自分の叔父――姫崎薫の姿に、
左目は黒い眼帯で覆われて見えないが、青い右目には僅かばかりの影がちらつき、薔薇のように赤い唇はへの字を描いている。しかし面倒臭そうな表情とは対照的に、黒髪は艶々と光り、肌は透き通る程に美しい。
「嫌ですねえ叔父さん、俺は夜風に吹かれに行くだけですよ?」
まるで彫刻家が計算して作ったかのような端麗な美貌に、清泉はにこりと営業的な微笑を浮かべると、思ってもいないことをさらりと言った。
しかし、夜風に吹かれに行くだけなど、勿論嘘だ。夜風に吹かれに行く為だけに、わざわざ黒髪をハーフアップに纏めたり、革靴を履いたり、洒落たシャツを着たりする程、清泉はストイックなタイプではない。今日も今日とて繁華街のクラブやカラオケで、朝になるまで騒ぎ倒す心算だ。
清泉は大学生になってから、毎日のようにこれだ。バイトもろくにせず、勉強にも熱が入らず、刹那的な快楽ばかりを追い求めている。
幸か不幸か、清泉は非常に顔が良い。話も上手い――というより、人を楽しませる為に媚びを売ることが大の得意だ。その為、遊び相手の悪友たちは、体のいい玩具を手に入れた子供のように、清泉をひしと掴んで離さない。清泉も彼らといると心地いいのだから、離れる理由が無い。
「馬鹿者!夜風に吹かれるなら、この教会の庭でも事足りるだろうが!」
そんな不肖の甥の言葉に一秒たりとも惑わされず、薫はすぐに反駁した。毎日のように祈りを欠かさず、優しく説教を行い、時には悪魔祓いを行う事もあるこの神父は、夜の繁華街に繰り出す清泉のことを、本気で心配しているのだ。
有難いとは思う。しかし、繁華街に行くことだけは止められない。清泉はどうしても、繁華街の喧騒に引き寄せられてしまうのだ。今日は止めよう、もうすぐテスト期間なんだから、と思っても、足が勝手に向かってしまう。繁華街中毒、と言っても過言ではない程、清泉は夜の街に犯されていた。
「馬鹿者?嫌ですねえ。俺は確かにどら息子です、けれど叔父さんに嘘を吐くようなことは、一度もした事がないでしょう?俺を信頼して下さいよ、叔父さん。アドラーも仰っていたでしょう?裏切られる可能性を恐れず、相手を信頼しなさい、って」
清泉は笑顔で振り返り、手前勝手な屁理屈を並べた。その言葉に、薫は目を見開くと――「う、うむ、それはそう、だな……」と、俯いてしまう。
なんと真面目なことだろう。この真面目な神父は、不出来な甥の理不尽な言葉にも、本気で悩んでしまうのだ。
清泉は此方が一本取られたような気分になりながら、「それじゃ」と教会の玄関ドアを思い切り開け、鉛のように重い足取りで外に向かった。
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