第1話 一切皆苦を打ち破れ

 高校に馴染めず、受験にも本気になれなかった清泉は、「楽して稼げる」「スターになれる」という甘言に乗せられ、芸能スカウトマンだと名乗った男と交流し――やがて職場体験という名目で、ビルの個室に連れ込まれた。

 其処で肥え太った男や半裸の女たちに、強姦されかけた。芸能スカウトを装った人身売買に巻き込まれたのだ。


 清泉は咄嗟に逃げ出して、事なきを得たが――家族との間には完全に亀裂が走った。

 表面上の良好関係さえ完全に崩れ去り、清泉は叔父に引き取られる羽目になった。いや、父が叔父に息子を押し付けたのだ。

 未両親から見放されたことへの恐怖感に加え、未遂とはいえ強姦されかけたことによる心的外傷トラウマ。そのような状態でまともに受験勉強が出来る筈が無い。結局清泉は、Fランと後ろ指を指されるような私立大学にしか行き先が無く、しかも浪人するだけの金も余裕も無かった。


 不名誉な合格発表を実家に帰って報告した際、両親は「無駄な学費払わせやがって」「遥風が生きていればねえ」と吐き捨てた。その時の彼らの四つの目ときたら、氷のように冷たかった。清泉は、両親に厄病神扱いされたのだ。

 唯一叔父だけが、学歴なんて気にしなくて良いと慰めてくれたが、清泉の心の穴は、そんな言葉で埋まるものではなかった。

 「……兄さん」

 清泉は手で顔を覆った。神は何故自分ではなく、兄を家族から奪ったのか。もし消えたのが自分であれば、というIFが、清泉の頭の中で展開される。


 行方不明になったのが俺だったなら、兄さんは苦しみと痛みを糧に勉強を頑張って、良い大学に入って、良い企業に入って、両親もそれを応援していたに違いない。嗚呼、自分はどこまで行っても不要な存在だ。叔父も厄介なものを引き取ってしまったものだと、内心嫌気が差しているに決まっている――ここまで、思った時。

 「今我が持もたる物遠き処にあるかと見えて、消え失せつる物、我がためには、現前せる姿になれり――」

 男とも女ともつかない声が、清泉の耳を柔く刺激した。


 (……この一節、森鴎外の訳した『ファウスト』じゃないか?)

 清泉は驚いて、顔から手を放し前を見据えた。そして、アッと息を呑んだ。

 眼前に、鹿鳴館を思わす西洋風の建物が、ずんと佇んでいたのだ。

 「……おい、嘘だろ?」

 清泉はまず、自分の目を疑った。それから頭も。先刻まで、自分の目の前には何の変哲もないビルディングが、道路を挟んで聳えていた筈だった。それなのに何時あのビルディングは明治風の西洋建築に変わってしまったというのだ。


 しかし、それにしたって、建物はとても綺麗だった。外壁の赤煉瓦といい、三角の屋根といい、鉄製のドアといい、明治に作られた建物を、そのまま持ってきたかのようだった。

 利便性に特化した今の感覚とは遊離した、優雅でロマンチックな建物。それが自分の目の前に、ドンと構えて立っているのだ。清泉は思わず、我を忘れて見惚れた。


 「……やっぱり。今時の若い子は、そう簡単に足を踏み入れてはくれないね」

 不意に後ろから、例の中性的な声が鈴のように鳴った、次の瞬間。

 清泉の足は自ずと建物に吸い寄せられ、気付けば玄関扉を開けていた。

 

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