第6章:沈黙の子
風が鳴いていた。
山の稜線を越えて吹く風が、赤くなりかけた葉をはらはらと散らしていく。
真央は、屋敷の奥の書斎にひとり座っていた。
そこは、かつて矢萩栄一郎が机を置いていた部屋だった。
壁には、古い経文と設計図が並び、棚には寄進台帳が埃を被っている。
誰も触れない。
誰も読まない。
ただ彼だけが、夜ごと灯りをともして、その文字の痕跡を指でなぞっていた。
「なぜ……生かされたんだろう」
呟きは、風の音にかき消された。
***
母が死んで五年が経つ。
信吉は今も村の端の家で暮らしているが、真央とは言葉を交わさなくなっていた。
村には観光客が増え、舗装された道を車が通るようになった。
かつての神域は、今では“金胎会記念館”という名で案内看板が立てられている。
「神を信じた村」ではなく、「信じることができた時代」として語られ始めていた。
真央は、その展示室に一度だけ足を運んだことがある。
矢萩栄一郎の遺影、弥生の衣、信者の奉納帳。
そのすべてがガラス越しの“物語”になっていた。
説明文には、こう記されていた。
『おおこがね様信仰——
村を興し、人を救い、やがて静かに消えた。神は語らず、人が語った。』
真央は、展示室の隅で足を止めた。
そこには、自分の幼少期の写真があった。
白衣を着て微笑む、あの頃の“神の子”。
「……あれが、俺か」
そう呟いた声に、誰も答えなかった。
***
その夜、真央は父の家を訪ねた。
信吉は縁側で火を焚いていた。
小さな香の匂いが、静かに夜気に溶けていく。
「……まだ、焚いてるんだな」
信吉は顔を上げた。
だが、何も言わなかった。
「母さんは、ほんとに、神を信じてたのかな」
「さあな」
「父さんは?」
「……信じられんようになってからの方が、よう祈るようになった」
それきり、二人のあいだに長い沈黙が流れた。
薪が爆ぜ、香の煙が夜空に消えていく。
「父さん」
「ん?」
「俺、もう少しだけ……母さんの声を聞いてみたいんだ」
信吉は、その言葉の意味を理解した。
そして、ただ小さく頷いた。
***
翌日、真央は旧本殿の裏へ回った。
朽ちた祠の奥に、母の香炉が残っていた。
灰は固まり、線香の跡も消えている。
彼はゆっくりと膝をついた。
「母さん。俺は……もう、誰の言葉も信じられないよ」
その声は、祠の中で吸い込まれるように消えた。
ただ一瞬だけ、木の隙間から光が差した。
それは声ではなく、風の音でもなく、
ただ、あの日と同じ——沈黙の匂いだった。
真央は立ち上がった。
何も祈らず、何も誓わず、
ただ、静かに歩き出した。
彼の背中を、風が撫でていった。
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