第5章:母の沈黙
——昭和三十七年、初夏。
弥生は、静かに息を引き取った。
死因は急性心不全と記されたが、実際は、長い疲労と心の病が彼女を蝕んでいた。
かつて“神の声”を語った女の面影は、もはやどこにもなかった。
本殿奥の御座所で行われた葬儀には、幹部と近親者だけが列席した。
参道には信者たちが並び、鈴の音と経文だけが淡く響いた。
表向きには「神に召された母」として語られた死だった。
だが、実際には、ひとりの女が“神”という名の重荷に押し潰された結末だった。
真央は、その棺を見つめながら、涙を流さなかった。
彼の瞳には、悲しみではなく、どこか静かな拒絶が宿っていた。
***
葬儀の翌日、真央は御殿裏の納戸に入った。
古びた桐箱がひとつ、埃をかぶって置かれている。
母が生前、大切に鍵をかけていた箱だった。
中には、黄ばんだ便箋が数通。
震える筆跡が、ところどころ涙で滲んでいた。
真央は、一枚を手に取って読み始めた。
——
「あの子が何者なのか、誰にも言えませんでした。
祈るように願っていました。あの方の子であってほしいと。
でも、それは罪でした。女としての、愚かしい願いです。
信吉さんには……どんな言葉を尽くしても、償えません。
ただ、日々の祈りだけが、わたしに残された赦しでした。」
——
その夜、真央は部屋に灯りをつけずに過ごした。
外では夏の虫が鳴いていた。
翌朝、本殿での奉納式を拒み、壇上に立つこともなかった。
信者たちは「御子の沈黙は、神の深奥」と称えた。
だが、信吉には分かっていた。
“あいつはもう、何も信じておらん。”
***
夜、真央は初めて父に向かって口を開いた。
「……僕は、あなたの子じゃない」
信吉は、湯呑を置いたまま視線を上げなかった。
ただ、静かに言った。
「分かっとる。けど、お前の父であろうとは、してきたつもりや」
その一言で、真央は何かを理解した。
血でも、信仰でもなく、ただ“沈黙”が二人を繋いでいたことを。
***
弥生の手紙は燃やされなかった。
真央は、一枚だけ懐にしまい、誰にも見せなかった。
信吉は、夜ごと納戸の奥に小さな祠を作った。
そこは、かつて弥生が香を焚いた場所だったという。
祠には、御神体も位牌も置かれなかった。
ただ、弥生の好きだった香を一本だけ、毎夜焚いた。
それは祈りでも、贖罪でもなかった。
ただ、ひとりの男が、
妻と子のいた場所に、火を灯しているだけだった。
その香の匂いは、静かな風に乗り、
真央の部屋にまで、かすかに届いていた。
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