第4章:沈黙の継承
昭和三十年、夏の終わり。
神深村の矢萩邸で、矢萩栄一郎は静かに息を引き取った。
真央は八つになっていた。
“神の子”として崇められ、誰よりも清潔な衣を着せられ、
誰よりも「汚してはならない」存在として育てられていた。
けれど、それがどれほど異様なことか、まだ分かってはいなかった。
屋敷は喪に沈んだ——
はずだった。
だが、矢萩の死とともに、教団はむしろ勢いを増した。
残された文書。
それは信徒のあいだで「矢萩聖典」と呼ばれ始めていた。
法人格の取得、財産の宗教財化、支部整備、会報の編集方針——
それは、もはや祈りの言葉ではなく、経営の設計図だった。
信徒たちは、その青写真を忠実に実行していった。
弥生と真央は、その象徴として“壇上に立たされる存在”となった。
***
だが、弥生は静かに壊れはじめていた。
夜更け、誰もいない座敷で、誰かと語らうように独り言をつぶやいた。
「あなたは神ではない」
翌日には「あなたは神の子なのよ」と涙を流す。
信徒たちは、それすら「神の試練」と呼んだ。
真央の中にも、言葉にならない違和感が芽生えていた。
——なぜ、自分は神と呼ばれるのか。
——なぜ、母は泣くのか。
——なぜ、誰も“父”を語らないのか。
ある夜、夢の中で、矢萩の声を聞いた。
「おまえは、わしの夢だ」
それが何を意味するのか分からなかった。
けれど、目を覚ましたとき、胸の奥に、
言葉にできない静かな怒りだけが残っていた。
***
信吉は、沈黙を深めていた。
弥生との距離は埋まらず、真央との間には見えぬ壁が生まれていた。
——真央は、自分の子ではない。
その事実を知っていた。
だが、それを口にした瞬間、すべてが崩れる気がした。
家も、教団も、祈りさえも。
だから彼は、沈黙を選んだ。
その沈黙こそが、唯一の“信仰”のかたちのように思えた。
***
教団は拡大していた。
講話会、支部巡礼、信徒会報——
矢萩の描いた構図どおりに。
だが、弥生は祈りの最中に言葉を見失い、
真央は神前に立つたび、俯くようになった。
信吉の眼差しには、焦りよりも諦念が宿っていた。
——誰もが気づいていた。
この歯車は、もう矢萩の手を離れ、
何か別のものに変わりはじめていることを。
それでも、誰一人、止めようとはしなかった。
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