第1章:若き日の矢萩栄一郎

 ——大正三年、神深村。


 その日、矢萩栄一郎は、村の裏手にある尾根の上から神代家を見下ろしていた。

 田畑の向こう、低く沈んだ瓦屋根の一角に、小さな薬師堂が寄り添うように佇んでいる。


 「おおこがね様、か……」


 ぽつりと漏らした言葉は、風にさらわれて消えた。


 矢萩家は、かつて島津の支配下でこの地を治めた家柄だった。

 今も“名家”と呼ばれるものの、村人の信仰は、なお神代家へと向けられていた。


 それが、若き栄一郎にとっては何よりの屈辱だった。


 神代政春——おおこがね様を祀る神職の家の当主。

 言葉少なく、他者と交わらぬ男。


 栄一郎は政春を尊敬してはいなかった。

 だが、その男がかつて口にした一言が、脳裏に焼きついていた。


 「神は声を発さぬ。だからこそ、人は己の心で語り始めるのだ」


 まるで、語ることそのものが罪であるかのように。

 その沈黙の在り方が、栄一郎には何よりも苛立たしかった。


 そして——ふさ。

 政春の妻であり、村一番の美しさを持つ女。


 恋とも憧れとも違う、もっと深い、名のない感情を抱いていた。

 彼女の沈黙の中に、栄一郎は“神”の輪郭を見ようとしていた。


 ***


 ある秋の日、ふさが神社の裏で落ち葉を掃いている姿を見かけた。


 無意識に声をかけた。

 「……どうして、こんなに丁寧に掃くのですか?」


 ふさは顔を上げずに言った。

 「神様は、見えないところを、よくご覧になるからです」


 その答えに、栄一郎は何も言えなかった。

 ただ、その背を見つめたまま、立ち尽くした。


 その夜、政春の沈黙が語っていた。

 矢萩家と神代家の間に、目に見えぬ境界線が引かれたことを。


 ***


 やがて、ふさは病に伏した。

 栄一郎が見舞いに訪れたのは三日目のことだった。


 「あなたの眼差しは、真っすぐ過ぎて……ときに、苦しくなるのです」


 それが、ふさの最期の言葉となった。


 ***


 ふさの死後、政春は人前から姿を消した。

 だが、薬師堂への参拝者は増え、村の信仰は再び神代家へと傾いていく。


 栄一郎は学校を改築し、橋を架け、田畑を整えた。

 だが、人々の敬意は沈黙を貫く神代家に注がれていた。


 ——神は語らぬ。それでも、人の心を動かす。


 その事実が、彼の胸に静かな敗北を刻んだ。


 だが、同時に、ひとつの執念が芽吹いていた。


 「この村の行く末には……必ず、我が血の者を据えてみせる」


 その声は誰にも届かず、風に溶けて、神代家の屋根瓦に吸い込まれていった。

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