第2章:弥生の誕生と継承
弥生は、矢萩栄一郎の後妻が前夫とのあいだにもうけた娘だった。
矢萩家は、かつて島津家から村政を任された家柄といわれる。
だが、その名を語る者は、もうほとんどいなかった。
時代は変わり、金は尽き、村は忘れられた地となった。
それでも栄一郎は信じていた。
——信仰こそが、この村を再び立ち上がらせると。
弥生は、その傍らで育った。
育てられた、というより、整えられた。
己の信念に殉じるための、器として。
先妻とのあいだにいた男子は戦火に呑まれた。
その日から、矢萩の眼差しは、弥生へと定まった。
***
少女は早くに気づいていた。
その視線が、父のそれではないことを。
言葉にならずとも、心は真実を知っていた。
夜ごと、奥座敷に呼ばれるようになったころ、弥生の中で、何かが静かに崩れた。
矢萩の命に従い、学び、装い、笑い、
村人の前では“矢萩の娘”として完璧に振る舞った。
やがて、弥生が大人びたころ、一人の男が戦地から帰還した。
神代信吉——政春とふさの息子。
右足に傷跡を残し、言葉少なに村へ戻った。
その沈黙が、弥生には奇妙に懐かしかった。
政春の面影を思わせながら、どこか深い断絶を孕んでいた。
弥生はその静けさの奥に、何かを見ようとした。
けれど、何も見えなかった。
***
矢萩は、ふたりの結婚を当然のように決めた。
それは家と家の結びつきであり、信仰と血を繋ぐ布石でもあった。
情も想いも、矢萩の中にはなかった。
弥生は、ただ従った。
婚姻が決まった夜、鏡を見つめながら頬をなぞった。
——これは、私の顔ではない。
そこにあるのは、矢萩が望んだ女の貌。
仕立てられた教祖の器。
「私は、父の意志に生きる」
その囁きは、誰にも届かない。
そして弥生自身にさえ、その意味は分からなかった。
***
季節が巡り、弥生の腹に命が宿った。
矢萩は頷き、「よくやった」とだけ言った。
信吉は、沈黙のまま隣に座った。
弥生は、その背に、遠い影を見た。
春の冷たい風の中で、ひとり立ち尽くす少女の姿が蘇った。
——この子は、誰の子なのだろう。
それは誰にも問われることのない問いであり、
弥生自身にも、決して答えられない問いだった。
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