第18話:二人の部員 山際瑛子・大庭裕太郎(2)
深夜零時、北校舎。
非常灯のみが薄ぼんやりと灯る廊下を裕太郎達は歩いていた。
春の始まりとはいえまだ深夜は肌寒く、それが妙な緊張感を抱かせる。ふるりと身体が震えたのは寒気か恐怖か。
シンと静まり返り音一つ無い校内というのは初めてで、毎日のように通っている廊下なのにまるで別の世界に迷い込んでしまったかのように思える。
このまま果て無く歩かせられるのではないか、廊下の先は恐ろしい世界と繋がっていて化物が現れるのではないか。と、そんな嫌な想像力を掻き立てられる。
キュッと上履きが小さく鳴るたびに心臓が跳ねあがった。
だが恐怖心で身を強張らせているのは裕太郎だけだ。
懐中電灯を手に先頭を歩く瑛子と聡も、彼等の後ろを歩く茜も、そして裕太郎の隣を歩く亮也にも恐れている様子は無い。
彼等の歩みは平然としており、日中の廊下を歩くのとなんら変わらない。
それどころか、
「図体はでかいくせに臆病だな」
と、亮也が鼻で笑うではないか。他人を馬鹿にした、呆れと嘲笑を綯交ぜにした声。
その言葉すらも深夜の廊下はやけに響かせ、もはや裕太郎は反論はおろか愛想笑いを浮かべる余裕すら無い。掠れた声で「でも」と情けない訴えを漏らした。
「こ、こんな夜中に学校になんて……、どうして先輩達は怖くないんですか?」
「夜中だろうと学校は学校だろ」
「だけど、よ、夜中の学校では子供の悲鳴が聞こえるって。き、聞こえたらどうするんですか……?」
「馬鹿かお前、それを探すために来たんだろ。お前だって話を聞いた時は拍子抜けした顔してたじゃねぇか」
裕太郎の怯えように苛立たしさを覚え始めたのか、亮也の口調が次第に荒くなる。
平時であれば、あの北条亮也を怒らせたと裕太郎は恐怖心を抱いただろう。だが今はそれすらも気にしていられない。
確かに、瑛子から話を聞いた時は裕太郎も恐怖心は抱かなかった。というよりあの内容の薄さでは怖がりようもない。
だが実際に深夜の学校に忍び込むとなれば話は別だ。
普段の学校とは一転して薄暗く静かな廊下を歩いていると、今この瞬間にも子供の悲鳴が聞こえてきそうではないか。
そう裕太郎が震える声で訴えるも、亮也はまたも馬鹿にするように鼻で笑うだけだ。挙げ句に「お前が悲鳴あげてみろよ」と言ってきた。
「ぼ、僕が……、ですか?」
「自分でやったら怖くなくなるかもしれないだろ」
「で、でも、大きな声をあげたら警備の人が来るかもしれないし……」
「はぁ? 警備が来たからって何だっていうんだよ。うざってねぇな。さっさとやれよ」
『忍び込んでいる』という建前さえも忘れたのか、亮也が苛立ちを募らせて急かしてくる。
これには裕太郎も困惑し、助け舟を求めて他の者達へと視線をやった。だが生憎と瑛子と聡は壁の掲示板を眺めて気付いておらず、茜は穏やかに微笑むだけで割って入ってくる気はなさそうだ。
裕太郎の中で迷いが湧く。
このまま拒否をして亮也の機嫌を損ねるか、恐怖心に抗って大声を出すか……。
仮に亮也の機嫌を損ねた場合、聡と茜の二人からも煙たがられるかもしれない。影響力が甚大なこの三人だ、周囲にそのことが知られたらクラスメイト達からも遠巻きにされる可能性もある。それどころか親の仕事にも……。
対して大声を出すのは今回の一度切りで済むはず。仮に警備が来ても、亮也の態度を見るに捕まって親に連絡等とはならないだろう。
つまり後々の事を考えればここで大声をあげるべきだ。
そもそもここに来るまでにずっと話をしていたのだから、少し声を張り上げたところで変わるまい……。
「わ、分かりました。でも、け、警備が来たら北条先輩が説明してくださいね……!」
「分かってるよ、だからさっさとやれって」
「はい……」
覚悟を決め、裕太郎が廊下の先を見た。この道を真っすぐ行くと『こわいもの倶楽部』の部室がある突き当りへと辿りつく。
どちらに向けて声を発すれば良いのかも分からないが、自然と部室の方へと向いて、裕太郎は荒れる鼓動を宥めるように胸を押さえた。数度深呼吸をする。
ここでようやく瑛子と聡が気付いたようだが、茜から説明を受けると瑛子はさほど興味も無さそうに、そして聡は呆れこそすれども止めはせず裕太郎に視線を向けてきた。元来大人しく控えめな裕太郎からしたら、全員から視線を向けられているだけでも汗が浮かんでくるというのに、更に大声なんて……。
だがやらないわけにはいかない。そう己を律し、一際深く息を吸い込み、声にして吐き出そうとした。
その瞬間、
きゃぁあああああ!!!!
と、耳をつんざくほどの甲高い悲鳴が廊下の奥から響き渡った。
……廊下の奥からだ。裕太郎の口からではない。
今まさに声を出さんとしていた裕太郎がビクリと体を大きく跳ねさせた。落ち着かせたはずの心臓が痛いぐらいに荒れる。
「い、今の、今のなんですか……!」
「知らねぇよ、廊下の奥から声が」
聞こえてきた、と言いかけた亮也の声に、再び金切り声が被さった。大人の女性とも、子供の声とも取れる、耳を傷めかねないほどの悲鳴。
尋常ではないその声に裕太郎はわけが分からず、通路の先を震えながら凝視した。非常灯だけではぼんやりとして道の先は見えない。
それどころか、非常灯がチカチカと点滅しだすではないか。それもまるで連携するように幾つも。
徹底して管理されたこの白羽学園において、非常灯といえども明かりが切れるなんて有り得ないのに……。
「おい、なんで明かりが点滅してるんだ?」
「そっ、そんな、そんな事より今の悲鳴ですよ! なんで、誰が……」
あの声は確かに廊下の奥から聞こえてきた。
いったい何があったのか、誰がいたのか。混乱する頭では理解できるわけがなく、裕太郎は強張る体ながらにズリと後退った。
視線はいまだ何も見えず明滅する廊下の奥に釘付けだが、それでも『逃げなくては』と思考の隅で警告音が鳴る。何か分からないが何かが起こっている、それから逃げなくては……。
「とりあえず、に、逃げましょう……。何かあるかも。けっ、警備員さんのところに行って、連絡を」
「おい待て、なんか足音聞こえねぇか?」
「足音……?」
この状況下で『何の足音か』等と問わなくても分かる。
悲鳴の主だ。
それが次第に大きくなる。つまり近付いてくる。
「ひっ」と裕太郎の声から悲鳴とも言えない掠れた声が漏れ、ついには立っていられないとその場にへたり込んだ。
足に力が入らない。立ち上がらなくてはと踏ん張ってもスカと床を蹴るだけだ。あれだけ震え上がらせていた上履きの擦れる高い音が、今だけは間の抜けた酷く不釣り合いな音に聞こえる。
その間にも足音は一定の間隔で続き、合間合間に甲高い悲鳴があがる。
そうして数秒、体感では数時間も続いたような重苦しい空気の中、廊下の先の暗がりからぬぅと人影が現れた。
「……女の、人?」
スラリとした手足の少女。中学生ぐらいだろうか、小学五年生の裕太郎からしたら『お姉さん』と感じる出で立ち。
纏っているのは古めかしいセーラー服。白羽学園の中学部の制服でもなければ近隣の学校のものでもない。
一見すると無関係な女子中学生が迷い込んだように見えるだろう。あるいは、彼女も友人達と共に肝試しに来たか。
だがそうではないと直感的に裕太郎が感じたのは、少女の動きが不自然だからだ。
ゆらゆらと体を揺らし、「あー……」「うぁ……う…」と呻きとも違う異質な声を漏らしながら覚束ない足取りで近付いてくる。明らかに様子がおかしい。
「様子が変だな。逃げた方がいいかもな」
「えっ、ま、待ってください。僕、立ち上がれなくて……!」
慌てて裕太郎が亮也の上着を掴んだ。亮也が放せと命じてくるが必死に食らいつく。
ここで置いていかれるわけにはいかない。今はもう亮也に怒鳴られようが嫌われようが、そのせいで学校中から村八分にされようが構わない。
あんな変な女性と二人きりにされるよりマシだ。そう危機感と共に様子を窺うべく少女の方へと振り返った瞬間、
裕太郎の眼前に、女の顔があった。
肌色のテープを乱雑に張り付けて皺を隠した顔。頬にやらたと濃いチークを縫っているのは血色の良さを偽るためか。
窪んだ目元には色が濁った瞳があり、その瞳が真っすぐに至近距離で裕太郎を見つめている。鼻息が掛かりそうなほどの近さ。
「ひぃっ!!」
恐怖と危機感が膨れ上がり咄嗟に悲鳴をあげた。体が強張って動かせず、目の前の顔から視線が動かせない。
何をされるのか。
誰なのか。
これは何なのか。
混乱する裕太郎を他所に、眼前に立っていた女は裕太郎の顔を覗き込みこそすれどもなにもせず、見飽きたのか身を起こすとゆっくりと真横を通っていった。
大人だ。
それも、老人。
通り過ぎた女性を横目で窺いつつ、裕太郎は心の中で呟いた。
先程まで混乱していた頭の中は、今は眼前に突きつけられた女性の顔だけを色濃く反映させている。他の事が考えられない。
セーラー服を纏った中学生ぐらいの少女だと思っていたが、その顔は大人の女性のものだった。それも七十歳を超えた、下手したら八十歳や九十歳に達していそうな老婆。裕太郎からしたら曾祖母・高祖母の年代の女性。
肌色のテープと歪な化粧、そして白髪が覗く不格好なウイッグのせいで、遠目からではその異質さが分からなかったのだ。
「逃げないと……、せ、先輩、置いていかないで……」
震える声で、そして女性を下手に刺激しないよう小声で、裕太郎が亮也に縋る。
だが次の瞬間「え」と間の抜けた声をあげたのは、女性が片手を振り上げて瑛子に襲い掛かっているのが見えたからだ。
女性の手が不自然に光る。鈍いその光は……、包丁の刃だ。
「あ……、っぷ」
普段快活に話し深夜の校内でも平然と話していた瑛子の口から、おかしな声が漏れた。
次の瞬間、彼女の白い首筋に赤い線が浮かび、周囲いったいを鮮血が舞う。せき止められていたものが一気に溢れ出すような、弾けるような、まるで彼岸花のが咲き誇るような……真っ赤な血だ。
その鮮やかな光景に裕太郎は理解が追い付かず、立ち尽くしたまま喉の切れ目から血を溢れさせる瑛子を眺めていた。
二秒、三秒、と、時間が経っても理解できない。
だが次の瞬間に金縛りが解けたように体が動いたのは、女が奇声をあげて走り出し、それとほぼ同時に亮也が「げぇ!」と声をあげたからだ。
「きったねぇ! 俺にまで掛かったじゃねぇか!!」
目の前で瑛子が殺されたというのに、亮也は己の服についた彼女の血を気にしている。
その言動のおかしさすらも今の裕太郎は気付けず、ただ信じられない光景を前に固まるしかない。
瑛子の首から溢れた血は既に勢いを無くしているが、時折ぷっぷっと弾けて血の塊を吹き出している。それが彼女の足元にある血溜まりに落ち、ピチャピチャと生々しい水音をたてていた。
瑛子は立ったままこと切れている。
まるで普段話している時のように、背筋をしゃんと伸ばして。
「山際さん……」
つい数分前まで話していた山際瑛子。
快活な性格の明るい女の子だった。いつもニコニコと笑っていて、先輩達にも物怖じせず話しかける態度は同い年ながら尊敬すら抱く。クラスが違うため空き教室前で鉢合わせるまで名前も顔も知らなかったが、この数日で彼女はまるで友人のように親しく接してくれるようになった。そのコミュニケーション能力にも憧れる。
そんな彼女が、わけの分からない不審者に襲われて殺された……。なんて哀れな姿だろうか。
――僕が止めればよかった。
後悔が裕太郎の胸に湧く。
あの女を止められたかは分からないが、そもそも肝試しに行くのを止めるべきだったのだ。
その結果がこれだ……。「ごめん」と裕太郎の口から謝罪の言葉が漏れた。
それに対しての返事は、
「だいじょうぶだよ」
という、瑛子の、彼女らしい、あっさりとしたものだった。
「……え?」
と誰もが声をあげた。
裕太郎はもちろん、服が血で汚れたと愚痴る亮也も、それを聞いていた聡と茜も。
全員の視線が向かうのは、あの奇妙な女に喉を切られて絶命した瑛子。……絶命したはずの瑛子。
彼女は事切れてもなおその場に背を伸ばして立っている。血の気が無くなった青白い顔に虚空を見つめる生気のない瞳で。青ざめた唇がゆっくりと開かれた。
「あは、あはは、あは、たのし、ねぇ、こわいもの、あは、みつかっ、うれしい、ね」
つたない瑛子の笑い声と言葉。喋りにくいのか途切れ途切れで、喉からヒュッヒュッと空気が漏れて邪魔をしている。
だが言葉だ。
間違いなく瑛子の口から発せられた、彼女の言葉。
彼女らしい明るさと無邪気さを感じさせる、それを感じさせるからこそ悍ましく耳に届く言葉。
これには裕太郎も混乱に混乱が上乗せされ、一瞬でも「山際さんは生きていたんだ」とありえない期待を抱いた。喉を掻っ切られたて血だまりを作る瑛子が生きているわけがないのに。
そんな冷静さも思考も欠いた裕太郎とは違い亮也達はまだ考えを放棄していないようで、亮也が「くそっ」と声をあげるのを機に三人が一斉に走り出した。
……裕太郎を置いて。
三人分の足音がしばし廊下に響き、それが遠ざかっていく。
残されたのはいまだ立ち尽くしたまま笑っている瑛子と、地面にへたり込む裕太郎。ここでようやく周囲に満ちていた血の匂いに気付き、裕太郎が喉を詰まらせた。むわと鼻孔に纏わりつく生臭さ。染み付くような濃い匂いに当てられて嘔吐する。ビチャビチャと陰惨な音と吐瀉物の匂いがまた気持ち悪さを誘い、もう一度胃の中のものを吐き出した。
恐怖で胃が引きつる。喉が震える。ただよう血の匂いと吐瀉物の匂いが体に絡みつく。
「……もうやだ、帰りたい」
耐え切れなくなり、裕太郎はその場で身を縮こませた。
本来ならば逃げなければならないのに、いまはもう体が動かない。まるで無邪気な子供に突かれたダンゴムシのようにぎゅうと体を丸めて、この惨憺たる光景を視界に入れまいとするだけで精一杯だ。
ひっ、ひっ、と喉が震えて涙が溢れる。涎と涙と鼻水が混じり合い、腕で覆った顔の下で不潔な水溜まりを作っている。
「おおば、くん、は、こわいものが、きらい、なんだ」
聞こえてくる瑛子の声。
これすらも拒否するように、裕太郎は体を縮こませたまま耳を塞いだ。聞きたくないと切に願う微々たる抵抗。
それでも瑛子の声は震える手の隙間から入り込んでくる。普段の彼女らしい明るい、それでも途切れ途切れの、ノイズが掛かったような歪で悍ましい声。
だがその声は一瞬にして途絶えた。
既に亮也達の足音も無く、まるで世界が元あった形に戻ったようにシンと静まり返る。
顔を伏せて耳を覆っていた裕太郎もそれに気付き、震える手をそっと耳から放した。
静かなのはそれはそれで恐怖心が勝る。だが恐怖心が湧く片隅で、微かな期待も宿った。
――もしかして全部消えてしまったんじゃ。あの悍ましい姿の山際さんも居なくて、血だまりも無くて、ただの廊下に自分が蹲っているだけなんじゃ……。
――そうだ、全てもとに戻っているのかもしれない。
そんな期待が胸に湧き、裕太郎は恐る恐る顔を上げた。
瞬間、
「きらい、なら、もう、さがさない、でね」
耳元で囁かれる瑛子の声。
間近に感じる人の体温。
そして生温く漂う血の香りを嗅ぎ取り、裕太郎はふつりと意識を途絶えさせた。
…二人の部員 山際瑛子・大庭裕太郎 (了)…
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