第19話:北条亮也



「亮也、待ってください。まって……、待てよ亮也、茜がもう走れない」


 らしくなく敬語を崩して訴えてきた聡に、廊下を走っていた亮也は舌打ちをしつつも足を止めた。

 場所はいまだ三階だが、あの悍ましい姿の瑛子がいた場所からは正反対の位置まで来られた。あとは階段を駆け下りれば昇降口に辿り着ける。

 いや、そこまで行かずとも、校内に待機させている北条家のSPと合流すれば良い。今頃必死に探しているはずだ。


 走ったことで幾分頭の中が落ち着いたのか、それとも距離を取れたことによる安堵か、算段を立てられる程度には冷静になれた。


「走れないって言ったって、のんびり休んでなんかいられねぇぞ」

「そんなの僕も茜も分かってますよ」


 反論こそするものの、聡も随分と息を切らしている。二人の後をついて走っていた茜に至ってはもはや声も出せないようだ。

 まるで体育の授業で長距離を走らされた後のようではないか。いや、体育の授業だって教師たちは「無理をしないで良いんですよ」だの「辛いなら直ぐに仰ってください」だのと言って休ませてくるので、実際にこれほど息を切らしたことは滅多にない。


 そんなに走っただろうか。と亮也はふと疑問を抱いた。

 いや、確かにだいぶ走った。三人の中で亮也は飛びぬけて運動神経が優れて体力もあるのだが、それでも息苦しさは感じている。

 だけど北校舎はそんなに広かっただろうか……。


 混乱しているから余計に距離を感じるのか。

 それとも追われている焦燥感が足をもつれさせ、普段通りに走れず疲労を感じるのか。


 もしくは……、恐怖ゆえか。


『恐怖』という単語が脳裏に浮かび、亮也の背にぞわりとしたものが走った。心臓が痛いくらいに締め付けられる。

 脳裏に蘇るのは喉を掻っ切られ血だまりの中に立ち、それでも笑い声をあげる英子の姿。あれほど悍ましいものは見た事がない。

 だけどあんなものは有り得ない。そうだ、有り得ない。


「くそ、やられた……。あいつが何か仕組んでたんだ。そうに決まってる」

「あいつって?」

「山際英子に決まってんだろ。そもそも今学校にいるのだってあいつが言い出したからだ。俺達のことも知ってたし……。俺達を脅そうとしてるのか、それか今までの奴等の遺族かもしれねぇ」

「……遺族か。確かに、どこかから僕達のことを知って報復しようとしてる可能性はありますね」


 今までの活動はすべて内密に処理してきた。

 なにも人間をそのまま消すわけでもなし、別の事件に摺り返るだけだ。親の権威を使えば不可能ではない。事実、そうやってきた。

 だが勘が鋭く恐れを知らず真相に辿り着こうとする者はごく稀に現れる。以前の水岡百合子がまさに。――亮也達は既に過去の事として百合子の名前を忘れ「あの女の教師」としか話していないが――

 きっと山際英子もそうなのだろう。


「山際も大庭もまとめて処理するつもりだったのに……。だいたいあの婆、なんで真っ先に山際を殺したんだよ。もっと走り回らせる予定だったろ!」

「そんな事を僕達に言っても困りますよ。携帯電話も繋がらなくなってるし。こんなの計画と違う」


 亮也のように感情を露わにこそしないが、聡の声にも苛立ちが混ざっている。元来几帳面な聡は予期せぬ展開を嫌う傾向にあり、それが自分達が陥れようとした相手によるものだと分かり余計に憤っているのだろう。再び携帯電話を取り出すもどこにも繋がらず、「くそっ」とらしくない暴言を吐いた。


 元々の三人の計画では、不審な女は最初の遭遇では危害を与えることなく、ただ追いかけてくるだけだった。

 怯える裕太郎と瑛子は悲鳴をあげながら校内を逃げ惑い脱出しようとする。だが昇降口に辿り着けても警備員室には誰もおらず、昇降口もシャッターが閉じており鍵が無ければ逃げ出せない。どうやって出るかを考えているうちに再び女が現れて逃げて……。と、瀬野勝彦の時に実現できなかった脱出ゲームを今度こそ完遂する予定だったのだ。

 もちろん警備員は別の場所で待機しているし、昇降口のシャッターも亮也達が指示を出せばすぐに開く。有事の際のために校内に北条家のSPも手配している。自分達は怯え逃げ惑う瑛子達に合わせて演技し、散々楽しんだ後、二人を片付けて悠々と帰宅するはずだった。


 なのに今はどうだ。

 何一つうまくいかない。


 ちくしょう、と亮也は地面を蹴り、次いで汗を掻いた額を手で拭った。

 ぬるりと手が滑る。生暖かい感覚。見れば手の一部が赤く染まっており、思わずぎょっと目を見開いた。

 血だ。


「きったねぇ……! ふざけんなよあの女!」


 あの瞬間、瑛子の首から溢れた血はまるで彼岸花のように周囲に舞った。

 それが数滴、亮也の上着に着き、気付かぬうちに顔にまで付着していたのだ。

 亮也が嫌悪感を露わに顔を強引に拭う。だがその手にも新たな血がついており、暴言を吐き捨てると共に廊下の手洗い場へと向かった。

 白羽学園は特殊な学校であり内装も設備も他の小学校とは一線を画す。廊下にまで設置された埋め込み型のエアコンがまさに。だが一般の小学校と同じ設備もある。それが廊下に設置された手洗い場だ。もっとも、機能やデザインに関して言えば一般的とは言い難い洒落たものだが。


 そんな手洗い場に近付き、水を出そうとし……、「はぁ?」と亮也が疑問の声をあげた。


 水が張ってある。それも、手洗い器いっぱいに。


 溢れるギリギリのところで止められた水は振動も揺れもせずただそこに鎮座している。

 夜の暗がりと薄ぼんやりとした非常灯のせいか、水面ははっきりと覗く亮也の顔を映している。

 まるで鏡のように。


 ――こんな光景をどこかで……。


 そう亮也が何かを思い出しかけた。

 あれは蒸し暑い夏の夜。ただでさえ暑い夜に、更に湿度の高い場所を訪れた。いっぱいに張られた水は夜の闇のせいで真っ黒い塊のよう。

 そこを覗いた。

 深夜零時に表れる男子生徒の幽霊を見るために。


 半年ほど前のことを亮也が思い出した瞬間、静かだった水面が一度、ゆらりと不自然に揺れた。


 そしてそこに、水面に映る亮也の顔の横に、青白い少年の顔を映しだした。


「ひっ!!」


 亮也が声をあげ、反射的に顔を遠ざけようと身体を逸らせた。

 だが水面が再び揺れ、そこから火傷跡や水ぶくれのある青白い腕が勢いよく伸び、亮也の頭を両側から強く掴みかかってきた。爪がガリと肌に食い込み、異様な強さで水面へと引きずりこもうとしてくる。咄嗟に縁と壁に手を着いて堪えられたが、不自然な体制では頭を掴む手を振り払うことが出来ない。

 聡と茜の声がする。突然の事に彼等もらしくなく悲鳴をあげた。


「りょ、亮也……!」

「ぐっ……、はな、せ……。おい、早く助けろよ!!」


 声をあげれば聡がすぐさま腰に抱き着いて手洗い場から離そうととしてきた。だが亮也の頭を掴む腕を見て小さな悲鳴をあげるあたり、直接手を掴んで剥がすことはできないのだろう。

 水面から伸びた手は尋常ではない力で亮也を引きずりこもうとしている。二人掛かりで抗おうにも適わず、少しずつ少しずつ、亮也の顔が水面へと近付いていく。


 もう目と鼻の先。


 そこに浮かぶ青白い顔はじっと亮也を見つめている。

 怒りでもなく哀しみでもなく、一切の感情を感じさせない顔で。


 同年代の少年の顔だ。

 見覚えのある……。


「戸塚幸樹……」


 亮也がその名前を口にした瞬間、水面に映っていた無表情の幸樹の顔が一気に怒りへと変わった。

 少年には似つかわしくない、眉間に皺を寄せ、目を吊り上げ、歯を剥き出しにした威嚇の顔。般若を越えて真蛇の面すら彷彿とさせる形相。

 この変わりように亮也の胸の内で危機感が膨れ上がった。


 殺したはずの戸塚幸樹が、あの晩に探したプールに表れる男子生徒の霊のように現れた。

 そして自分を引きずり込もうとしている。

 水の中に。……水の底に。


「やめっ、やめろ!! 聡、茜、早く助けろよ! なんとかしろ!!」


 亮也が金切声で悲鳴をあげ、逃れようと身を捩った。恐ろしい形相から逃げようと顔を背けようとするも両の腕がそれを許さない。ぎちぎちと腕の力が増して爪が肌に食い込み、骨まで軋むような痛みが走る。

 もはや亮也に普段のような余裕は無く、言葉にも焦りが色濃くなる。「早くしろ!」「助けろ!」という暴言染みた言葉は助けを乞うというより横暴な命令に近い。

 ひとしきり喚き、水面が近付くにつれて声に焦りの色が濃くなる。聡と彼に続いて腰に抱き着いて引き戻そうとする茜の声にも最早応えることはできない。


「誰か! はやく、だすげっ、やめ、ぎっ……。ぐぶっ、ご、」


 亮也の顔がついに水面に触れた。鼻と口が水に沈む。

 狂乱の最中に水面に沈められたため息を吸い込むこともできず、ゴボゴボと無様な音をたてた。鼻と口から一気に泡が噴き出て、水を吸ったのか鼻の奥が痛む。

 暴れたおかげで水面から顔を覗かせるも、僅かに息を吸い込むだけで碌な呼吸も出来ず再び水の中に引きずり込まれた。さながら水責めの拷問を繰り返すように、幾度も顔を上げては再び沈み、また引きずり込まれる。苦しさが増していき、頭の中が空気を吸うことだけで埋め尽くされる。


 それを何度も繰り返し、亮也の体はビクンと大きく跳ねたのを最後に動かなくなった。四肢から力が抜けてダランと手足が放られる。

 異変を感じ取った聡と茜が恐る恐る亮也の体から手を放す。それにすらも反応は無い。


「亮也……」


 聡の弱々しい声が静かな廊下に妙に響いた。

 だが返事はなく、亮也の体は微動だにせず上半身だけを水に着けている。まるでかつて戸塚幸樹がそうだったように。

 そうしてしばらくすると亮也の体がズルと動いた。もっとも、亮也が動いたのではない。何かが水面から引きずり込もうとしているのだ。体が不自然に曲がり、そう深くはないはずの手洗い器の中に入っていく。

 もはや聡にも茜にもそれを停める余裕はない。出来ることといえば、眼前の有り得ない光景とそれに巻き込まれていく友の体をただ凝視するだけだ。

 時間にすると一分程か。獲物も飲み込む大蛇のように手洗い場は亮也の体をゆっくりとゆっくりと飲み込み、最後に一度、彼の足をガツと縁にぶつけ、全てを飲み込んでしまった。


 後に残ったのは静かな廊下と、呆然と立ち尽くす聡と茜。


 それと、何も無かったかのように水滴一つ残さぬ空の手洗い場。




 …北条亮也 了…

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