第10話:教師 瀬野勝彦(4)
診察室だろうか。一室はそう広くはないが、部屋の奥には他の部屋と行き来するための通路がある。
逃げ道を確認して深く息を吐くと、カチャンと小さな音が響いた。再び心臓が縮み上がり、慌ててそちらを見れば聡が足で何かを突いている。ガラス製の細長い管。
「これ、注射器ですよね」
「注射器? ……本当だ」
聡の爪先にあるのは割れた注射器だ。
周囲には同じようなものが幾つか落ちている。
なぜここに注射器があるのか。
廃業した際に置いていった?
いや、それはない。
夜逃げならまだしも、円満に看板を下ろしたなら医療道具は全て引き払っているはず。
……それなら。
「これ、もしかして危険なものかも。あの人……」
「あの男の人が薬物中毒ということですよね」
勝彦は言葉を濁したが、対して聡はあっさりと言い切った。
薬物中毒。小学生の口から出るにはとんでもない単語だ。
だが世にはそういった不法なものが蔓延っているのも事実。そして不法なものが蔓延る現場には、誰も入り込まない鬱蒼とした場所が適している。
この廃病院はうってつけではないか。
己が危険な場所に踏み入った事を改めて自覚し、勝彦の背にゾワリと怖気が走った。
『わけの分からない凶暴な男』が『薬物中毒者』になる事により恐怖に現実味が増していく。
対して聡は冷静で、ジャリジャリと靴底で注射器の破片を踏みしめながら「どこに仲間が居るんでしょうかね」と不穏な事を尋ねてくる。
こんな状況下に陥っても怯える様子はなく、むしろ他人事のように落ち着いている。
その姿に勝彦は微かな違和感を覚えた。
胸中がざわつく。
聡の落ち着いた態度が妙に引っかかる……。
元より聡は大人びた子だ。いつも冷静沈着で、小学生とは思えない言動をする。
そして怖いもの知らずだ。それこそ、肝試しでこんな廃病院に足を踏み込むほどに。
……だけど、これは怖がらなさすぎではないだろうか。
「……、先生、どうしました? 先生?」
「……あっ、ご、ごめん。なにかあったかな」
「考え事をするならもう少し安全な場所が良いと思いますよ。今はこれからどうするか決めないと」
聡の話は尤もだ。だがそんな言葉もまた勝彦の中の違和感を色濃くさせる。
だが確かに今は考え事をしている場合ではない。聡の言う通り、行動に移さないといけない。……たとえ彼が妙に落ち着いて正論を話しているとしても、今は従うべきだ。
そう胸に残るつっかえを押し止め、勝彦は聡に向き直った。
「えっと、そうだね……。すぐに警察が来るとは思うけど、向こうが何人いるのか分からない以上、病院を出た方が良いと思う。なにより北条君と鴨川さんの事が心配だ。車の中でも安全とは言い切れないからね」
「じゃあ脱出ですね。それで、まずはどうします?」
「エントランスホールに戻ろう。誰も居ないタイミングを狙って車まで走るんだ。車内の二人に連絡をして、僕達の姿が見えたらドアを開けてもらおう」
車まで走り、車に飛び込み扉を閉める。あとは車を走らせて途中で警察と合流。これで安全だ。
そう話せば聡が目を丸くさせた。日頃から小学生らしからぬ落ち着きを見せ、表情を変える時も苦笑か亮也の奔放さに呆れるぐらいの彼にしては珍しい表情だ。
それどころか慌てた声色で「ちょ、ちょっと待ってください」と制止をかけてきた。これもまた聡らしからぬ焦りが窺える。
「そんな簡単な方法ですか? もっと作戦たてたり準備するべきでは? まだ二階も見てませんし、どこかに使えるものもあるかもしれませんよ」
「二階なんて行く必要はないよ。それに使えるものって言ったって、走って逃げるなら逆に邪魔になるだろう?」
「で、ですが、さっきの鉄パイプからは走って逃げれても、最初に見た拘束具の男に遭遇したらどうするんですか? 突然現れたし、声もおかしかったし、あれは薬物中毒者とは様子が違ってました。仮に病院を抜け出せても車に向かう途中で突然現れるかもしれませんよ」
「病院を出る前に北条君達に連絡をして周囲を見てもらおう。幸い車を停めてるのは開けた場所だし、誰か居れば車内からでもすぐにわかるはずだ」
「でももし見つかって襲われたらどうするんですか。なにか武器になるものがあったほうが応戦できますし、あの男について分かるものがあるかもしれません」
だから、と食い下がるように話す聡に、勝彦は心の中で「そうか」と呟いた。
合点がいった。聡は今この状況を脱出ゲームと混同しているのだ。
夜の廃病院、突如襲い掛かる化け物のような男。その魔の手から逃げつつ廃病院内を散策し、隠された謎を解いて脱出する……。よくありそうなテーマではないか。
だから落ち着いていられるが、反面、危機感が足らない。
きっと聡の中では、欠けた注射器は謎を解くキーアイテムで、拘束具の男は散策を邪魔するボス的な化け物。ヤク中の青年はさしずめ進行を邪魔する中ボスか。
これはいけない、と勝彦は聡の両肩を掴み、正面から真っすぐに瞳を見つめた。
「いいかい、久我君。これはゲームじゃないんだ。武器もないし、化け物や幽霊もいない」
「それならあの拘束具の男は何ですか? 見るからに狂暴そうで、薬物中毒者とも違ってましたよ」
「あれは……、分からないけど、なんにせよ危険人物だ。だからすぐに病院から逃げよう。大丈夫、先生が必ず久我君を守るから」
「僕を守るって?」
「約束する。ここに連れてきたのは先生だからね」
しっかりと聡の目を見つめて勝彦が宣言すれば、聡は僅かに示唆した後「分かりました」とだけ返した。
彼の中で危機感と現実味がどれだけ増したかは分からないが、一応理解はしてくれたのだろう。
もっとも『ここに連れてきた』とは言っても勝彦は車を運転しただけで、そもそも肝試しを提案したのは聡である。
当然だが賛同できるわけがなく、幾度と中止を提案し諦めるよう説得した。だが聡は納得せず、更に亮也や茜まで加わりだした。
『こんなこと頼めるの先生だけなんです』
『俺達こういう遊びに憧れてたんだ』
『絶対に秘密にしますので』
そう口々に懇願されて押し切られてしまったのだ。
彼等の必死さに、息苦しい生活を送っている発散だと勝手に考えて心を揺るがせてもいた。
その結果がこれだ。
たとえ押しに負けたとはいえ、最終的に了承したのだから自分には教師として責任がある。
「いいね、久我君。先生が前を行くから着いてきて」
「……分かりました」
周囲を窺いながら部屋を出て、エントランスホールへと向かう。
幸い物音はしない。拘束具の男は右足を引きずり、薬物中毒らしき男も鉄パイプを引きずっていた。この二人は近くに居れば音で分かるはずだ。
「受付の中に入ろう。そこで身を隠しながらカウンター越しに様子を窺うんだ」
勝彦が声を潜めながら告げれば、聡が頷いて返してきた。
「音を立てないように足元に気を付けて。怪我もしないようにね」
「そんなの分かってます」
聡が肩を竦める。いまだ危機感のない態度だ。
対して勝彦は心臓が痛みかねないほどの緊張感を抱きながらゆっくりと足を進めた。
周囲はシンと静まり、車の音も風の音も届かない。パトカーのサイレンも聞こえてこないあたり、救助はもうしばらく先か。
心臓の音だけが体の中で大きく響く。息が詰まる。喉が痛い。口の中に粘着きと苦みを感じる。
それらを堪えながら、勝彦は関係者用の扉から受付へと入った。
受付内とエントランスホールはカウンターで区切られている。高さは大人の胸元程度。しゃがむだけで身を隠す事が出来るし、カウンターは一部がスイングドアになっているため機が来ればいつでも走り出られる。
そう考えてしゃがんだままカウンターに手を着けば、ギシッ、と低い音が響いた。老朽化が進んでいるのか手元が崩れ、小さな破片がカラカラと音を立てて床に落ちる。
心臓が跳ねあがった。思わず悲鳴をあげかけて慌てて口を押さえれば、背後から「なにやってるんですか」と聡の呆れ交じりの声が聞こえる。
「慎重に動いてください」
「わ、分かった、ごめんよ……。久我君も、他のところも劣化してそうだから気を付けて」
「言われなくてもこんな汚いところ不必要に触りません」
相変わらず聡の口調は淡々としており、今は院内の不衛生さへの嫌悪も混じっている。
そんな聡を横目に、勝彦はゆっくりと背を伸ばしてカウンター越しにエントランスの様子を窺った。
「良かった、誰も居なさそうだ」
エントランスホールは来た時同様に荒れたままだ。
営業時は清潔感があっただろうリノリウムの床も今はその面影無く、窓から差し込む月明かりが積もった埃と足跡を照らす。
目新しい足跡もあればその上に更に埃を積もらせたものもある。この精神病院が長く放置され、その間に幾度となく入り込まれた証だ。
荒廃した陰鬱な空気が漂う。ぞわりと勝彦の背に怖気が走り、次いで聞こえた「先生」という呼びかけに自分の意思とは関係なく体が大きく跳ねた。
「な、なんだい……?」
「誰も居なさそうですが、いつ行くんですか? 亮也と茜に連絡したところ、車の周りには誰も居ないみたいですよ」
場の空気をまったく読まない聡の言葉は不必要に驚かせるが、反面、勝彦の意識を冷静にもしてくれた。
だがやはり危機感は薄い。今この状況下では有難いが、長い目で見れば危なっかしい。
もう少し危機管理能力を着けるよう忠告しなくては。学園の序列も久我家も関係ない、自分には教師として生徒に忠告する責務がある。
そう考えれば自然と恐怖より責任感が勝り、勝彦は一度チラと聡に目配せをした。
「よし、今だ。行くよ」
小声ながらに断言し、スイングドアをぐっと押し開いた。キィイイイ!と甲高い不快音があたり一帯に響き渡るのとほぼ同時に、勝彦はエントランスの先にある出口目掛けて走り出した。
誰かが音を聞きつけただろうか。だとしたらこちらに走ってくるはずだ。それより先に外に出なくては。
転がる瓦礫やガラス片に足を取られないよう、なにより聡が自分に着いてこれるよう、気をつけながらエントランスホールを走る。
早く、もっと早く。
出入口の扉の向こうに外の景色が見え、月明かりが円状にリノリウムを照らしている。
それが勝彦にはまるで別世界への入り口のように見え、近付くたびに助かるのだと期待が膨らみ……、
ガゴンッ
大きな音がして、右足が一瞬にして重くなった。
体が大きく揺らぎバランスを崩して倒れ込めば、咄嗟に延ばした手にガラス片が突き刺さる。大きな衝突音のあとに激痛が右足から走り抜け、勝彦は堪らず悲鳴をあげた。自分の声とは思えない声が喉から溢れる。
「ぎゃっ!! ぐっ…な、なにが……!」
いったい何があったのか。
呻きながらも己の足元を確認し……、そして鉄の化け物に食われる右足に喉を引きつらせた。
「ひっ……!!」
これはと震える声をあげる。
鉄の化け物、……ではない。
痛みを訴える勝彦の思考に、一寸遅れて己の右足を喰らうものの名称が浮かんだ。
トラばさみ。狩猟に使うバネ仕掛けの罠。
開いた状態で設置し、獲物が中央を踏むと棘を生やした鉄板が両端から閉まり獲物の足を挟む。知名度の高い狩猟罠だが日本では禁止されている代物だ。
その罠が、いま勝彦の右足を喰らっている。
半円状の鉄の輪には鋭利な棘が列になり、その一部が右足のふくらはぎを貫き、それどころか今もまだ万力のような力で裂いた肉と骨を軋ませている。ギチギチと音がしそうなほど食い込み、錆と血の赤が混ざり合う。
裂かれた皮膚から血が滴り、痛みに力を入れるとプッと勢いよく血飛沫があがった。
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