第9話:教師 瀬野勝彦(3)


 一目で患者と分かる男の衣類には、黒色の太いベルトが何本も垂れ下がっている。

 胴体や腰、足、それどころか肩にまでベルトがあるがどれも飾りではない。体の自由を奪うためのものだ。全てのベルトを締めれば、歩くことはおろか腕を動かすことも身を捩ることすらも許されないだろう。


 拘束具。ゲームで見た事がある。

 だが画面に映るのと実際に目の当たりにするのとでは威圧感が違う。


 更に男の異常さを強くさせるのが、その動きだ。

 右に大きく揺らいだかと思えばそれを正すために左に傾く。強風に晒されているかのようだが屋内には風もなく、男だけが不自然にゆらゆらと揺れている。

 血走った眼はホールに人間がいるというのに誰にも視点を定めず、ぎょろぎょろと忙しなく黒目が左右に動く。

 その異質さに圧倒され、勝彦の体が硬直した。金縛りにあったかのように指一本動かせない。動かそうと考える余裕もない。

 いつの間に、どこから、どうやって現れたのか。

 男は勝彦達と亮也達の間に立っているのに、どうして誰も気付かなかったのか。

 静まり返った廃病院の中、静けさに反して勝彦の脳内は混乱で荒れる。


 そんな混乱さえ掻き消すように、男の口から異音が発せられた。


 オ、おォ、オおォオオヲォォおオヲ!!!


 だらしなく開けた男の口から溢れる異質な声。次いで男は大きく体を動かし、右足を引きずりながらこちらに向かってきた。

 ズリ、ズリ、と足を引きずる音がする。瓦礫やゴミを巻き込み時折男の足が不自然に曲がるが、歩みを止める様子はない。

 それどころか次第に進みは早くなり距離を詰めてくる。

 そんな男の手元で、何かが鈍く光った。


 ナイフだ。銀色の刃に、錆のような赤い汚れが付着している。

 勝彦がそれを見て取ったのとほぼ同時に、男が走り出した。


「北条君、鴨川さん! 車に戻って!」


 咄嗟にポケットから車の鍵を取り出して全力で投げれば、亮也がそれを受け取ると同時に茜の手を掴んで出口へと走り出した。勝彦もまた聡の腕を掴んで病院の奥へと走り出す。


 子供の足でも走ればすぐに車に辿り着くだろう。

 そもそも、男は勝彦達の方へと走ってきているのだ。少なくとも亮也と茜は逃げられる。


 そう考えながら、勝彦は通路にある一室に入った。

 壁には棚が並び、そこに積もる埃が廃業してからの年月を感じさせる。左右の部屋と繋がっており、これならばあの男が入ってきても逃げ道はある。

 扉からの死角に身を寄せ深く息を吐いた。

 懐中電灯を消せば手元は暗くなるが、窓からの月明かりがある。格子こそついていて重々しいが病院は窓の多い設計をしており、幸い真っ暗闇にはならない。かつては日の光をふんだんに取り入れた眩い施設だったのだろう。


「久我君、大丈夫だった?」

「僕は平気です。先生、さっきの男は何だと思いますか?」

「あれは……」


 言いかけ、勝彦の脳裏に聡から聞いたこの病院の怪談が蘇った。


『違法薬物とロボトミー手術の果てに気が狂い、病院関係者を殺して回った男。彼は自分が死んだことに気付いておらず、最後の一人である院長を探して今も病院の中を彷徨っている……。』


 ――あれは、もしかして。


 ゾワリと勝彦の背を怖気が走る。

 だが次の瞬間には何を馬鹿なと己の考えを打ち消した。


「何かは分からないけど、とにかく危険だ。久我君は先生のそばを離れないで」

「分かりました。それで、どうするんですか?」


 聡にじっと見つめられ、勝彦は考えを巡らせた。


 亮也と茜が無事に車に戻れていれば、すぐに携帯電話で警察に連絡を入れるだろう。景色こそ田舎めいてはいるがここは都内、場所も明確だから警察もすぐに来るはず。

 それまで身を隠すか、もしくは病院から抜け出すか。

 生憎と案内図は見ていないが、外から見た限りではこの病院は二階建て、広さもかなりある。経営時は入院患者も居たらしいので地下設備もあるかもしれない。


 異常者であれども相手は一人。

 身を隠してやり過ごすのも、見つからぬよう建物から逃げ出すのも、けして不可能ではない。


 それを話せば、聡が「分かりました」とあっさりと返事をしてきた。

 次いで不思議そうに勝彦を見つめてくる。眼鏡越しの聡の黒い瞳はまるで相手の胸の内を見透かそうとしているかのようで、時折、勝彦は居心地の悪さを覚えていた。今もだ。


「先生は怖くはないんですか?」

「えっ……あ、そうだな。もちろん怖いよ」


 問われ、途端に恐怖が足元から這い上がってきた。「怖い」と発言すれば己の中で血の気が一気に引いていく。

 走った事で鼓動を速めていた心臓が、今度は一瞬にして縮こまったような痛みと息苦しさを訴えだした。足が震える。今更ながらよく咄嗟に亮也達に鍵を渡し、聡を連れて逃げ出せたものだ。

 だがそれを悟られまいと、声の震えをなんとか堪えて話を続けた。


「逃げる時は怖さなんて感じてる余裕は無かったからね。それに、今は落ち着いて行動しないと」


 ――そうだ、落ち着かないと。


 己に言い聞かせ、荒れかけた思考と鼓動を深呼吸して落ち着かせる。

 聡の様子を窺えば、彼はこの異常事態にありながらも落ち着きを見せているではないか。周囲を見回して安全を確認し、次いでポケットから携帯電話を取り出した。


「亮也と茜は車に戻れたようです」

「良かった、無事に戻れたんだね。これで直ぐに警察が来るはずだ」


 となれば病院からの脱出は考えず、奥まった場所に身を隠してやり過ごすべきか。

 だがあの男が狙いを亮也達に変える可能性もある。出来れば早めに合流したいところだ。だけど下手に動いて男に見つかり、追われて男を連れて車に……なんて事になっては元も子も無い。

 どうすればいいのか、何が最善か……。


 考えが浮かんでは否定され、また浮かんでは消える。

 だが長考している時間もない。病院から脱出するにせよ隠れるにせよ、早く動かなければ。


 そう考えた矢先……、


 ガリ、ガリガリ……。

 ガリ、ガガッ、ガガガ……。


 何かを削るような音が聞こえてきた。

 勝彦の心臓が縮み上がり、体中が総毛立つ。震える体をなんとか律し、聡の手を引いて机の下に身を隠した。


 ――なにかが来る。


 ガリガリと響く不快音は次第に大きくなり、まるで勝彦の脳裏に『今そちらに行くぞ』と訴えているようではないか。耳の内に木霊して心臓が搔き乱される。

 吐き気さえ起きそうな緊張感を押さえつけながら扉を見つめれば、ゆっくりと影が伸びてきた。


 ぬぅ、と現れたのは一人の青年だ。

 先程の男ではない。年は二十歳前後か。よれたシャツと腰履きのジーンズ、半分近く地の黒毛に浸食された金髪。お世辞にも身形が良いとは言えない風貌。

 青年は鉄パイプを握っている。ガリガリという異音はそれを引きずり床を削る音だったのだろう。


「どこか、に、居るはず。はず、居るはず、なんだけどな、なぁあ……」


 呂律のまわらない口調で青年がひとりごちる。

 扉から首を伸ばして室内を眺め、がくりがくりと首を大きく揺らしながら見回す。首の動きと目の動きはちぐはぐで、ガクンと頭を下げたかと思えば白目を向きそうなほど上を見ている。

 そうして机の下に隠れる勝彦と聡を見つけると、男は声にならない歓喜のような声をあげて目を見開いた。


 笑った。

 だが血走った目には歓喜の色より狂気の色が濃く、にたりと弧を描いた口の端には涎の泡が溜まっている。

 真っ向から向けられる異質な笑みに勝彦は思わず「ひっ」と小さく声をあげた。聡がこちらを見た気がするが、男の笑みから目が離せない。


「み、見つけたぁ。見つけたぞ! ここだ、ここ、居るぞ! ここに!見つけた!」


 青年が歓喜し声をあげ、室内に飛び込んでくる。


 ――来た。


 勝彦の背に寒気が走った。

 次いで、ヒュンッ、と風を切る高い音が耳に届き……、勝彦の頭上で轟音か響いた。

 ガコッ!と耳を傷めかねないほどの衝撃音。同時に机が揺れて天板がへこむ。

 青年が鉄パイプを机に叩き付けたのだ。下に人が居ると分かったうえで。……否、机の下に人が居るからこそ。


 机の下に居る人ごと巻き込まんと、全力で。


「う、……うわ、あああ!」


 一寸遅れて理解した明確な殺意に勝彦は悲鳴をあげ、聡の手を掴むと机の下から転がり出た。

 これは敵意ではない、殺意だ。

 こちらの様子を窺うことなく、迷いすらもせず、殺そうとしてきた。

 その殺意から少しでも離れるため、もつれそうになる足をなんとか動かして右手にある部屋へと飛び込み、扉を抜けて通路へと逃げだした。


 ――なんだ!

 ――どういうことだ!!


 走る勝彦の中で答えのない疑問が湧くが、答えなどあるわけがない。

 追ってきているのか振り返って確認したいがそれも敵わず、荒れた院内を転ばずに走るだけで精一杯だ。今まさに背後であの青年が鉄パイプを振り上げているのではと恐ろしい想像が浮かび、己の遅さが苛立たしいほどにもどかしい。

 そんな中、「先生!」と聡に呼ばれた。


「このままやみくもに通路走っていても危険です、どこか部屋に入りましょう!」

「そ、そうか、分かった!」


 聡に促され、手頃な部屋に身を寄せる。

 確かに当てもなく逃げ回るのは危険だ。拘束具の男も自分達を追っているかもしれないし、鉄パイプの青年は仲間を呼ぶように声をあげていた。もしもこの建物内に他にも危険人物がいるのなら、無鉄砲に移動しては遭遇する恐れがある。

 危なかった。

 落ち着かなくてはと思った矢先にこれか。

 そう己の未熟さを咎めつつ、勝彦は室内に異変は無いかを軽く確認し、聡と共に部屋の一角に腰を下ろした。


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