第11話:教師 瀬野勝彦(5)


 ――なんでこんな物が!

 ――来た時には無かったじゃないか!!


 虎挟みはぎっちりと勝彦の右足を咥えており、鋭利な棘が皮膚と肉を突き破って右足を締め付ける。激痛と理解しきれない光景、それらが勝彦の思考を搔き乱す。

 ねばついた脂汗が額に浮かび、顎に溜まった水滴がポタと服に落ちてシミを作った。汗か、涙か、鼻血でも出たか。それを確認する余裕もない。

 そんな勝彦を更に絶望に突き落とすのが、ガリガリと何かを削る不快音。


 ――来た。


 今でさえ最悪なのに、それを上回る最悪な展開を連想させる音に、激痛と混乱に占められていた勝彦の思考が一瞬にして冷えついた。

 全身に氷水をぶちまけられたかのように体が凍てつく。

 どこに、と振り返ると同時に目を見開いたのは、鉄パイプを大きく頭上に掲げた青年の姿が眼前にあったからだ。


「久我君、にげっ……!」


 逃げて、と言い掛けた勝彦の言葉が、最後まで発せられず「ぎっ!!」と歪な声に変わった。

 千切れんばかりの勢いでガクンと頭が下がる。目の前が白く瞬き、意識も考えも全て弾け飛んだ。喉から熱がぐっと込み上げ堪える間もなく口から溢れた。ビチャビチャと不快な音が耳に届き、苦しさに喘ぐもまたも喉から嘔吐物が零れる。


 息をしているのか、吐いているのか。それを考える事すら出来ない。

 緩慢な動きで頭を押さえればヌルリと手が滑り……、


 次の瞬間、その手ごと何かが脳天を叩きつけてきた。

 自分の指がひしゃげるのが、見えていないのに間隔で分かる。


 殴られたのだ。

 鉄パイプで。

 頭を。手と共に。

 ならば手を滑らせるこれは血か。ボタボタと落ちるのは脳みそか。いや脳みそが出たら考えられないか。


「ぐぁ、ぎっ……ぐが、ぐん、にげで」


 地に伏せたまま、それでも勝彦は顔を上げて聡を呼んだ。

 視界が揺らいで聡の姿が見えない。既に逃げているかもしれないが、恐怖で動けずにいるかもしれない。彼だけは逃がさなければ。

 必死になって聡の姿を探せば、「先生」と声が聞こえてきた。彼の声だ。


 同時に、勝彦の視界に何かがひょいと映り込んだ。

 靄掛かった視界に薄っすらと黒が混ざる。聡の黒髪か。ならば彼は顔を覗き込んできたのか。


「ぐが、ぐん……早く……」



「残念ですが、ゲームオーバーです」



 異質な場に、聡のあっけらかんとした声が響いた。

 場違いなその言葉に勝彦の口から声が漏れた。もっともまともな声ではなく、血の固まりと嘔吐物が混ざり合いゴポッと溢れ、その合間に声のような音が漏れ出たという方が正しいだろう。中途半端に開かれた口からは粘度の高い液体が伝う。


「すぐに出口に向かったところで逃げられるわけないじゃないですか」


 まったく、と聡が呆れと不満を綯交ぜにしたような声で話し出した。


「真っすぐに出口を目指すなんて初心者でもやりませんよ。マップも見ないし、やたらと通路を走り回るし。本当にホラーゲームをやってきたんですか? 二階に敵もヒントも配置したのに全部無駄になったじゃないですか」


 呆れを込めた声色で話す聡の隣で、鉄パイプを持った男がへらへらと笑う。

 ……笑うだけだ。

 勝彦の頭に容赦なく叩きつけた鉄パイプを今は大人しく片手に納めている。もしも勝彦の視界が鮮明だったなら、鉄パイプにこびりつく血と肉片が視認できだろう。

 青年はしまりない笑みを浮かべたまま「金、金」と呟いており、それを聡が冷ややかに見た。


「金を渡したところでどうせ薬に使うんでしょう」

「薬、金で、また薬……」


 二人の会話が何を意味しているのか今の勝彦には分からない。

 理解しようにも思考が動かないのだ。やはり頭に鉄パイプを叩きつけられて脳みそが零れ落ちたのかもしれない。

 そんな勝彦の視界にゆらりと人影が映った。聡の背後に誰かが立っている。


 オォおおヲヲオオ、

 おぉおおオオオオをおおをぉ、


 地を這うようなこの声は……。


 ――あの男だ、


「あっ、ぐ……、がっ、ぐぅ」


 聡に告げようと口を開くも、しゃがれた声が出るだけでまともな言葉にならない。

 ならばと手を伸ばせば激痛が指先から脳に走った。鉄パイプで叩きつけられた右手。手の甲は大きく歪み、人差し指は第一関節が上向きに曲がり、中指と薬指は潰れて肉がひっついている。


 ――伝えなければ、逃がさなければ……!


「くがっ……く……にげて……」


 勝彦が必死に言葉を紡ぐ。

 だが次の瞬間、耳をつんざく轟音がそれを掻き消した。


 たとえるならば、何かが爆ぜるような音。


 周囲の空気が痺れるのが肌に伝った。音に反応してか頭蓋と手足の骨が軋んで痛み、呻いて再び嘔吐した。

 その音に続くのは何かが倒れる音。ドシャ、と重量のあるその音に揺らぐ視界ながらに目を凝らせば、拘束具の男が倒れているのが見えた。

 目を見開き、ビクビクと体を跳ねさせ、大きく開かれた口からは変色した舌がだらしなく垂れて地面に粘ついた唾液を落としている。


 なにがあったのか。歪む思考で疑問を抱く勝彦の耳に、数人の足音が聞こえてきた。

 足を引きずるでもない、鉄パイプを引きずるでもない、普通の歩みからなる音だ。


「聡は相変わらず冷めてんなぁ。『久我君は僕が守る』なんてかっけーじゃん」

「えぇ、さすが教育者。ご立派でしたわね」


 足音の正体は、普段となんら変わらぬ調子の亮也と茜。

 それと彼等を囲む黒いスーツを着た体躯の良い男達。重苦しい風貌と威圧感だが亮也も茜も平然としている。


「危機的な状況でも生徒を守る、これぞ教師の鑑ってやつだろ。アニメのヒーローでいそうだよな」

「すぐに病院から逃げようとしなければもっとご立派でしたのに。それに関しては残念ですわ」

「まぁ確かに、二階の仕掛けが無駄になったのは残念だよな。俺が考えた罠もあったのにさ」

「二階には私のアイデアもあったので、ぜひ先生にはご覧になって頂きたかったわ。聡さんの暗号だってとても面白かったのに」


 亮也と茜の会話にもやはり危機感は無い。

 まるで彼等の部室、北校舎三階端の空き教室にいる時のよう。興味のあるものについては饒舌に語り時に不満を露骨に声色に出す亮也と、対して感情の起伏は少なく終始上品に話す茜。普段の彼等らしい、異常事態をまったく感じさせない会話。


 警察が来たのだろうか。

 だが警察は黒一色のスーツで現場に来るだろうか。子供達を安全な場所に保護しようとする素振りも無い。


 おかしい。すべてがおかしい。

 なによりおかしいのは彼等の会話だ。


 これではまるで、今夜のことを仕組んだのが彼等のようではないか。


「え……」


 勝彦の喉から困惑の声が漏れる。

 そんな困惑を断ち切ったのは、聡の無情な言葉だった。


「先生、恐怖する様を見せてくださりありがとうございました。とても興味深く拝見できました」


 借りた本を返すかのような口調と声色。

 聡のこの言葉に、茜は穏やかに微笑んだままで首肯し、亮也に至っては黒スーツの男に纏わりつき「さっき何撃ったんだよ、俺も撃ちたい」と探っている。興味の矛先は既にそちらに移ったようだ。


「今夜の件、約束通り誰にも話さずにいてくれたんですね。ありがとうございます」


 感謝され勝彦は虚ろな瞳で聡を見上げた。

 誰にも話さずに。そう約束した。息苦しい生活を送る彼等に『内緒の肝試し』という特別な体験させてあげよう。そんな事を考えたのも思い出す。


 ――だって先生だから。


 そう考えるのとほぼ同時に、勝彦の意識は白んで途絶えた。



 ◆◆◆



 とある廃病院で火災が起こった。

 建物は全焼。幸い周囲に燃え移りはしなかったものの、焼け跡から数人の遺体が発見された。

 二十代の男女数名と、


 休職中の元教員一名。


 彼等は廃病院を根城に薬物を使用しており、不注意によりタバコが引火。薬物の副作用で逃げることが出来ず……。

 というのが報道された全貌である。


 白羽学園はこの件に関して無関係を貫いた。

 遺体で発見された瀬野勝彦は確かに臨時職員ではあったが、彼が務めた期間はたった数週間。事件の一ヵ月前には自主退職をしている。彼が薬物に手を染めたのは時期的に退職後と警察の調べて判明しているので生徒達への影響は無い。

 そう学園は世間に公表した。そして学園の背後には生徒達の親がついている、……となれば、いったい誰が異論を唱えられるだろうか。

 ニュース番組はこの事件を報道せず、世間も『ヤク中達の自業自得』と決めつけて終わりにした。




 廃病院での火災から三週間、誰もが事件を忘れた頃。

 白羽学園の北校舎三階隅、空き教室。

 こわいもの倶楽部の三人は今日もこの教室を陣取り各々好きに過ごしていた。そんな中、三人の手が同時に止まった。

 亮也はゲームの対戦が終わり、聡は読んでいた本の章区切りに到達し、茜は刺繍の一角を終えた。ちょうどそのタイミングだ。

 誰からともなく一息吐き、再び手元へと意識をやろうとし……、


「あーあ、つまんねぇの」


 亮也が痺れを切らしたように声をあげた。声色には退屈への不満がこれでもかと込められている。

 そんな亮也に、聡も茜も同感だと頷いた。


「この間も全然怖くなかったし。はやく誰か来ねぇかなぁ」

「いくつか興味深い話はあるので、誰か来てくれれば良いんですが」

「えぇ、本当。どなたかいらっしゃらないかしら」


 三人の視線が教室の扉へと集まる。

 だが扉は静かに佇むだけで、しばらく待てども開かれることはない。

 退屈そうに溜息を吐き、三人は同時に願望を口にした。


 早く『こわいもの』を見つけたい。

『こわい』を味わってみたい。


 だが口にしたところで恐怖が訪れるわけがない。

 なので三人は再び各々の手元へと視線を戻し、退屈凌ぎに没頭することにした。




 ほんの少し扉が揺れたことを、三人は気付かなかった。




 ……教師 瀬野勝彦 了……

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