第4話:四人目の部員 戸塚幸樹(3)
更衣室を抜ければ、より湿気を帯びた空気が顔に当たる。塩素の匂いがそれに混ざりつんと鼻を突く。
はたしてそこにはプールが広がっていた。
8レーンの25メートルプール。さすがに教育施設だけあり流れるプールやウォータースライダー等の娯楽めいたものは無いが、それでもプール自体は広く立派で、レーンや場所によっては深さも違うのだろうプールサイドには数値が書かれている。
壁沿いにはベンチが並べられ、一角に設けられた棚にはビート版を始めとする補助道具がしまわれている。非常灯が薄ぼんやりとそれらを照らし、プールサイドのタイルは弱い光を受けてぬらぬらと輝く。
「水、張ってあるんですね」
幸樹が呟いた。己の声が妙に響いて聞こえる。
視線をやれば真っ暗闇のプールがあった。非常灯の明かりすらも届かぬそこは、一見すると只の暗闇のようにも見える。
だが赤と黄色を交互にしたコースロープが浮かんでいることで水が張っているのだと分かる。もっとも、そのコースロープも微動だにしないので暗闇の中で浮いているようにも見えるが。
「水泳部が使ってるんだろ」
「あ、そうか、そうですよね。水泳の授業は無いから、てっきり水を抜いてずっと使ってないのかと思ってました。そういえば、夏休みには水泳の特別授業もありますよね」
「あぁ、あれか。でも希望者だけだろ。面倒くせぇから一度も出てねぇや」
「僕も出てないです。泳ぐのは苦手なので……」
はは、と幸樹が自虐的な笑いを浮かべる。
それに対して亮也は「ふぅん」と素っ気ない返事をするだけで、プールサイドのベンチに腰掛けた。
誰からともなくそれに続いて、並ぶベンチに座る。
「私も水泳の授業には出ておりません。学校指定の水着とはいえ、殿方の前で肌を晒すのはどうにも抵抗がありまして」
「僕もですね。泳ぎを習得したいのなら専門家を呼んで個人で習った方が効率的です。それに、何十人もと同じプールにというのは衛生的にも良い印象はありません」
異国の血を前面に出した風貌ながらに茜の物言いは少し古めかしく、対して、少し神経質な物言いの聡は見た目の印象通りだ。
彼等の話に、亮也は前から知っていたと言いたげに適当に相槌を返し、幸樹はきちんと頷いて返した。
そうして、誰からともなく話をやめ、シンと周囲が静まった。
コチ、コチ……と時計の音だけが続く。壁に掛けられた時計。水泳部が活動している時ならば活気のある声に掻き消され誰の耳にも届かないであろう、秒針の細かな音。
単調に無機質に刻むその音は自分の心音と重なっているようで、幸樹は言い難い感覚にゴクリと唾を飲んだ。その音さえも自分の中で大きく聞こえ、身動ぎすらも響き渡りそうで躊躇わせる。
そんな中、亮也が「そうだ」と呟いてポケットを漁った。
「ほら、見ろよこれ!」
静かなプールに、亮也の晴れ晴れとした声が不釣り合いに響き渡った。
彼が取り出したのは手のひらサイズの黒い機械。一見するとトランシーバーのようだが、先端の蓋を外すと金属製の突起が二本現れた。
それは……、
「スタンガン?」
「あぁ、ようやく親父が買ってくれたんだ! すげぇだろ!」
まるで子供が玩具を貰ったかのように弾んだ声で亮也が話す。
これには隣に座る幸樹はもちろん、聡と茜も興味を抱き、揃えて亮也の手元へと視線を向けた。周りの視線が集まっているのを確認すると亮也は更に機嫌を良くし、「見てろよ」と前置きをして握りにある赤いボタンに親指を添えた。
瞬間――――
バチッ!
と破裂音が静かな屋内に響き、湿気た空気を震わせた。
続いて、バチッ、バチッ!と二度続け、最後は長く、三秒ほど、バチッジジジジ!と切り裂くような激しい音を響かせ続けた。
その音に合わせて、亮也の手元にある機械、その先端にある二本の突起を繋ぐように青白い光が明滅する。
「すげぇだろ! これ海外の威力が強いやつで、日本じゃ売ってないんだぜ!」
「す、すごいですね……。スタンガンなんてはじめて見ました」
「私もです。防犯ブザーは持っておりますが、スタンガンとなると、学園内でも所有しているのは亮也さんぐらいじゃありませんか?」
「そもそも校内に持ち込めるものではありませんよ。……まぁ、亮也にそんなこと言うのは今更な気もしますけどね」
三者三様、亮也の手元にあるスタンガンを眺めながら感想を挙げる。
その間もスタンガンはバチバチと激しい音をあげて青白い光を瞬かせていた。音は妙に大きく、それだけでも威嚇の効果はあるだろう。仮に幸樹がこのスタンガンを向けられたなら音と光だけで臆してしまったかもしれない。
対して亮也は臆することなく得意げに音を鳴らしていた。だがそれを聡が彼の名前を呼んで遮り、時計を見上げ「そろそろですよ」と話を変える。
零時が近い。あと数分だ。
……プールで溺死した男子生徒の幽霊が現れるという、水底に沈んだはずの彼が水上に現れるという、深夜零時。
水面はまるで夜の闇を溶かしたかのように暗い。否、黒い。まるで水ではなく黒いナニカがミッチリとプールの中に納まり、這い出るその時を息を潜めて待っているかのようだ。だとすればコースロープはそれらを押さえるためのしめ縄だろうか。
そんな事を考えてしまうほどに薄気味悪い。それでも亮也達がプールの縁にしゃがんで水面を覗き込むので、幸樹も恐怖心をなんとか押さえつけてそれに続いた。
黒い水面に、自分達の顔がまるで鏡のように写り込んでいる。
波も無く、揺れる事も無く、まるで鏡のように。
「なぁ、水面にスタンガン当てて見ようぜ。どうなるかな」
「こんなところで理科の実験ですか? やめてください」
亮也の興味は既に
そんな二人の会話に茜は品良くクスクスと笑いながら、時折、俯くためにハラリと落ちてしまう己の髪を指で掬って耳に掛けていた。その仕草は大人びていて、こんな場でなければ幸樹は目を奪われていただろう。
だが今の幸樹には彼等のやりとりや仕草を気に掛けている余裕は無く、妙な緊張感を抱きながらコチコチと鳴る時計と水面を交互に見やった。
零時まであと一分も無い。
あと五十秒、四十秒、三十秒、二十秒……、
十秒を切ったところで誰もが言葉を止め、水面をじっと覗き込んだ。
コチコチと鳴る音だけを耳が拾い、それに合わせて心の中で数を数える。
残り十秒を切った。
あと五秒だ。
四、
三、
二、
一、
…………、
………………、
誰も言葉を発せず、微動だにしない水面に映る自分達の顔だけを見つめる。
怪談話の通りなら自分の顔の横に溺死した男子生徒の顔が映り込むはずだ。そこからぬっと青白い腕が伸びて頭を掴まれ、水底に引きずりこまれる……。
だが水面には幸樹を含め四人の顔しか映っておらず、溺死した男子生徒の顔はしばらく待てども浮かび上がってこない。
プールは依然として黒いナニカのような水で満ち、溢れることも、揺れる事すらもない。
そんな中……、
バチッ!!
大きな破裂音が響き渡った。
幸樹の心臓はまるでその衝撃を喰らったかのように跳ねあがり、慌てて顔を上げて隣を見やった。
「あー、なんだよ何も起こんねぇじゃん! つまんねぇの!」
亮也が苛立ち交じりに声を荒げ、バチッとまた一度スタンガンを鳴らした。彼の手元にあるスタンガンが青白い光を放つ。
それを切っ掛けに幸樹達もプールサイドから離れた。時計は既に十二時五分になっている。言わずもがな、引きずり込まれた者は居ない。
時計を見上げ、幸樹は深く一度息を吐いた。なんだと心の中で呟く。がっかりした落胆が少し、それと大きな安堵を交えたなんとも言えない気分だ。
『真夜中零時のプール』なんて、結局はただのデマ。
怪談話なんて所詮こんなものだ。今となっては真剣に水面を覗き込んでいた自分達が浅はかに思えてくる。
「分かりきった事でしたけれど、何も起こらないとなんだか味気ないものですね」
とは、ひょいと立ち上がった茜。
スカートの裾をそっと手で直し、落胆の色を隠し切れぬ様子でほぅと息を吐いた。
「せっかくここまで来たんですし、少しぐらい何か起こってくれても良いと思いませんか? ねぇ、戸塚さん」
「そ、そうですか? ……僕は、なんだか夜中のプールって妙な雰囲気があって、今は何も無かったことに安心してます」
「あら、戸塚さん、怖かったんですか?」
「は、はは……。実を言うと少し。信じてたわけじゃないんですけど、なんだか、この空気に飲まれちゃって」
照れ隠しに幸樹が笑う。手の中に掻いていた汗は気付かれないようにさっとズボンで拭った。
そんな幸樹に対して茜は「そうでしたのね」と品の良い笑みを浮かべ、亮也は返事代わりなのかバチバチとスタンガンを鳴らす。聡は興味を抱いたように幸樹を呼んだ。
「戸塚君、信じていないのに怖かったんですか」
「はい。恥ずかしい話ですが……。あ、でもそこまで怖いってわけじゃなくて、ただ、零時になる時にほんの少し『もしかして』って思っただけです」
「そうですか。でも怖がるのは恥ずかしい話ではありません。当然の感覚です。むしろ羨ましいぐらいですね」
「羨ましい?」
「えぇ、羨ましいです。どうにも僕達は怖いと感じるものが無くて、それを求めるように怪談話の真偽を探っているんです」
「それで『こわいもの倶楽部』なんですか?」
「そうですね、そういった意味もあります」
それも設立の理由の一つだという聡の話に、苛立ちを増させた亮也の「つまんねぇの!」という声が被さった。
短い間隔で放電音を鳴らすのは苛立ちの現れか。それだけでは足りないとベンチの一つをガンと蹴りつけた。
茜が「まぁ」と亮也の粗暴な振る舞いに声を漏らすが、別段驚いた様子も怯える様子も無い。
「スタンガンが幽霊に効くか試したら面白そうだったのに、なんも出ねぇんだもんな。……おい戸塚」
「はい」
「お前、言っておいたこと守ってるんだろうな」
突然問われ、幸樹は数度目をしばたかせた。
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