第3話:四人目の部員 戸塚幸樹(2)
夜中の学校に忍び込む、と考えると難しいイメージがある。
特に白羽学園は他の教育機関とは比べものにならない強固な警備が敷かれており、生徒や教員が帰宅してもそれが緩むことはない。
校門横の警備室は夜間であろうと常に明かりが点き、窓から覗く警備員は学園前を通り過ぎる民間人にすら目を光らせている。敷地内も常に警備が巡回しており、夏や冬の長期休みはもちろん、年末年始だろうと、この学園が真に無人になる事はない。
忍び込むことは不可能。それも北校舎裏にあるプールに入るなんてもってのほか。
そう、幸樹は思っていた。幸樹でなくとも、白羽学園の学生ならば、そして白羽学園がどれほど警護な施設を知っている者ならば、同じ考えを抱いただろう。
その考えは学園前に集合しても変わらない。むしろ警備室の窓から屈強な警備員の姿が見えるたび、幸樹の中で不可能だという考えは強くなっていった。
警備員は屈強でいかにもと言った見目をしており、彼等を撒いて忍び込むなどどうあっても無理だ。さすがに生徒相手に乱暴な事はしないだろうが、もしも無理やりに取り押さえられたらと考えるとぞっとする。
幸樹は小学五年生の中でも小柄な方に入る。鍛えられた大人の男に伸し掛かられたらただでは済まないだろう。下手すれば骨折をしかねない。
だがそんな幸樹の訴えを聞いても亮也は考えを改めることなく、それどころか鼻で笑った。
「忍び込むなんて誰が言った」
言い捨て、堂々と、まるで朝の通学かのように門を通り抜けていった。
本来ならば止めるはずの警備員はと言えば、目の前を通り過ぎていく彼に対してただ頭を下げるだけだ。
聡と茜も亮也に続いて当然のような足取りで校内へと入っていくので、ぎょっとしていた幸樹も彼等の後を追うしかなかった。幸樹が通っても警備は変わらず、ただ頭を垂れ続けるだけだ。
そこに警備員たる逞しさは無い。あるのは権力に屈する大人の姿。……なのだが、こと白羽学園においてはさして珍しいものでもない。
門を抜け、誰に捕まることなく、誰を気にすることなく、堂々と歩いて北校舎の裏手にあるプールへと向かう。
白羽学園はさながら繁華街のように等間隔に街灯が設けられてはいるが、さすがに夜の十一時過ぎとなれば半分近くが消灯しており暗い。とりわけ今夜は薄墨色の暗雲が空に広がっているため月明かりも注がず、街灯の光は夜の帳に推し負けていた。
木々は幹と枝と葉の境目を失い一つの大きな影となり、それが道なりに連なっている。校舎の窓からは非常灯がぼんやりと灯る廊下が覗けるが、日中の校舎とは別の場所のように見え、幸樹は言いようのない不安を胸に抱いていた。
ここは自分が毎日通う学校なのだろうか? そんな疑問さえ浮かぶ。
「なんだか……、夜の学校って変な感じですね」
自分の声が夜の空気に響く気がして、幸樹が声を潜めて話す。
だが周囲に聞かれまいと気にしているのは幸樹だけで、後ろを歩く聡と茜は普段通りの声量で話しており、幸樹の隣にいる亮也もさして変わらぬ声量で「そうか?」と尋ねてきた。
どうやら夜の学園という空気に飲まれているのは幸樹だけらしい。
「変な感じって?」
「薄気味悪いって言うか……。正直に言うと怖いですね。北條先輩は怖くないんですか?」
「怖い? ただ人気が無くて暗いだけだろ。それが怖いって、よく分かんねぇな」
亮也が周囲を見回す。その様子には確かに怯えている様子はない。幸樹からしてみれば『人気が無くて暗い』というだけで恐怖に値するのだが。
これが小学六年生なのか、自分も来年にはこうなるのだろうか。そう幸樹は考え、すぐさま考えを打ち消した。自分はきっと来年も同じだろう、変われる気はしない。
そうしてしばらく学園内の敷地を歩き、プールへと辿り着いた。
プールは独立した建物になっており、他の校舎と違いドーム型をしている。天井部は日の光を取り込めるようにガラス張りになっており、晴れた日は明かりを点ける必要がないほどに眩しいという。
「ここまで来たけど、鍵はどうするんですか?」
プールの出入口も勿論だが施錠されている。鍵があるのは職員室だ。
普通ならば一介の生徒は持ち出し禁止である。だがそれが分かっていても、まさかという思いが幸樹の胸に湧く。
そもそも、今ここに立っている事だって本来ならばあり得ない話なのだ。警備に止められるどころか自分達は息を潜める事もなく、ましてや足音を隠す事だってせず、学園の門を堂々と通り過ぎたのだ。
「もしかして……、鍵、あるんですか?」
「建物だけ眺めて帰るなんて馬鹿な事するわけねぇだろ」
幸樹の問いに亮也が鼻で笑いながら答え、ポケットから銀色の鍵を取り出した。キーリングを指先に引っかけて回せば、シンと静まった夜の学園内にカチャリカチャリと金属音が響く。
何の鍵、とは誰も問わない。この状況で見せつける鍵など決まりきっている。
「え、でもどうやって……」
「ほら行くぞ。あー、あっちぃ、中が涼しいと良いんだけどな」
幸樹の質問には今度は答えず、亮也はさっさとプールの出入口へと向かってしまった。
鍵穴に鍵を差し込めば軽い音が続く。あっさりと開錠され扉がゆっくりと押し開かれ、待ってましたと言わんばかりに亮也が中へ入ろうとし……、だがしかし「げぇ」と声を上げて足を止めた。
続こうとしていた聡が怪訝な顔をし「どうしました」と尋ねる。
「あっちぃ……。エアコンつけてないのかよ」
「何を言ってるんですか。夜なんですからエアコンなんてつけてるわけないでしょう」
「だからってさぁ。あーあ、こんな中で十二時まで待つのかよ。水泳部の奴等にエアコンつけたまま帰るよう言っておきゃ良かった」
「文句を言ってないで、さっさと中に入ってください」
不満を訴える亮也に聡が呆れたように返し、半ば押しやるようにして共に施設の中へと入り込む。
それを茜が追い、僅かに躊躇ったが幸樹もまた彼等を追って施設の中へと入った。
むわと湿気を帯びた生温い空気が頬に触れる。じっとりと纏わりつくようなプール独特の空気だ。風が無く空気が籠っているせいか、外よりも中のほうが気温が高く感じられた。蒸し暑い。すぐにじわと額に汗が滲んだ。
「確かに暑いですね……」
思わず幸樹が呟けば、携帯電話のライトで周囲を照らしていた聡がこちらを向いた。
ライトの光が床を滑り幸樹の足元を照らす。
「僕も暑いのは嫌ですが、物は考えようとも言いますし、こういう方が『らしさ』があって良いんじゃありませんか?」
「らしさ、ですか?」
「蒸し暑い夏の夜に現れる幽霊、なんて、いかにもでしょう」
聡があっさりと話し、道の先をライトで照らした。
更衣室だ。施設の構造は詳しくは分からないが、手順を考えれば更衣室の先にプールがあるはず。
聡がライトで照らしながらそちらへと歩き出せば、暑さに文句を言っていた亮也もそれに続く。
「殿方の更衣室ですか……」
とは、困ったと言いたげに片手を頬に当てて首を傾げる茜。
どうやら異性の更衣室に入ることに躊躇いを覚えているようだ。
これには幸樹もどう答えて良いのか分からずにいた。さすがに「それなら鴨川先輩は女性用の更衣室から」と単独行動をさせるわけにもいかないし、かといって自分も一緒に女性用更衣室に入るのも躊躇われる。
「えっと……、今は僕達以外は誰も居ないし、入って良いと思いますよ」
そもそも、夜の学園そのものが入ってはいけない場所なんだけど。と、心の中で呟く。
「そうですね。はしたない行いですはありますが、仕方ありません」
「はしたないって、鴨川先輩は気にし過ぎな気もしますが」
「戸塚さん、この事は誰にも言わないでくださいませね」
秘密ですよ、と茜が穏やかに微笑み、細い人差し指を己の唇に当てた。次いで、アッシュブロンドの髪をふわりと揺らし、先に進んだ亮也と聡を追って男性更衣室へと入っていく。彼女が去っていけば甘い残り香が幸樹の鼻を悪戯に擽った。
夜の暗がりの中でも茜の髪色は異国の血を感じさせ、それでいて佇まいや口調には古き良き大和撫子といった淑やかさを纏う。
聡を相手にした時に感じるような『大人びている』という印象とはまた違った印象に、幸樹は言いようのない感覚を覚えながら――それを『色香に当てられた』と言うとも知らずに――その後を追った。
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